サンドイッチ王国の魔法シェフ
高橋裕樹は、何よりも料理を愛する普通の高校生。ある日、学校の食堂でハムチーズサンドイッチに何を加えようか考えていると、天井から黄金の光が降り注ぐ。ふわふわとした小さな精霊「レシピ」が現れ、裕樹の料理への情熱が異世界への扉を開いたと告げる。
裕樹がたどり着いたのは、すべてが食べ物でできたサンドイッチ王国。パンの山々、ジュースの川、野菜の実る木々が広がる世界だ。しかし王国は暗い雲に覆われ、人々は悲しみに沈んでいた。レシピは、悪の魔法使いトースト伯爵が支配し、厳格なレシピ以外の料理を禁じていると説明する。自由に料理をする者は投獄されてしまうのだ。
裕樹は「味の魔法」という、料理で笑顔を生み出す力を持っていることに気づく。王国を救う決意を胸に、彼は旅立つ。最初の使命は、宮殿の地下牢に囚われたキャラメル姫を救出すること。鍵穴から溢れ出してコミカルに変身する魔法のマヨネーズを使い、姫を助け出す。キャラメル姫は素材を大切にする心を持ち、二人はトースト伯爵の兵士、辛味のマスタード軍団や酸っぱいピクルス騎士団の追撃を、姫の特製キャラメルソースでかわしながら脱出する。
次に裕樹は「スパイシー国」の料
サンドイッチ王国の魔法シェフ - どん底の避難所——泥だらけのパンと、消えかけた魔法の灯
カビ将軍に完敗した夜の記憶は、まだ体にこびりついていた。
地面に叩きつけられた衝撃。サンドイッチが瘴気に触れて腐り落ちた瞬間。光が消えた音——というか、音すらしなかった。ただ静かに、ぐちゃっとつぶれた。それが高橋裕樹には一番こたえた。
シトラリアの郊外にある避難所は、もともと農家として使われていた建物だった。フルーツ国の住民たちが、腐食から逃れるために急いで改造したものらしい。天井が低く、壁はくすんだ果樹の木材でできていて、あちこちにひびが入っている。窓の外は灰色の空。ヴェルデの森——フルーツ国の食材供給源として長年人々を養ってきたあの緑の森——から立ち上る腐臭が、ここまで漂ってくる。
キャラメル姫の右腕は、包帯を巻かれていた。
裕樹がそれを巻いたわけじゃない。避難所に着いてすぐに呼ばれた薬師——白髪頭の小柄な老人で、フルーツ国で薬草と食材を組み合わせた治療を長年行ってきたという——が応急処置をしてくれたのだ。だが老人は処置をしながら首を振った。
「食材由来の腐食は……治療法がない」
低く、しかし確かに聞こえた言葉。姫はそれを聞きながら、表情一つ変えなかった。裕樹は変わりに、胃のあたりがじわりと重くなるのを感じた。
(俺が守れなかったから、こうなった)
包帯の白さが、やけに目に刺さった。その端のあたりから、うっすら灰色が滲んでいる。腐食はまだ止まっていない。ゆっくり、だが確実に広がり続けている。
それとほぼ同じ時間、モモが窓のそばに立っていた。
ピンク色のショートボブが、薄暗い窓枠に影を落としている。星形のオレンジの瞳が、ある一点をじっと見ていた。南の方角——シトラリアの郊外。桃花房があった場所。
灰色の煙が上っていた。さっきまで。
その煙が消えていた。
モモは何も言わなかった。唇を、ぎゅっと一度だけ噛んだ。それだけだった。菓子作り用のエプロンの裾を、指先で小さく握った。それだけだった。
裕樹はモモの背中を見ていた。声をかけようとした。かけられなかった。
そこに、外から声が届いた。
「あいつが来てから、フルーツ国が滅んだんだ」
複数の声。住民たちの声。避難所の壁は薄い。
「味覚の導き手って、なんだよ。ヴェルデの森を見ろよ。ぐちゃぐちゃじゃないか」
裕樹は壁際に寄って、ゆっくりとずるずる座り込んだ。膝を抱えた。壁が冷たかった。果樹の木材の、ひんやりした感触が背中を通して入ってくる。
(何も守れなかった)
そのとき、裕樹の肩のあたりでぷかぷか浮いていた精霊レシピが、もぞもぞと動いた。
レシピは半透明の小さな存在で、普段はレシピのページが光り輝いているのだが、今は光がほとんど消えかかっていた。それでもなんとか元気を出そうとしているらしく、小さな声でしゃべり始めた。
「大丈夫だよ、裕樹。歴代の味覚の導き手も、たいてい一度は失敗して——」
「続きを言うな」
レシピが口をぱくっと閉じた。
あわてて黙り込んで、そのままぷかぷかと宙に浮いたままでいる。光のほとんど消えたその姿が、場違いなくらいへなちょこに見えた。慰めようとして、慰めにもなってない。なってないどころか逆効果になりかけた。
どう考えてもそういう顔だった。
裕樹は何も言わず、膝に顔を埋めた。笑えなかったが、ほんの少しだけ、胸の中で何かが和らいだ。レシピのことを気の毒だと思ったのかもしれない。
◆
次にモモが動いたのは、それから少し後のことだった。
彼女は外の様子を探りに行き、戻ってきた。エプロンの土汚れが増えている。走り回ってきたのだろう。
「住民の一人が、裕樹の顔を密告制度で味覚監査官に報告した」
密告制度——トースト伯爵が敷く統一調理令の取り締まりを強化するための仕組みで、報告した者には十グラッセの報奨金が出る。それがこの避難所でも機能していた。
「もうすぐここも囲まれる。逃げるなら今だよ」
裕樹は動かなかった。
膝を抱えたまま、壁に背中をもたせかけたまま。足を動かそうという気力が、どこかに落ちてしまったみたいだった。
モモが裕樹の前に立った。
いつもテンション高くしゃべって、ちょかちょか動き回っているモモが、今は静かに裕樹を見下ろしていた。オレンジの瞳が、星形の光をほとんど失っている。
「泣いてる暇があるなら手を動かせ」
声が硬かった。いつもの陽気さが、完全にそぎ落とされている。
「工房が燃えても、あたしは動いてる。裕樹だって動けるでしょ」
自分だって泣きたいのに、怒りを力に変えている。裕樹にはそれがわかった。わかったから、余計に何も言えなかった。モモの言葉は全部正しかった。正しかったから、届かなかった。
床に野菜くずが転がっていた。形の崩れたパン切れもある。裕樹は機械的に手を伸ばして、それをかき集めようとした。
何か作れば、変わるかもしれない。変わらないとわかっていても、手を動かせばいいんだ。そう思った。
パン切れを手に取った。野菜くずを重ねようとした。
光が、来なかった。
いつもなら、料理に気持ちを込めた瞬間に、じわりとした温かい光が食材に宿る。料理への思いが力に変わる、味の魔法——その最初の灯りが、今は食材の一ミリも灯らない。何もない。冷たいパン切れと、干からびた野菜くずが、ただそこにあるだけ。
「全部、俺のせいだ」
声が、思っていたより小さく出た。
「俺なんかが来ても、何も変わらない」
「そんなことは——」
キャラメル姫が傷ついた右腕を左手で押さえながら、静かに言った。でも声に力がなかった。消耗しているのが、声のトーンだけでわかった。包帯の端の灰色が、また少し広がっているように見えた。
姫まで傷つけた。
その事実が、裕樹の胸の奥に、静かに、重くのしかかった。
「使えない」
モモがそれだけ言って、部屋を出ていった。
本気で見捨てたんじゃない、と裕樹にはわかった。モモが自分まで泣きそうになるのを隠すために、その場から離れたんだと。わかっていた。でもそれがわかっていても、扉が閉まる音が、裕樹をずっと一人にした。
姫がそっと隣に座ろうとした。その瞬間、右腕が痛んだのだろう——顔が一瞬だけゆがんだ。ほんの少し、すぐに戻った。でも裕樹は見た。
「……少し、休んでください」
精一杯絞り出せた言葉は、それだけだった。
レシピが肩のそばでぷかぷかしていた。光は消えたまま。
夜が来た。
◆
避難所の明かりが消えて、住民たちが眠りにつく時間になった。
裕樹は起きていた。
膝を抱えたまま、暗い部屋の壁際に座っていた。体が重かった。痛みではなく、別の何かが体に張りついている。
(俺がいなくなれば)
考えたくないのに、考えてしまう。
(俺がいなくなれば、みんな困らない。密告も止まる。监査官が囲みを解く。姫の腕も、俺がいないほうがいい方向に転がるかもしれない)
全部言い訳だとわかっていた。わかっていて、それでも足が動き始めた。
物音を立てないようにして、裕樹は立ち上がった。避難所の出口へ向かって、暗い廊下をゆっくり歩き始めた。床が古い木材で、踏むたびにきしみそうで、一歩ずつ慎重に重心をかけた。
出口の扉まで、あと数メートルというところだった。
部屋の隅に、何かいた。
裕樹は足を止めた。
毛布の陰に、小さな人影がある。膝を抱えて座っている。最初は眠れない住民かと思ったが、違った。子供だ。五歳か、六歳か——そのくらいに見える女の子。薄暗い中でも、黒くて大きな目だけがはっきり見えた。
女の子は、何かを両手で大事に抱えていた。
統一調理令の配給パン——トースト伯爵が定めた四十七品目の献立のうちの一つで、毎日第七糧食局から配給される、決まった形の、決まった味のパン——だった。泥がついていて、端が崩れかけている。それを女の子は、宝物みたいに抱えていた。
そして、にっこり笑っていた。
何かを想像しているような顔だった。わくわくしているような、楽しいことを考えているような顔。泥だらけの、崩れかけたパンを抱えながら。
裕樹は、気づいたら、しゃがんでいた。
女の子と目線が合う高さに。
(なんで、そんな顔ができるんだろう)
「……それ、食べないの?」
声をかけてから、失敗したかなと思った。夜中に知らない人間に話しかけられたら怖いだろう。でも女の子は怖がらなかった。大きな目をまっすぐ裕樹に向けて、こともなげに答えた。
「これ、お母さんと分けて食べるんだ」
それだけ言って、また笑った。
パンを大切そうに抱え直して、また何かを想像するような顔をした。
裕樹の体の中で、何かが動いた。
記憶が来た。
小学生の頃の台所。夕方の光。フライパンの音。カレーの香り——いや、カレーパンの香りだ。お母さんが台所でカレーパンを焼いていて、裕樹はその前でじっと待っていた。焼き上がるまでの時間が、すごく長く感じた。でも嫌じゃなかった。そのわくわくが、好きだった。
あの顔だ。
今この女の子がしている顔が、あの時の自分の顔だ。
ものすごく単純なことなのに、その単純さが、裕樹の胸の奥の何かを直撃した。うまく言葉にならない場所に、矢みたいに刺さった。
裕樹はその場に座り込んだ。
そのまま、声が出なかった。涙がこぼれた。声を出さずに泣いた。手の甲で拭おうとしたら、女の子がまじまじと裕樹の顔を見てきた。
「お兄ちゃん、なんでそんな顔してるの?」
「……」
「変な顔」
はっきり言った。容赦がない。
裕樹は笑うに笑えなかった。泣くに泣けなかった。なんとも言えない微妙な顔のまま、女の子に見つめられていた。女の子はそれを見てくすっとした。
(こんな時に、こんなこと言うか)
胸の奥の何かが、ほんの少しだけほぐれた。
◆
逃げるのをやめた。
それは決意という感じじゃなかった。女の子の隣に座ったら、足が動かなくなっただけだ。でも動かなかった。
(お母さんと分けて食べるんだ)
その言葉が、頭の中でぐるぐるしていた。
このパンを、もう少し美味しくしてあげたい。
突然そう思った。理由はわからない。でもその気持ちだけは、はっきりとあった。自信があるとか、魔法を取り戻したいとか、そういうことじゃない。ただ、この子が明日お母さんとパンを分けて食べる時に、もう少し笑顔になれるといいなと思った。それだけだった。
裕樹は床を見回した。
転がっているものがある。形の崩れた配給パンの残り、干からびた野菜くず、それから——床の隅に何か小さいものがある。近づいてみると、蜂蜜の欠片だった。誰かが落としていったのか、形が崩れてほとんど固まりかけているが、甘い香りは残っている。
それだけだった。立派な食材は何もない。
裕樹はそれをかき集めた。
技術を見せようとは思わなかった。うまく作ろうとも思わなかった。ただ、目の前の女の子に、一口だけ美味しいものを食べさせたい。その気持ちだけを頭に置いて、震える手を動かし始めた。
パンを開く。野菜くずを形を整えてのせる。蜂蜜の欠片を薄く伸ばす。また野菜をのせる。
途中で手が止まった。こんなもの、美味しくないかもしれない。また光は来ないかもしれない。それでもいい、と思った。光が来なくても、この子のために作る。それだけだ。
「できた? できた?」
女の子が体を揺らした。期待に満ちた声で。
手がまた動いた。
パンを重ねる。形を整える。ちゃんとした食材じゃないから、合わせ目がうまくいかない。何度かやり直した。女の子がじっと見ている。その視線が温かかった。せかさない。待ってくれている。
サンドイッチが、形になった。
その瞬間——
かすかなオレンジ色の光が、食材から滲んだ。
ほんのわずか。今にも消えそうなほど、弱い。でも確かにそこにある。裕樹は自分の手を見た。光が、手のひらを通して食材に流れ込んでいるみたいだった。止めようとも思わなかった。ただ、流れるままにした。
女の子がサンドイッチを受け取った。両手で、大事そうに。さっきのパンを抱えていたのと同じように。
ひと口、食べた。
「おいしい!」
目が輝いた。本当に輝いた。星みたいに。
裕樹の目から、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。声を出さずに。拭うのも忘れて。
かすかなオレンジ色の光が、少しだけ強くなった。消えそうだったものが、消えなかった。それだけだ。取り戻したとか、復活したとか、そういう感じじゃない。ただ、灯り続けた。
女の子はサンドイッチを抱えて、またにっこり笑った。
「お母さんにも、食べさせてあげる」
裕樹は何も言えなかった。ただ頷いた。
◆
廊下の入り口のあたりで、気配がした。
裕樹は気づかなかった。でも廊下の影から、ピンク色のショートボブが、そっとこちらを見ていた。
モモは何も言わなかった。ただ、裕樹が女の子にサンドイッチを渡す瞬間を、部屋の外から見ていた。かすかな光が食材から漏れるのを、見ていた。女の子が「おいしい!」と言うのを、聞いていた。
裕樹が顔を上げる前に、モモはそっとその場を離れた。廊下の暗がりの中で、壁に背中をつけて立った。菓子作り用のエプロンの裾を、もう一度だけ指先で握った。
(使えないなんて言ったけど)
口の中で、何かがつぶやいた。
口には出さなかった。
◆
夜が深くなった。避難所は静かだった。
裕樹は女の子が眠りにつくのを見届けて、壁に背中をもたせかけた。さっきまでとは少し違う感じで。体はまだ重い。でも何かが、ほんの少しだけ変わった気がした。
肩のそばで、レシピがぽかっと光った。
小さく、弱い光。でも確かに灯っている。裕樹の光に呼応するみたいに。
(魔法は戻った)
でも弱い。さっきの光は、ほんのわずかだった。カビ将軍に立ち向かえる力とは、比べ物にならないほど小さい。そして夜が明ければ、味覚監査官がここを囲む。逃げるか戦うかを決める時間は、もう多くない。
答えはまだない。カビ将軍に何が通じるのか、どうすれば勝てるのか。何一つわかっていない。
でも裕樹は今、膝を抱えていなかった。
壁に背中をもたせかけて、少しだけ顎を上げていた。涙の跡はまだ乾いていない。それでも、目は開いていた。
レシピの光が、静かに裕樹の頬を照らしていた。