サンドイッチ王国の魔法シェフ
高橋裕樹は、何よりも料理を愛する普通の高校生。ある日、学校の食堂でハムチーズサンドイッチに何を加えようか考えていると、天井から黄金の光が降り注ぐ。ふわふわとした小さな精霊「レシピ」が現れ、裕樹の料理への情熱が異世界への扉を開いたと告げる。
裕樹がたどり着いたのは、すべてが食べ物でできたサンドイッチ王国。パンの山々、ジュースの川、野菜の実る木々が広がる世界だ。しかし王国は暗い雲に覆われ、人々は悲しみに沈んでいた。レシピは、悪の魔法使いトースト伯爵が支配し、厳格なレシピ以外の料理を禁じていると説明する。自由に料理をする者は投獄されてしまうのだ。
裕樹は「味の魔法」という、料理で笑顔を生み出す力を持っていることに気づく。王国を救う決意を胸に、彼は旅立つ。最初の使命は、宮殿の地下牢に囚われたキャラメル姫を救出すること。鍵穴から溢れ出してコミカルに変身する魔法のマヨネーズを使い、姫を助け出す。キャラメル姫は素材を大切にする心を持ち、二人はトースト伯爵の兵士、辛味のマスタード軍団や酸っぱいピクルス騎士団の追撃を、姫の特製キャラメルソースでかわしながら脱出する。
次に裕樹は「スパイシー国」の料
サンドイッチ王国の魔法シェフ - カロリー計算と感動の無効化——話が通じない絶望と、それでも諦めない馬鹿一人
グラティネの広場には、朝の光が柔らかく降り注いでいた。
トースト色の城壁——焼きパンを積み上げたようなその城壁——が、昇りきったばかりの太陽に照らされてほんのり温かみを帯びている。昨日まで灰色だった空が、今は薄い水色に変わっていた。12年ぶりに、本物の晴天だった。
広場の石畳には、即席のテーブルが一つ置かれていた。そこには、虹色の友情サンドの残りが皿に乗っている。昨晩みんなで作って、みんなで食べて、みんなで泣いた、あのサンドイッチだ。
「……やっぱ、これ、やばいっしょ」
高橋裕樹——黒いショートヘアに茶色い目、指先にやけど跡がいくつもある17歳——が、皿の前で腕を組んで呟いた。サンドイッチを眺める目が赤い。昨夜からずっと赤い。泣きすぎた。
隣でキャラメル姫が、金色の髪をゆるく揺らしながらそっと目元を押さえていた。琥珀色の瞳がうっすら潤んでいて、手元の特製キャラメルソースの小瓶をぎゅっと握りしめている。
「ほんとに……撤廃されたんですね、統一調理令が」
声が、少し震えていた。
モモは石畳の上にぺたんと座り込み、ピンク色のショートボブを項垂れさせていた。星形のオレンジの瞳が、じわじわと潤んでくるのを誤魔化すように、エプロンの端をぎゅっと握っている。
「アタシ、絶対泣かないつもりだったのに」
「泣いてるじゃないか」
「泣いてない! 目から汁が出てるだけ!!」
「同じだろ」
そして、その少し離れた場所に——焦げ茶色の甲冑を纏い、乱れた長髪を肩に落として——トースト伯爵が立っていた。顔のかすかな焦げ跡。冷たかった灰色の瞳が、今は広場を静かに見渡している。城下町の虹色市場通りから、久しぶりに料理の香りが漂い始めていた。玉ねぎを炒める匂い。焼きたてのパンの甘い香り。どこかで誰かが、12年ぶりに好きなものを作っている。
伯爵は、その香りをそっと、鼻から吸い込んだ。
「……そうか」
それだけだった。でも、その声の奥には、12年分の何かが詰まっていた。
裕樹は伯爵の横顔を見た。昨日まで冷笑しか浮かべていなかった顔が、今は静かだった。ただ、静かだった。それだけで、なんだか胸の奥がじわりとした。
(あの伯爵が……)
感慨に浸っていたその時。
「……あの、ね」
肩のあたりで、ちいさな声がした。
精霊レシピだ。半透明の小さな体が、朝の光の中でぷかぷかと浮いている。普段は淡く白く光っているのに、今日はなんだか、そのきらめきが少し弱い気がした。
「言おうとしてたんだけど」
「うん?」
「言おうとしてて、でも、みんなが泣いてたから言えなくて」
「うん」
「言えなくて、言えなくて、でも言わなきゃいけなくて」
モモが顔を上げた。
「ねぇ、なんかいやな予感するんだけど」
「言えなかったのは、昨日だけじゃなくて……実は、一昨日から」
「一昨日から!?」
レシピがぷるぷると震えている。光がさらに弱くなった。
「次元の裂け目が、開いてる」
シーン。
広場の空気が、一瞬で固まった。
キャラメル姫が持っていたキャラメルソースの小瓶を、ポトンと落とした。
モモが立ち上がり、両手を腰に当てて、ものすごい顔でレシピを見た。
裕樹の喉から、変な音が出た。
「……え? 今……なんて言った?」
「次元の裂け目。グラティネの上空に、黒い亀裂が……一昨日から、ずっとある」
「一昨日から!!!」
「言えなくて!!」
「一昨日って、カビ将軍と戦ってた時じゃないか!! そのあたりからずっと!?」
「みんな大変そうだったから!!」
モモが額に手を当てた。
「いや待って。1分前から言えたでしょ。さっきも言えたでしょ。なんで今!!!!」
キャラメル姫が石畳から小瓶を拾い上げながら、落ち着いた声で言った。
「……えっと、裕樹さん。これってどう思うんですか」
「どう思うんですかじゃなくてですね!?」
トースト伯爵が腕を組んで、レシピを見た。冷静だった。ただし、目が笑っていなかった。
「裂け目の向こうには、何がある」
レシピが震えながら答えた。
「……魔王ヴォイドの、四天王。トースト伯爵の改心で——あの、改心してくださったことは、本当によかったんですけど——伯爵の負の感情が消えた結果、世界に残留してた闇の力の残滓が行き場をなくして……それが次元の裂け目として、具体的な形になって」
「だと思う、で締めないでね」
「……だと思います」
「締めたじゃないか!!!」
その瞬間だった。
グラティネの空が、軋んだ。
裂けるような音ではなかった。もっと静かな、世界がひびを入れるような音だった。裕樹は空を見上げた。
朝の水色の空に、黒い線が走っていた。
一本。二本。三本。まるで誰かが空を引っ掻いたみたいに、暗い亀裂がひろがっていく。広場の住民たちが顔を上げ、ざわめきが広がった。裕樹の指先が、じりっと熱くなった——味の魔法が反応している。でも、何に反応しているのか、まだわからない。
裂け目の端が、ぱきりと開いた。
そこから現れたのは——静かだった。
派手な登場じゃなかった。爆発も雄叫びもなかった。ただ、人の形をした何かが、空の裂け目からゆっくりと降りてきた。
裕樹の倍近い長身。真っ黒な衣。人の肌をしているはずなのに、光が当たっても反射しない。目があった——はずなのに、瞳に何も映っていない。表情が、なかった。怒りでも悲しみでも冷笑でも嫌悪でもない。ただ、何もなかった。
レシピがぷるぷると震えた。
「魔王ヴォイドの四天王……腐食王ネクロ。詳しいことは、まだ確認が取れていないんだけど」
「まだ確認が取れてないのに言うのか!!」
腐食王ネクロが、広場の石畳に静かに降り立った。足音すらなかった。
裕樹は一歩、前に出た。
(大丈夫だ。伯爵もカビ将軍も、料理で心を動かせた。今回だって)
前アークで積み上げてきた自信が、胸の奥でしっかりと灯っていた。どんな相手でも、心があるなら、料理は届く。それが、裕樹の戦い方だ。
テーブルに残っていた友情サンドを一切れ、皿ごと手に持った。虹色の光は薄れているが、それでも温かさが手のひらに伝わってくる。
「まあ聞いてくれよ。これ、やばいっしょ!」
裕樹は真顔でネクロに向かって友情サンドを差し出した。
ネクロが受け取った。
ゆっくりと、一口。
広場が静まり返った。
ネクロが口を開いた。
「小麦粉由来の炭水化物、43グラム。タンパク質、18グラム。脂質、12グラム。推定カロリー、346キロカロリー。栄養バランス——可」
平坦な声だった。感情が一ミリも入っていない。
裕樹の目が、点になった。
(……え?)
モモが小さく「は?」と言った。
キャラメル姫が手元のキャラメルソースの瓶を、ぎゅっと握り直した。
「ちょっと待って」裕樹が言った。「もう一回食べてみてくれ」
「処理済み」
「いや処理じゃなくて、味わって。美味しいって感じろ」
「不明」
「感動しろよ!!」
「測定不能」
三連続で殴られたみたいだった。裕樹の頭の中で、何かが静かにぐるぐる回り始めた。
モモが素早く、自分のエプロンのポケットから桃キャンディを取り出した。フルーツ国シトラリアで長年磨いてきたお菓子作りの技——その集大成の一粒だ。口の中で溶けた瞬間、果樹園の甘い記憶が広がるような、あのキャンディ。
「ねぇねぇ、これ食べてみて!!」
ネクロが受け取った。口に入れた。
「過剰糖分。摂取非推奨」
モモの笑顔が、0.3秒で凍りついた。
「……摂取、非推奨?」
「糖分過多は代謝効率を低下させる」
「アタシのキャンディに向かって代謝効率!!!!」
キャラメル姫が一歩前に出た。手が微妙に震えているが、それを隠すように小瓶をポケットから取り出し、残っていた特製キャラメルソースを、急いで新しいサンドイッチの切れ端にかけた——と思ったら、緊張でソースが半分石畳に落ちた。
「これは……準備体操、です」
「準備体操でソースは落とさないと思うんですが」
「準備体操の一環です」
真顔で言い張りながら、なんとかソースをサンドイッチにかけてネクロに差し出した。
「甘味の魔力が込められた、特製キャラメルソース添えです。食材を大切に作りました。どうか……」
ネクロが口に入れた。
「追加ソース確認。糖分濃度——上昇。風味データ——更新完了」
「風味データ!!!!!」
裕樹の頭の中で何かがプチッと切れた。
「データじゃなくて! 味があるだろ! ちゃんと味がある! 姫が心を込めて作ったんだ!」
「……」
「感じないのか!?」
「感情パラメーター——存在せず」
その言葉が、広場に静かに落ちた。
感情パラメーター、存在せず。
モモが拳を握りしめていた。モモはこういうとき、怒りを隠さない。でも今は、怒りの出し先がどこにもなくて、ただ唇を噛んでいた。
キャラメル姫は一度、うつむいた。それからまた、静かに顔を上げた。その琥珀色の瞳に、諦めはなかった。ただ、複雑なものが揺れていた。
裕樹は、ネクロの目を見た。
光を反射しない目。なにも映っていない目。伯爵は冷笑があった。カビ将軍は負の感情があった。でもネクロの目には——本当に何もなかった。痛みもない。怒りもない。憎しみすらない。ただの、空白だった。
(どうすれば……届くんだ)
その瞬間、ネクロが動いた。
腕を横に広げる。たったそれだけの動作だった。でも、ネクロの体から灰黒色のオーラが滲み出し始めた——腐食の力だ。あのカビ将軍が持っていた力に似ているが、もっと冷たい。もっと静かな破壊の気配。石畳の端が、じわりと変色し始めた。食材でできた城壁の一部が、灰色に変わっていく。
広場の住民たちが悲鳴を上げた。後退する足音が広場に広がる。
「下がれ!!」
裕樹が叫んだ瞬間——それより速く、誰かが前に出た。
真っ黒なマント。焦げ茶色の甲冑。185センチの長身が、住民たちとネクロの間に立ちはだかった。
トースト伯爵だった。
両手を前に出し、魔力のバリアを展開する。黒みがかった光の壁が、腐食のオーラを押しとどめた。ぎりぎりと音を立てながら、でも確かに、国民を守っている。
広場から、音が上がった。小さな声だった。でも確かに、声だった。
「伯爵が……守ってる」
「あの人が……」
住民たちの目が、伯爵に向いた。12年間、その名前を恐れた住民たちの目が。でも今、その視線には恐怖がなかった。
感謝だった。
伯爵の肩が、わずかに動いた。気づいているはずだ。自分に向けられる、初めての——蔑みではない視線に。
裕樹はその横顔を見た。冷静を保とうとしている顔。でも耳の先が、ほんの少し赤かった。
(あの伯爵が……)
胸の奥でじわりと温かいものが灯った瞬間、隣でキャラメル姫が小さく息をついた。金色の髪が朝日を受けて、きらりと輝く。その横顔が、伯爵を静かに見守っていた。穏やかで、少し眩しそうな顔で。
裕樹はその横顔を、一瞬だけ見た。
なんか、きれいだな、と思った。
(——って、今そんなこと考えてる場合じゃない!!)
頭を振って、ネクロに向き直る。
ネクロはバリアを見て、頭を少し傾けた。
「非効率な防御形態。エネルギー消費率——過大」
「うるさい!!!」
でも裕樹の頭の中では、全速力で考えていた。
伯爵の心には届いた。カビ将軍も消えた。でも——
(感情パラメーター、存在せず)
あの言葉が、ぐるぐると頭に残っている。
味の魔法の発動条件は「食べる相手への真心」だ。でもそれは、相手に心があることが前提なのではないか。相手の心に、届くことが前提なのではないか。伯爵には、傷ついた記憶があった。料理への愛があった。その扉をこじ開けることができた。でもネクロには、扉そのものが——
「裕樹」
耳元で、レシピが小さく言った。
その声が、いつもと違った。震えていたが、今度は怖さからじゃない。もっと、言いにくいことを言うときの震えだった。
「味の魔法はね……相手の心に届くことで力になる。でも、もし相手に心そのものが……最初から存在しないとしたら」
裕樹の足が、止まった。
「届く場所が、ない、かもしれない」
广场が風に吹かれた。朝の空気が、さっきより冷たくなった気がした。
裕樹は、ネクロを見た。
腐食のオーラが、静かに、次の段階へと蓄積されていくのがわかった。伯爵のバリアが軋む音が、少しずつ大きくなっていく。時間は、あまりない。
(どうすれば……)
その言葉が、口から出た。声にもならないくらいの、小さな呟きだった。でも、その言葉は広場の空気の中に浮かんで、誰にも拾われないまま、宙に残った。
ネクロが、また腕を広げた。腐食のオーラが、次の段階へ。静かに、止まることなく、積み上がっていく。
裕樹は、拳を握りしめた。
(心がないなら、届けようがない——それが本当なら)それが本当なら、俺の戦い方は、最初から通用しないことになる。これまでの全部が、無意味だったことになる。
そんなはずがない。そんなはずはない。でも——答えが、今は見つからない。
レシピがぽつりと言った。
「……ごめんね。私の確認が足りなかったせいかも」
モモが天を仰いだ。
「今そこだけ普通に落ち込んでる!!!!」
だが誰も笑えなかった。
ネクロが、静かに立っている。広場の空気が重くなる。伯爵のバリアの軋む音が続く。そして裕樹の胸の中で、初めて——本当に初めて——答えが見えない恐怖が、じわりと広がり始めた。