サンドイッチ王国の魔法シェフ
高橋裕樹は、何よりも料理を愛する普通の高校生。ある日、学校の食堂でハムチーズサンドイッチに何を加えようか考えていると、天井から黄金の光が降り注ぐ。ふわふわとした小さな精霊「レシピ」が現れ、裕樹の料理への情熱が異世界への扉を開いたと告げる。
裕樹がたどり着いたのは、すべてが食べ物でできたサンドイッチ王国。パンの山々、ジュースの川、野菜の実る木々が広がる世界だ。しかし王国は暗い雲に覆われ、人々は悲しみに沈んでいた。レシピは、悪の魔法使いトースト伯爵が支配し、厳格なレシピ以外の料理を禁じていると説明する。自由に料理をする者は投獄されてしまうのだ。
裕樹は「味の魔法」という、料理で笑顔を生み出す力を持っていることに気づく。王国を救う決意を胸に、彼は旅立つ。最初の使命は、宮殿の地下牢に囚われたキャラメル姫を救出すること。鍵穴から溢れ出してコミカルに変身する魔法のマヨネーズを使い、姫を助け出す。キャラメル姫は素材を大切にする心を持ち、二人はトースト伯爵の兵士、辛味のマスタード軍団や酸っぱいピクルス騎士団の追撃を、姫の特製キャラメルソースでかわしながら脱出する。
次に裕樹は「スパイシー国」の料
サンドイッチ王国の魔法シェフ - 今さら言うな、でも続けて
伯爵が、崩れ落ちた。
焦げ茶色の甲冑が石畳に触れる、重い音がした。バシャン、というより、ずぅん、というような、もっと深いところから響く音。グラティネの広場に、その音だけが残った。
誰も動かなかった。
裕樹も、モモも、キャラメル姫も、レシピも。全員が、その場に立ち尽くしたまま、石畳に横たわる伯爵の背中を見ていた。甲冑の隙間から白い光がにじみ出て、ゆっくりと消えていく。さっきまであれほど激しく渦巻いていたバリアの光が、静かに、静かに消えていく。
風が、一度だけ吹いた。
(伯爵……)
裕樹の胸の奥に、重いものがある。言葉にならない。料理で届けた気持ちが、ちゃんと届いた。それは本当のことで、本当に嬉しかった。でも今は、それよりも別の何かがずっと重くて、言葉が出てこない。
静寂が、広場を包んでいた。
その静寂が、次の瞬間に砕け散った。
ドカァン!!!!!
「うわぁぁぁっ!?!?」
「何!?!?!?」
「あっ、えっ、あれ」
爆風が広場に広がった。砂埃と石のかけらが四方に飛び散って、裕樹は反射的に顔を腕でかばいながら伏せる。キャラメル姫も地面に両手をついてしゃがんで、レシピが弾き飛ばされるようにぴゅっと後ろに下がった。
ドタッ、バタッ、と全員がほぼ同時に低くなる音がした。
「ちょ、待って!!!」
砂埃が落ち着くまで、数秒。
全員が、ゆっくりと顔を上げた。
埃だらけだった。裕樹の黒いショートヘアに白っぽい粉がついている。キャラメル姫の金色のロングヘアもふわっと乱れていて、琥珀色の目が丸くなっている。レシピの半透明の体がほんのり灰色に染まっていた。
全員の視線が、一点に集まった。
モモが、その場に立ったまま、ポカンとした顔で自分の両手を見つめていた。ピンクのショートボブが少しくしゃっとなっている。菓子作り用のエプロンには石のかけらがついている。
「えっ、あたし、やった覚えないんだけど」
沈黙。
モモの両手のひらからは、かすかに光の粒子がふわふわと漂っていた。金色とも橙色ともつかない、伯爵から受け継いだ魔力の残光。それがモモの意思とは関係なく手からあふれ出て、隣にあった大岩に直撃したのだった。大岩は、今や粉々になってその場に散らばっている。
「…………」
「…………」
「…………」
三人がモモを見つめ続ける。モモは自分の手を見て、三人を見て、また手を見た。
「ねぇ、これ、どうすれば止まるの?」
裕樹は一瞬だけ、噴き出しそうになった。笑いが喉のところまで来て、でも伯爵が倒れているという事実がその上に重なって、変な音になって消えた。キャラメル姫も口元を手でおさえていた。
でも、その笑いは長続きしなかった。
「非効率な感情表現です」
声が、広場に落ちた。
感情のない、平坦な声。怒りでも嘲笑でもない。ただ観察結果を述べているだけの、完全に温度のない言葉。
全員が凍りついた。さっきの笑いのかけらが、一瞬で消えた。
ネクロは広場の端に立っていた。腐食の瘴気——触れた食材を即座に腐敗させる灰緑色のオーラ——が、その周囲でゆっくりと渦を巻いている。伯爵のバリアが消えた今、何もそれを遮るものがない。
裕樹は拳を握った。
◆
モモの魔力が、少しずつ落ち着いてきた。両手を胸の前でぎゅっと握ることで、あふれ出る光をどうにか抑えている。でも、完全には止まっていない。指の隙間から、ときおり光の粒がこぼれた。
裕樹は動いていた。
手元に残っていた食材をかき集める。パン生地の端くれ、野菜の欠片、伯爵の魔力が届く前から持っていた食材の残り。手際よくまとめて、サンドイッチを作る。形は不揃いで、見た目はお世辞にもきれいじゃない。でも、丁寧に重ねた。一枚一枚、気持ちを込めて重ねた。
キャラメル姫が隣に来た。
「最後のソース、使います」
小瓶のキャップを外す。残っていた黄金色のソースを、サンドイッチの上にひとたらし。甘い香りが広がった。
裕樹はそのサンドイッチを持って、ネクロの前に進んだ。
「食ってくれ」
「346キロカロリー。栄養バランス、可」
そのまま。同じ温度で。
裕樹は別のサンドイッチを作った。今度は、モモが受け継いだ魔力の光がほんの少しこぼれたのが混じった。意図してじゃない、ただそのタイミングで横にいたから。桃のキャンディの甘い香りが、かすかに乗っていた。
「これも」
「過剰糖分を検知。摂取非推奨」
二回目も、同じ温度で。
三つ目を作り始めたとき、裕樹の手が少しずれた。指先が思ったように動かない。気づいたら、手のひらがかすかに震えていた。
(届かない)
伯爵には届いた。ちゃんと届いた。泣いていた。虹色の光があふれた。あの涙は本物だった。なのに——
三つ目を、ネクロの前に置いた。
「仲間の味だ」
「エネルギー摂取の優先順位——非該当。感情パラメーター——存在せず」
三回とも、同じ速さで、同じ温度で。
全部が、データになった。
裕樹の足から、力が抜けた。ゆっくりと、ゆっくりと、膝が石畳に触れた。冷たかった。朝からずっと陽に当たっていた石畳のはずなのに、その冷たさが膝を通して体に入ってきた。
両手が石畳についている。頭が、下がっている。
「……僕の料理に、意味はあるのか」
小さな声だった。でも広場に響いた。
レシピが、光を点滅させた。何か言おうとして、言えなかった。モモが唇をきゅっと結んだ。いつもならすぐ飛んでくるツッコミが、今日は来なかった。
キャラメル姫が、動いた。
◆
足音は静かだった。小走りでも、ゆっくりでもない。ただまっすぐに、裕樹のそばに来た。
キャラメル姫は裕樹の隣にしゃがみ込んだ。金色の長い髪が、石畳の近くで揺れた。空になったソースの小瓶を両手でぎゅっと握ったまま、前を向いて座っている。
言葉はない。
ただ、そこにいる。
裕樹がちらりと横を見た。キャラメル姫は前を向いたまま、ソースの瓶を握りしめていた。普段なら、こういうとき絶対に瓶を落とす。でも今日は落とさなかった。それほど、力を込めて握っているということだった。
琥珀色の目が、うっすらと潤んでいるように見えた。
「……大丈夫ですよ」
声が、少し震えていた。全然大丈夫そうじゃない声で、でもそう言った。
(大丈夫じゃないのに、そう言ってくれてる)
裕樹の胸の奥で、何かがじわりと緩んだ。冷たい石畳の感触が、少しだけ遠くなった気がした。顔が、少し熱くなっていた。この状況で何を、と自分でも思うけど、それでも確かに、熱くなっていた。
姫の手のひらが白くなるほど瓶を握りしめている。それを見て、裕樹は小さくうなずいた。言葉より先に体が動いた。
少し離れたところで、モモが二人のことを黙って見ていた。いつもの茶化した一言も、今日はなかった。受け継いだ魔力を両手に抱えたまま、星形のオレンジの目で、ただ静かに前を向いていた。
広場の沈黙が、続いた。
◆
どれくらい、そうしていただろう。
レシピが、小刻みに震えながら口を開いた。
「ねえ……」
全員の視線が、集まった。
「ネクロって……本当に、味覚がゼロなのかな」
「……」
「……」
「……」
レシピがおずおずと続けた。半透明の体が、ほんのり震えながら光っている。
「確認、できてないんだけど」
「今さら言うな!!!!」
「今さら言うな!!」
「今さら言うな……!」
三人の叫びが、重なった。キャラメル姫の「今さら」が珍しく若干崩れていたことに、裕樹は気づいたけどそれどころじゃなかった。
レシピがびくっと震えて、光が点滅した。
「い、言いにくかったんです!! みんながすごく辛そうな顔してたから……ずっと言い出せなくて……」
「それ、伯爵と最初に戦ったときも同じこと言ったじゃないか!! いつも同じパターンで言い出せなかったって言うの、それ!!」
「す、すみませんすみません!!!」
モモが「もう!!」と言いながら、受け継いだ魔力を押さえていた手を一瞬離して、また慌てて戻した。その拍子に光の粒がぽぽぽっとこぼれて、近くの小石が三つ弾け飛んだ。全員がとっさにしゃがむ。
「ごめん今のあたしじゃない!! ……たぶん!!」
「たぶんって何!!!」
笑いが、こぼれた。
裕樹が、モモが、キャラメル姫が、同じタイミングで吹き出した。声に出したものと、出なかったものが混ざって、変な音になった。こんな状況で笑えるのか、と一瞬思った。でも、止まらなかった。
レシピが「笑ってる場合じゃないんですけど!! でも続きがあります!!」と震えながら叫んでいた。
「……でも」
声のトーンが、変わった。
さっきまでの慌てた声じゃなく、震えてはいるけど真剣な声になった。全員の笑いが、自然に収まった。
レシピが、正面を向く。
「もし……ちょっとだけ感じてたら」
広場の空気が、変わった気がした。
「裕樹の料理が……効くかもしれない」
誰も何も言わなかった。
風が止んでいた。ネクロの腐食の瘴気が、遠くで静かに渦を巻いている。そのオーラが少しずつ、次の蓄積を始めているのが見えた。時間は、あまりない。
でも裕樹は、今その言葉だけを聞いていた。
胸の中で何かが、ゆっくりと変わっていく。石畳についていた膝に、力が戻ってきた。
裕樹は、立ち上がった。
ゆっくりと。でも確実に。
(これまでずっと、料理でネクロを倒そうとしていた。でも本当の戦い方は、そこじゃないのかもしれない)
頭の中で、何かがカチりとはまった気がした。伯爵に料理を届けたとき——あれは伯爵を倒したんじゃなかった。失った何かを、取り戻させたんだ。
(なら。ネクロも……?)
裕樹はネクロをまっすぐに見た。
「お前、本当に——何も感じないのか」
ネクロは答えなかった。感情のない顔で、ただ立っている。灰緑色のオーラが少しずつ濃くなっていく。次の腐食波動の蓄積が、静かに進んでいる。
裕樹は拳を握った。
(だったら……証明する)
「証明してみせる」
声に、さっきまでなかった力が戻っていた。
キャラメル姫が隣に立った。空のソース瓶を、まだ両手で握っている。その手が、少し力を緩めていた。さっきより、ほんの少しだけ。それに気づいたとき、裕樹の顔が何かに気づいてまた熱くなったが、それを追いかける余裕は今はなかった。
モモが前に出た。両手の光が、今はちゃんと落ち着いている。星形のオレンジの瞳が、まっすぐにネクロを見ている。
レシピが、三人のそばに浮かんだ。震えは止まっていなかった。でも光は点滅していない。ちゃんと、前を向いていた。
次の問題は、わかっていた。
ネクロに本当に味覚があるのかどうか——確かめる方法が、まだ誰にもわかっていない。究極のサンドイッチを作るには、伯爵の記憶の味、モモの桃のキャンディの味、姫のキャラメルの香り、全ての想いを材料にしなければならない。そしてネクロの腐食波動の蓄積は、今この瞬間も進んでいる。
時間がない。
方法もまだない。
でも。
裕樹の目の奥に、さっきまでなかった光が灯っていた。
ネクロの周囲で、灰緑色のオーラがじわりと一段濃くなった。