サンドイッチ王国の魔法シェフ
高橋裕樹は、何よりも料理を愛する普通の高校生。ある日、学校の食堂でハムチーズサンドイッチに何を加えようか考えていると、天井から黄金の光が降り注ぐ。ふわふわとした小さな精霊「レシピ」が現れ、裕樹の料理への情熱が異世界への扉を開いたと告げる。
裕樹がたどり着いたのは、すべてが食べ物でできたサンドイッチ王国。パンの山々、ジュースの川、野菜の実る木々が広がる世界だ。しかし王国は暗い雲に覆われ、人々は悲しみに沈んでいた。レシピは、悪の魔法使いトースト伯爵が支配し、厳格なレシピ以外の料理を禁じていると説明する。自由に料理をする者は投獄されてしまうのだ。
裕樹は「味の魔法」という、料理で笑顔を生み出す力を持っていることに気づく。王国を救う決意を胸に、彼は旅立つ。最初の使命は、宮殿の地下牢に囚われたキャラメル姫を救出すること。鍵穴から溢れ出してコミカルに変身する魔法のマヨネーズを使い、姫を助け出す。キャラメル姫は素材を大切にする心を持ち、二人はトースト伯爵の兵士、辛味のマスタード軍団や酸っぱいピクルス騎士団の追撃を、姫の特製キャラメルソースでかわしながら脱出する。
次に裕樹は「スパイシー国」の料
サンドイッチ王国の魔法シェフ - ソースの瓶と固い笑顔——バリアを張る背中と、落ちる瓶の音
グラティネの城壁の前で、トースト伯爵は両腕を広げたまま立っていた。
焦げ茶色の甲冑の隙間から、うっすらと汗が滲んでいる。185センチの長身がどっしりと地面を踏みしめ、その背中からは黄緑色の腐食の気配——ネクロが放つ腐食オーラ——を押しとどめる光のバリアが広がっていた。
バリアは薄く、でも確かだった。腐食の瘴気がぶつかるたびにわずかに揺れるが、崩れない。壁の向こうでグラティネの住民たちが息を潜めている。子供の泣き声。誰かが小声で祈る声。石畳に落ちる光が、バリアのせいで少しだけ歪んで見えた。
住民の一人——パン色の肌をした老人——が、そっと声をあげた。
「……ありがとう、伯爵」
伯爵は振り返らなかった。乱れた焦げ茶の長髪が風に揺れる。しばらくの間があってから、低い声だけが返ってきた。
「俺はもう逃げない」
それだけだった。短い言葉が、石畳の広場にゆっくり広がっていく。
住民たちがざわめいた。かつて統一調理令——伯爵が定めた47種の献立以外の料理を禁じた法令——で自分たちを縛りつけた男が、今は黙って前に立っている。その事実が、少しずつ人々の胸に染み込んでいく。
その感動の空気を、ヒロシが盛大にぶち壊した。
「うぅっ……かっこよすぎる……っ!!!」
城壁のすぐ外、バリアの端のあたりに立っていたヒロシが、目から大量の涙を流しながら号泣し始めた。ずんぐりとした体型に似合わない繊細な感受性で、肩をぶるぶる震わせている。
タケルが素早く肘でヒロシの脇腹を突いた。
「泣くな! そっちに気ィ取られたら攻撃食らうぞ!!」
「わかってるって!! でも!! かっこよすぎるやろ!!!」
「わかってへんやん絶対!!」
ヒロシが涙をだばだば流しながら叫ぶ。タケルが必死にツッコむ。二人のやりとりが城壁の前でだだ漏れになっている。
住民の子供が裕樹のそでをくいっと引いた。
「ねぇ、あのひとたちは何をしてるの?」
「……俺にもよくわからん」
高橋裕樹——黒いショートヘア、茶色い瞳、指先にやけど跡がある17歳——は正直にそう答えた。
そして伯爵が、ほんのわずかだけ、眉間にしわを寄せたのを裕樹は見逃さなかった。
(伯爵……微妙な顔してる)
感動の場面が3秒で台無しになったことに、本人も気づいているらしかった。
◆
城壁のそばでは、キャラメル姫が食料配給の仕事をしていた。
金色のゆるいロングヘアが背中で揺れている。16歳の姫が腰の配給バスケットを抱えながら、不安そうな顔をしている子供たちに向かってにっこりと微笑んだ。
「大丈夫ですよ。伯爵がバリアを張ってくださっていますから」
声は穏やかで落ち着いていた。琥珀色の瞳がやわらかく子供を見ている。その笑顔は完璧で、見ているだけで安心できる——
ガシャン。
姫の手から、キャラメルソースの小瓶が石畳に落ちた。
「……あら」
姫は笑顔を崩さないまま、しゃがんで瓶を拾おうとした。
ガシャン。
二本目が落ちた。
しゃがもうとした拍子に、バスケットの端から滑り落ちた。姫はさらに手を伸ばした。
ガシャン。
三本目も落ちた。
石畳に、キャラメルソースの水たまりが三か所広がっていく。黄金色のソースが石の目地に染み込んで、甘い香りがふわりと漂い始めた。
住民の子供が、その水たまりをじっと見た。
「姫さま、これ飲んでいい?」
「……これは、作戦的な配置ですよ」
笑顔のまま、少し間があってから答えた。
その横で、精霊レシピ——半透明の小さな体で宙に浮いている案内役——がおずおずと口を開いた。
「あの……踏んで滑ったら、危ないんですが」
「……静かに拭きます」
笑顔を保ったまま、姫はひざをついて石畳にそっと手をついた。手のひらでキャラメルソースをそっとかき集め始める。サンドイッチ王国の正統な王位継承者が、石畳の上でひざまずいてソースを集めているという状況が数秒かけて全員に届いた。
「王妃がひざまずいてる!!!」
ピンク色のショートボブが、どこからか飛び込んできた。モモだ。星形のオレンジの瞳をまん丸にして叫んでいる。その声に反応して、周囲にいた住民が一斉に駆け寄ってきた。
「あ、私も拭きます!」
「布ならあります!」
「水持ってきます!」
あっという間に十人くらいが集まって、石畳のキャラメルソースを一緒に拭き始めた。子供も大人も膝をついて一生懸命拭いている。
姫が作り出したキャラメル沼が、謎の住民総動員を生み出していた。
裕樹はその光景をぼんやりと眺めながら、自分がなんとも言えない気持ちになっていることに気づいた。
(……なんか、あたたかいな)
◆
「作戦会議しようぜ。ネクロへの対策、考えないと」
裕樹はモモに声をかけた。モモはバスケットの片付けを手伝いながら、ぴょんとその場で跳んで振り向いた。エプロンがひらりと舞う。
「オッケー! でも正直、何も思いつかないんだよね」
「俺もだ」
モモは元気よく答えたが、ふとその目が伯爵の方へ向いた。城壁の前でバリアを張り続けている大きな背中を、ちらりと見る。何かを考えているような顔だったが、すぐにまた裕樹に視線を戻した。
裕樹はそれに気づいた。
(モモ……伯爵のこと、気にしてるのか)
伯爵があのバリアをいつまで張れるのか、誰にも正確にはわからない。ネクロの腐食オーラは時間をかけて蓄積されていく。昨日から一晩中、伯爵は一人でそれを受け続けていた。
裕樹はモモの隣に近づこうとした。
「なあ、モモ——」
「あら」
金色の髪が横切った。
配給バスケットを新しく抱えたキャラメル姫が、二人の間をすっとすり抜けながら微笑んだ。完璧な笑顔だった。でも、目が、少しだけ笑っていなかった。
「仲がいいですね」
そのまま通り過ぎた。
裕樹とモモが、そろって固まった。
「……なんか今、空気が変わった気がした」
「気のせいだと思う」
「絶対気のせいじゃないやつ」
二人は顔を見合わせて、それからまた向き直った。裕樹はもう一度口を開く。
「モモ、さっき伯爵のことを見てたよな。なんか——」
「あら」
また来た。
今度は逆方向から来ていた。さっきとは違う路地から出てきている。なぜ。どうやって。
「仲がいいですね」
また同じ台詞で、また同じ笑顔で、また同じ速度で通り過ぎた。
裕樹の口が半開きになった。モモが完全に固まっている。
三回目、裕樹がもう一歩モモに近づいた瞬間——
「あら」
「どこから来てるんですか!!!」
思わず大声でツッコんだ。
キャラメル姫は立ち止まって、背筋をすっと伸ばした。
「私は常に、王国全体を巡回しております」
威厳たっぷりにそう言い切ってから、踵を返した。そしてすぐ隣の路地の曲がり角に差し掛かった瞬間、石に躓いて壁に軽くぶつかった。
その様子が、そこにいた全員の目にばっちり見えた。
「……」
「……」
「……」
誰も何も言わなかった。姫は何事もなかったように歩き続けた。それが逆に全員の心に深く刺さった。
◆
「地形の確認をしよう。高いところから周囲を見渡せれば、何か作戦の糸口が見つかるかもしれない」
城壁のそばに、ごつごつした大岩が積み重なっている場所があった。高さは二メートルほど。そこからなら広場全体と、ネクロが立っている位置を一望できるはずだ。
モモが「よっしゃ任せろ!」と叫んでさっさと岩を登り始めた。身軽だ。お菓子作り用のエプロンをひるがえしながら、あっという間に頂上に立った。
「どう? 見える?」
「見える見える! ネクロが——」
モモが立ち上がった瞬間だった。
岩の頂上に、細かい砂が積もっていた。ネクロの腐食の気配のせいで、石の表面が少しずつ劣化していたのかもしれない。モモの足が、ズルッと滑った。
「わっ——!!」
体が傾く。二メートルの高さから、まっすぐ落ちていく軌道。
裕樹が動いた。考えるより先に体が動いていた。
手を伸ばす。モモの手首をつかんだ。
ぐっと体重がかかって、裕樹は踏ん張った。モモが宙吊りになった形で、裕樹の手に引き留められた。
「……っ」
モモが下を向いた。裕樹の手が自分の手首をしっかりつかんでいる。裕樹もモモの手を掴んだまま、何も言えなかった。
手のひらに、モモの体温がある。思ったより細い手首だった。
(落ちなくてよかった)
それだけを思った。でも、その思い以外にも何かが胸のあたりにあって、裕樹はうまく言葉にできなかった。
モモが裕樹の手を見ている。少しだけ、黙っていた。
いつもは「ねぇねぇ、これ食べてみて!」と口から先に生まれたような子が、珍しく何も言わない。ピンクのショートボブが風にゆれている。
裕樹も何も言えない。
静寂が二人の間に漂い始めて——
ガシャン!!!!
でかい音が、その静寂をぶっ壊した。
石畳の上に、ガラスの破片とキャラメルソースが飛び散った。四本目だった。
三人の視線が、一斉にその音の方を向いた。
キャラメル姫が、バスケットを抱えたまま固まっていた。足元に黄金色のソースが広がっている。耳の先まで真っ赤だった。
モモが岩から降りながら、おもいっきり叫んだ。
「王妃なのにドジすぎる!!!」
その言葉が広場に響き渡った。
キャラメル姫は背筋をすっと伸ばした。耳は真っ赤なまま、でも声だけは落ち着いていた。
「これは……作戦です!」
断言した。
誰も何も言わなかった。
裕樹は空を見た。モモは自分の爪を見た。レシピはぷかぷかとどこかに漂っていった。ヒロシは急に配給の数を数え始め、タケルは石畳の模様を研究し始めた。
そして——離れた城壁のそばで、ずっとバリアを張り続けていたトースト伯爵が、静かに視線を前方のネクロに向け直した。
全員が同時に、何かを聞かなかったことにした。
姫は一人、石畳にしゃがんで四本目のソースを静かにかき集め始めた。耳がまだ赤かった。
◆
そんな温かくてどこか間の抜けた時間が続いていたとき、空の色が変わった。
グラティネの上空——もともと晴れ渡っていた水色の空——に、黒いもやが少しずつ厚みを増してきた。
じわじわと、静かに、でも確実に。
レシピがピタリと動きを止めた。その小さな体が、青白くかすかに明滅する。
「……あの」
声が小さかった。でも誰もが聞こえた。
「また、準備してます」
ネクロが腐食波動の第二蓄積を始めていた。
広場の空気が変わった。さっきまでの温かみが、すっと引いていく。裕樹は上空を見上げた。黒いもやが渦を巻くように広がっている。昨日よりも、濃い。
城壁のそばから、小さな音がした。
ぎっ、という音だった。
トースト伯爵が張っていたバリアに——わずかな、でも確かな亀裂が走った。
薄い光の膜に、ひびが入っている。そのひびの端からじわりと腐食の気配がにじみ出て、空気がわずかに歪んで見えた。
伯爵は顔色を変えなかった。乱れた長髪の奥で、灰色の瞳が静かにネクロを見据えている。ただ、両腕にさらに力を込めて、ひびの広がりを押さえようとした。額の汗が増えた。
裕樹はネクロを見た。
昨日から何も変わっていない姿で、そこに立っている。感情が見えない。表情がない。料理を「カロリー計算」と処理して、友情を「非効率」と切り捨てた相手。
(どうすれば、届く)
その問いだけが、裕樹の胸の中でぐるぐると回っていた。伯爵の心には届いた。味の魔法は、相手の心に触れることで力になる。でも、もし心そのものが最初から——
裕樹は拳を握りしめた。
答えはまだ、見つからない。でも諦める気持ちも、なかった。
黒いもやがさらに厚くなっていく。バリアのひびが、ゆっくりと、少しずつ広がり始めていた。