サンドイッチ王国の魔法シェフ
高橋裕樹は、何よりも料理を愛する普通の高校生。ある日、学校の食堂でハムチーズサンドイッチに何を加えようか考えていると、天井から黄金の光が降り注ぐ。ふわふわとした小さな精霊「レシピ」が現れ、裕樹の料理への情熱が異世界への扉を開いたと告げる。
裕樹がたどり着いたのは、すべてが食べ物でできたサンドイッチ王国。パンの山々、ジュースの川、野菜の実る木々が広がる世界だ。しかし王国は暗い雲に覆われ、人々は悲しみに沈んでいた。レシピは、悪の魔法使いトースト伯爵が支配し、厳格なレシピ以外の料理を禁じていると説明する。自由に料理をする者は投獄されてしまうのだ。
裕樹は「味の魔法」という、料理で笑顔を生み出す力を持っていることに気づく。王国を救う決意を胸に、彼は旅立つ。最初の使命は、宮殿の地下牢に囚われたキャラメル姫を救出すること。鍵穴から溢れ出してコミカルに変身する魔法のマヨネーズを使い、姫を助け出す。キャラメル姫は素材を大切にする心を持ち、二人はトースト伯爵の兵士、辛味のマスタード軍団や酸っぱいピクルス騎士団の追撃を、姫の特製キャラメルソースでかわしながら脱出する。
次に裕樹は「スパイシー国」の料
サンドイッチ王国の魔法シェフ - 灰色に染まる背中と、膝をついた導き手
バリアが、また鳴いた。
ぎっ、という音ではなく、今度はもっと大きい。ぐぎぃ、という、何か重いものが限界まで引き伸ばされるときの音だった。
グラティネの城壁の前、トースト伯爵が両腕を広げたまま立っている。焦げ茶色の甲冑の隙間から、白い光がにじみ出ている。そのバリアが——昨日の夜から伯爵が一人で張り続けているあの光の壁が——ネクロの腐食波動を正面から受けて、大きくたわんでいた。
裕樹は上空を見上げた。
黒いもやが、さらに濃くなっている。昨日の第一波より密度が違う。ネクロが次の蓄積を始めているのが、嫌というほどわかった。
「レシピ、状況は?」
「バリアの亀裂、増えてます。昨日は三本だったのが、今は——」
精霊レシピが言葉を止めた。
言わなくてもわかった。バリアの表面を走る亀裂が、見ているそばから増えていく。四本、五本、六本。まるで薄い氷が割れていくみたいに、縦横にひびが広がっていく。その端からじわりと漏れ出す腐食の気配が、石畳の一部をぼんやりと灰色に染め始めていた。
「対抗策、もう一回考えよう」
「えっと、候補を出すと……まず一つ目は、炎唐辛子で熱による無効化を試みる——」
「それ、前の波動で試したら煙になって終わったやつですよね」
レシピが自分で出して自分で撤回した。裕樹とヒロシとタケルが、ほぼ同じタイミングで頭を抱えた。三人の頭が、ほぼ同じ角度で前に傾く。
「次!」
「二つ目は、モモの桃系魔法で甘み成分を拡散させて腐食を中和する——これも根拠が薄いんですが」
「根拠が薄いって自分で言ってる!!!」
「言いにくかったんです!!!」
「三つ目はあるんですか」
「あります。三つ目は……えーと……」
レシピが沈黙した。ちゅうちょしているというより、言葉を探している感じだった。
「……ないです」
「三つ目ないんかーーーい!!!」
ヒロシが号泣しながら叫んだ。タケルがヒロシの脇腹を肘で突く。三人が同じリズムで「うわあ」と声を漏らしながら頭を抱え直した。
キャラメル姫が、少し離れた位置で小瓶を抱えたまま近づいてきた。金色の髪が風に揺れている。
「あの、もしかしたらキャラメルソースをバリアの補強に使えるかもしれないと思って」
「それ、やってみる価値あるかも——」
その瞬間だった。
バリアの表面から、腐食の気配が強く漏れ出した。余波が広場に広がる。キャラメル姫がとっさに手をかばおうとした拍子に、小瓶が宙を飛んだ。落とした、ではない。本当に飛んだ。風圧で、完全に飛ばされた。
ガシャン!!!
石畳の上に小瓶が砕けて、黄金色のソースが飛び散る。
キャラメル姫がすっと背筋を伸ばした。耳が少し赤い。
「……落としたわけではありませんよ」
「違うんですか!?」
「飛んだんです。落とすと飛ぶは、違います」
「何が違うんですか!!!」
笑い声が、そこにいた全員からこぼれた。張り詰めた空気が、ほんの少しだけやわらかくなる。
その笑いが、次の瞬間に凍りついた。
バリアに走る亀裂が、一気に五本増えた。六本から十一本。縦にも横にも斜めにも、まるで網の目のようにひびが広がっていく。光の壁全体がぐらりと揺れて、伯爵の足が一歩、また一歩と後ろにずれた。
誰も何も言わなかった。
◆
ネクロが動いた。
感情のない動きで、両腕をゆっくりと持ち上げる。周囲に灰緑色のオーラが渦を巻いて、腐食の気配が一点に収束していく。さっきより濃い。密度が全然違う。
「本気の波動、来ます!!」
ズゥゥゥゥン————!!!!!!
ネクロが腕を振り下ろした。腐食波動がバリアに激突する。光の壁が激しくたわんで——それでも、伯爵は崩れなかった。両腕に力を込め、足を踏ん張り、甲冑の隙間から赤いものが滲んでいるのに、それでも前を向き続けた。
バリアの亀裂が、さらに広がる。石畳にひびが走って、砂埃が舞い上がった。
「バリアの補強をします!」
キャラメル姫が前に走り出た。砕けた小瓶のかけらを避けながら、残っているソースを腕に纏わせて伯爵のそばへ近づこうとする。
「姫、近づきすぎると——!」
「わかっています」
琥珀色の目が、静かに伯爵の背中を見ていた。おっとりしているのに、その目の奥だけは揺るがない。足を止めない。
広場の別の一角で、避難を呼びかける声が上がった。バリアの亀裂から漏れ出た腐食の飛沫が、広場の端に落ち始めていた。石畳が点々と灰色に染まっていく。
「逃げてください!急いで!」
ヒロシが大声で叫びながら住民たちを誘導し始めた。タケルが別の方向に走って、子供を壁際に追い込むように誘導する。
「モモ!こっちから——」
振り向いた先に、モモの姿がなかった。
少し離れた場所に、ピンクのショートボブが見えた。モモが、小さな子供を抱きかかえていた。泣いている子どもを胸に抱えて、でも動けていない。周囲に腐食の飛沫が落下していて、どこに足を踏み出しても灰色の染みがある。逃げ道が、ない。
「モモ!!」
裕樹は走った。でも距離がある。広場の幅がある。腐食の飛沫が連続で降り注いでいて、まっすぐ走れない。
その時、
「モモ!!!」
伯爵の声だった。
裕樹が見た瞬間、伯爵はバリアを手放していた。両腕を下ろして——つまりバリアを完全に解除して——石畳を蹴った。185センチの大きな体が、信じられない速さで動く。焦げ茶色の甲冑が光を反射しながら、モモの前に立ちふさがった。
次の腐食波動が来た。
ネクロが放った波動が、バリアのなくなった空間をまともに貫く。
ドン、という音は、爆発のそれではなかった。もっと重い、鈍い音だった。伯爵の体が、正面からその全部を受け止めた。
「——!!」
モモの声が、出なかった。声にならない音が、唇から漏れた。子供を抱いたまま、固まっている。
伯爵の甲冑が、じわりと変色し始めた。焦げ茶色の表面が、灰色に、灰色に、灰色に。染みが広がるように、体の端から中心へ向かって、ゆっくりと確実に色が変わっていく。腐食が、体を侵食している。
伯爵がよろめいた。
足が、震えている。両膝が、内側に入りかけた。それでも、倒れなかった。ゆっくりと、振り返った。
モモと目が合った。
伯爵が、笑った。
強がりじゃない笑いだった。冷笑でもない。勝ち誇ってもいない。ただ、本当に——満足そうな笑いだった。いつも冷たい灰色の瞳が、そのとき初めて、温かいものを映していた気がした。
そのまま膝をついた。
石畳に手をついて、そして崩れた。大きな体が、ゆっくりと横に倒れる。甲冑が石畳を打つ音が、広場に響いた。
◆
モモは泣かなかった。
子どもをそっと下ろした。震える手で、子どもの頭をひとなでする。それだけして、それ以上は何もしなかった。泣きそうな顔を、一瞬だけした。でも、唇をぎゅっと噛んで——その顔を、奥に押し込んだ。
ゆっくりと、伯爵のそばにしゃがみ込んだ。
伯爵の体から、光の粒が漏れ出し始めていた。灰色に変色した甲冑の隙間から、白くて温かい粒がひとつ、またひとつ、空中に浮かび上がる。それがゆっくりと、モモの方に向かって流れてくる。まるで帰る場所を知っているみたいに、まっすぐに。
伯爵の残した魔力だった。
モモは両手を前に出した。手のひらを上に向けて、その光を受け取るように。光の粒がモモの手に集まって、ふわりと包まれるように、両手の中に収まった。温かかった。柔らかかった。さっきまで荒々しい腐食と戦っていた力とは思えないくらい、穏やかな温度をしていた。
モモはその光を、両手でそっと閉じ込めた。
広場が、静かになった。ヒロシも、タケルも、住民たちも、誰も何も言えなかった。レシピが宙に浮いたまま、光を点滅させて、でも何も言わなかった。
「……モモ」
裕樹だけが、モモの名前を呼んだ。
モモのそばに近づいて、横にしゃがんだ。かける言葉が見つからなくて、ただモモの肩に手を置いた。17歳の手のひらが、ピンクのショートボブの下の小さな肩に触れる。指先に、モモの体温が伝わった。
モモは手を振り払わなかった。
ただ前を向いたまま、ゆっくりとうなずいた。
首が、一度だけ、下に動いた。それだけだった。でもそれが、ちゃんと届いた気がした。裕樹はモモの体温を手のひらで感じながら、何も言わなかった。言わなくていい気がした。
少し離れた場所で、キャラメル姫が二人を見ていた。
何も言わなかった。静かに、ただ見ていた。手の中に、割れた小瓶のかけらが一つ残っていた。ソースは全部飛び散って、もう何も入っていない。それでも姫は、その空の瓶を、静かに握り直した。指先が白くなるくらい、しっかりと。
◆
裕樹は立ち上がった。
モモを仲間に任せて——ヒロシが隣に来てくれた——ネクロの方に向き直った。
諦めていなかった。諦める気持ちが、全然なかった。むしろ、何かが燃えていた。胸の奥、みぞおちのあたりで、熱いものがぐるぐると渦を巻いていた。
その場に残っていた食材を見渡した。増援の荷台からまだ使っていない食材がある。レッドキングが送ってきた炎唐辛子、スパイシー国の香辛料、モモが今朝持っていた桃のキャンディ。
作ろう。
裕樹は即座に動き始めた。パンを切って、食材を重ねて、最初のサンドイッチを仕上げた。炎唐辛子を薄くスライスして挟んだ、スパイシーな一品。指先にやけど跡がある手が、慣れた動きでパンをまとめる。
ネクロの前に立って、差し出した。
「食べてみてくれ。辛くて、熱い。でも体が温まる味だ」
ネクロは動かなかった。感情のない目でサンドイッチを見て、それから口を開いた。
「カロリー補充済み。摂取は非推奨。戦闘継続の優先度が高い」
機械みたいな声だった。温度がない。裕樹の気持ちも、伯爵が張ったバリアも、全部が「データ」として処理されて、終わった。
裕樹は二つ目を作った。今度は伯爵が残していた秘伝の調味料を加えた。さっき甲冑の隣に落ちていた小瓶の中身を、全部使った。複雑な甘みと旨みが混ざった、あの伯爵が大切にしていたはずの味。
「これは、誰かが大切にしていた味だ。食べてみてくれ」
「追加データを記録。栄養価に特記事項なし。感情的価値——計測不能。無効」
同じ温度の声。同じ速さで処理された。
手が、少し重くなった気がした。
裕樹は三つ目を作った。モモから受け取っていた桃のキャンディがあった。ポケットに入れていたそれを取り出して、石畳の上で砕いた。ざくざく、と、小さなかけらになった桃のキャンディを、サンドイッチに混ぜ込んだ。甘い香りが広がる。
モモが「ねぇねぇ、これ食べてみて!」と押し付けてきたときの顔を、思い出した。
「これは、仲間の味だ。受け取ってくれ」
「過剰糖分を検知。摂取非推奨。エネルギー消費効率が低下する可能性あり」
三回とも。
同じ温度で。
同じ速さで。
全部、データになった。
裕樹の手から、三つのサンドイッチがゆっくりと落ちた。石畳の上に、ぺたんと乗っかった。さっき作ったばかりの、まだ温かいサンドイッチが、誰にも食べられないまま、そこにある。
四つ目を作ろうとした。手を動かそうとした。
動かなかった。
指先が、言うことを聞かなかった。手のひらがぼんやりと重くて、次の食材をつかむ動作が、どこかに消えていた。
味覚の導き手——精霊レシピがそう言った、この食彩異界を救うために召喚された存在——が、料理を届けられない。心を込めても、感情を乗せても、全部が「カロリー」と「データ」に変換されて終わる。
裕樹は、膝をついた。
石畳の冷たさが、膝を通して伝わってきた。両手が石畳についている。頭が下がっている。
(僕の料理に……意味があるのか)
それが頭の中に浮かんだ瞬間、モモが遠くから裕樹の背中を見ていた。伯爵の魔力を両手に抱えたまま、星形のオレンジの瞳が、ただ静かに、裕樹を見ていた。
◆
「裕樹!!」
ヒロシが慌てて駆け寄った。ずんぐりとした体型でそれでも素早く走って、裕樹の肩を叩く。その手のひらが大きくて、温かかった。
「作戦変えようぜ! 別のやり方があるはずだ!」
タケルが歯を食いしばって声をかけた。いつも冷静なタケルが、声に力を込めていた。
そのとき、ネクロが口を開いた。
「仲間の喪失は、戦闘における損耗です」
静かな声だった。怒りも、悲しみも、満足感すらない。ただ事実を述べているだけの、完全に平坦な声。
「感情的な停止は非効率です。目的の遂行を優先してください」
その場の全員が、動きを止めた。
ヒロシの手が、裕樹の肩の上で止まった。タケルが歯を食いしばったまま、固まった。キャラメル姫の目が、細くなった。いつも穏やかな琥珀色の目が、初めて怒りの色をした。口は開かなかったけど、その目が——何かをはっきり言っていた。
モモも、何も言わなかった。
いつもならすぐにツッコみが出てくるモモが、唇を一文字に結んだまま、黙っていた。両手の中の光が、少しだけ、震えているように見えた。
レシピが小刻みに震えていた。何か言いたそうに、体を揺らしていた。でも言葉が出てこない。声にならない、そういう感じで、ただ光を点滅させていた。
誰も言わなかった。
広場が、完全な静寂になった。
裕樹は膝をついたまま、拳を石畳に当てた。
「……僕の料理に、意味はあるのか」
小さな声だった。広場に響くほどの大きさじゃない。でも、その言葉が、そこにいた全員の耳に届いた。
夕暮れの光が、グラティネの石畳を赤く染めていた。バリアのなくなった空に、黒いもやがじわりと広がり始めている。ネクロが、また腕を持ち上げた。次の腐食波動の蓄積を、静かに始めた。
裕樹の問いが、広場にそのまま残っていた。
誰もまだ、答えられていない。