戦国の夜、凍てついた心が溶ける
現代から戦国時代へ転生した紗夜は、22歳の若き身で戦国武将・織田信宏の側室として囲われることになる。冷徹さで知られる信宏は、その謀略的な政治手腕で領土を拡大してきた男だ。初夜の晩、主君の凍った瞳が自分を見つめる瞬間、紗夜は直感する——この男は、本当は何かを失って、その欠落を埋めようとしているのだと。
戦国時代という絶望的な時代で、紗夜は自分が生き残るために、そして信宏が本当に求めているものが何かを知るために、必死に相手を理解しようとする。侍女の立場から城内の人間関係を観察する中で、紗夜は信宏の周囲に複雑な思いを抱く者たちがいることに気づく。信宏の副将で不器用ながら主君を慕う蒼太郎。信宏の従兄弟で表向きは従順だが、暗い野心を秘めた聡一郎。そして信宏の母親で、息子を操ろうとする権謀の女——彼女たちすべてが、何らかの形で信宏を独占したいという執着を隠し持っていた。
紗夜は、信宏のために心を開き始める。その過程で、主君の言葉にならない優しさに気づき、抱きしめられるときのぬくもりに心をときめかせるようになる。だが同時に、信宏への好意が深まるにつれ、周囲の者たちの嫉妬も急速に高まっていく。蒼太
戦国の夜、凍てついた心が溶ける - 薬草湯と無言の交流
数日が過ぎていた。
奥向きの朝は早い。鷹ヶ峰城の鐘が五つを打つ頃、侍女たちは既に寝具を畳み、廊下を掃き始めていた。紗夜(さよ)も例外ではない。いや、むしろ他の侍女たちより早く目覚める癖がついていた。
現代での習慣だろうか。それとも、この城で生き延びるという緊張感が、毎朝彼女を起こすのだろうか。
「おはようございます」
廊下を歩く紗夜(さよ)に、侍女のお竹が軽く礼をした。以前のような警戒心は薄れ、代わりに何か別のものが生まれていた。尊敬というほどではないが、親しみに近いものか。
三日前のことだった。紗夜(さよ)が「井戸水は煮沸してから使うほうが良い」と提案したのは。最初、侍女たちは首をかしげた。面倒だ、そんなことをする者は見たことがない、と異を唱えた。だが、紗夜(さよ)の勧めで煮沸水を使い始めた侍女の中から、体調不良が改善される者が出始めたのだ。
腹痛が治まった。肌の調子が良くなった。頭痛が軽くなった。
小さなことだ。だが、この時代の医療知識では、それは奇跡に近いものだった。
「紗夜様は、本当に不思議なお方だ」
お竹が呟くのを、紗夜(さよ)は聞き流した。返すべき言葉がない。現代の知識は、ここでは「不思議」以外の何物でもないのだ。
東の局に戻ると、あの薬草袋が目に入った。初夜に誰かが置いてくれた袋。使い込まれた布で、中には乾燥した薬草が詰まっている。紗夜(さよ)はそれを大切に保管していた。使う機会を待ちながら。
その機会は、予想外の形でやってきた。
夜。奥向きに侍女の一人が駆け込んできたのは、月が中天に昇る時刻だった。
「紗夜様。大変です」
息を乱す侍女。その名はお雪。年は四十を超えているが、目は心配で濡れていた。
「織田様が...お体を...」
「落ち着いて。ゆっくり話してください」
紗夜(さよ)は、お雪の腕を取った。冷たい。その冷たさが、彼女の不安を物語っていた。
お雪の話によれば、織田信宏は三日間、書院を出ていないという。軍議が続いているのだ。周辺の領主との領地交渉。領内の統治。複雑な駆け引き。明け方まで書類と向き合い、昼間は領民の訴訟を聞き、再び夜の軍議に戻る。
そういう日々が続いていた。
「蒼太郎様も、それを案じておられます。ですが、主君の決定に逆らうことはできず...」
お雪は涙ぐんでいた。
主君への忠誠。それと同時に、主君の自壊を止めたいという想い。その葛藤が、お雪の言葉に滲んでいた。
紗夜(さよ)は、あの書院での光景を思い出した。
信宏の瞳。光のない、深い瞳。
あの瞳が、さらに削られていくのだろうか。このまま彼が倒れたら、この城はどうなるのだろう。聡一郎が動くのではないか。瑞月院はどう出るのか。
(いや。そういう問題ではない)
紗夜(さよ)は自分に言い聞かせた。
単純だ。あの人が倒れてはいけない。それだけのことだ。
「お雪。城下町の方は出入りできますか」
「はい。ですが、夜間の外出は...」
「大丈夫です。方法を考えます」
紗夜(さよ)の決意は、もう固い。
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夜間の城下町は、想像より静かだった。
懐に忍ばせた銭を握りながら、紗夜(さよ)は常盤町の薬種問屋「草凪堂」に足を運んだ。お竹の付き添いで。
「夜分遅くに申し訳ございません」
戸を叩くと、すぐに灯りが灯った。店主のお琴だ。四十を過ぎた女性で、寡婦だという。夫を病で失ったと聞いた。だから、紗夜(さよ)の唐突な来訪にも、驚きより心配が先に出たのだろう。
「大丈夫かい?」
優しい声。紗夜(さよ)は胸が詰まる思いで、お琴に事情を説明した。もちろん、信宏の名は出さない。「城にいる大切な方が、体調を崩しておられて」という曖昧な言い方で。
お琴は、すぐに理解した。
「疲労からくる風邪かね。であれば、生姜と甘草が良い。それに、乾燥したユーカリの葉もあるが...」
お琴は店の奥から瓶を出した。その手は、迷いなく、正確に動いていた。多くの患者を看取った手だ。紗夜(さよ)は、その動きに見とれた。
「これらを熱湯に入れて、十分ほど蒸らす。朝昼晩、三回飲むのが良い。体を温めることが何より大切だ」
「ありがとうございます」
「誰か大切な方かね」
お琴の問いに、紗夜(さよ)は答えなかった。代わりに、少し多めの銭を払った。
「お返しはいいよ。その代わり、また来てくれ。話し相手がいないとね」
お琴は微笑んだ。その微笑みが、紗夜(さよ)の心を深く打った。
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奥向きに戻ると、紗夜(さよ)は薬草湯を準備した。
お竹の見守る中、紗夜(さよ)は丁寧に薬草を熱湯に入れた。湯気が立ち上り、漢方薬特有の香りが部屋に満ちる。生姜の辛い香り、甘草の甘い香り。それが混ざり合い、何か懐かしい香りになる。
現代でも、こういう香りを嗅いだことがあるだろうか。そんなことを考えながら、紗夜(さよ)は十分を待った。
「これを...」
「駄目です」
お竹が、制する。
「奥向きの掟です。本丸への立ち入りは瑞月院様のご許可がなければ...」
お竹の言葉は、理屈としては正しい。だが、紗夜(さよ)はその掟の枷が、どれほど重いものかを知っていた。不義密通の嫌疑。処刑。
それでも。
「わかっています」
紗夜(さよ)は、湯呑みを手に取った。
お竹の制止を無視して、夜更けの奥向きを出た。
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忍橋は、月光の下で白く輝いていた。
石畳が、足音を響かせる。心臓の音も、それより大きく聞こえる。何度も何度も、自分に言い聞かせた。平気だ、平気だと。
だが、心臓は嘘をついていない。
渡り廊下の途中で、影が現れた。
「何をしている」
低い声。蒼太郎だ。
漆黒の髪が月光に映り、右眉から頬の刀傷がほのかに浮かぶ。その眼が、紗夜(さよ)を見つめた。警戒と、それ以上に、何か複雑なものが宿った眼。
紗夜(さよ)は、立ち止まった。
「主君の体調を案じて...薬草湯をお持ちしました」
その言葉に、蒼太郎の眉が寄った。
「余計なことをするな」
その声は、冷たかった。でも、その冷たさの中に、紗夜(さよ)は何かを感じ取った。
(この人も、信宏のことを案じている)
紗夜(さよ)は、ゆっくりと蒼太郎に歩み寄った。距離が縮まる。蒼太郎は動かない。ただ、その眼が更に鋭くなった。
「お体を壊されては、この城がどうなるか...皆が困ります」
その言葉は、ほぼ嘘だった。だが、嘘ではない部分もあった。紗夜(さよ)自身も、信宏が倒れることを望まなかった。
その想いが、紗夜(さよ)の眼に映っていたのか。蒼太郎は、長く沈黙した。
その沈黙は、針のように長かった。
やがて、蒼太郎は身を退いた。
「一度だけだ。二度とするな」
許可と脅迫が混ざった言葉。紗夜(さよ)は頭を下げた。
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書院の扉は、重かった。
ノックをすると、奥から「入れ」という声が聞こえた。同じ声でも、以前のような冷徹さは薄れていた。疲労が、その声に滲んでいた。
扉を開く。
信宏は机の前に座っていた。その手には筆が握られ、机の上には無数の書類が積み重ねられていた。灯明の光が、彼の顔を照らしている。
その顔は、五日前よりも削られていた。
眼窩が深く、頬骨が浮き出ている。朝の髭も伸びたままだ。着物の襟もあちこちで乱れている。
この人は、どのくらい眠ったのだろう。
「お前...」
信宏が、紗夜(さよ)を見た。その眼は、一瞬、何かを失った者のような色をしていた。
「何だ」
その問いに、紗夜(さよ)は膝をついた。
「お体を案じて...薬草湯をお持ちしました」
湯呑みを差し出す。信宏は、その湯呑みを見つめた。
長い。
あまりに長い沈黙。紗夜(さよ)の心臓は、再び激しく打つ。
(これは...怒られるのか)
だが、信宏の手が、ゆっくりと湯呑みを受け取った。
「......温まる」
その一言だけ。だが、その言葉の中に、紗夜(さよ)は何かを感じ取った。
感謝。
そして、少しだけ、人間らしい何か。
信宏が、もう一口飲んだ。その時、彼の眼が、わずかに柔らかくなった。疲労に満ちていた眼が、ほんの少しだけ、人間らしい光を宿した。
紗夜(さよ)は、その光を見つめていた。
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奥向きに戻った時、蒼太郎の冷たい視線を感じた。廊下で、彼は立っていた。腕を組んで。何も言わず、ただ立っていた。
その無言の圧力が、紗夜(さよ)を黙らせた。
東の局に戻ると、紗夜(さよ)は膝を抱えた。
(あの人の眼...)
信宏の眼。その光。
冷徹な覇王の瞳。だが、その奥には、確実に人間がいた。感情がいた。心がいた。
(危険だ)
紗夜(さよ)は自分に言い聞かせた。感情は、この城での生存の妨げになる。冷徹さが必要だ。
だが、心は言うことを聞かない。
信宏の「温まる」という言葉が、何度も何度も、頭の中で反復される。
その言葉に込められた感謝。その言葉とともに宿った、微かな人間らしさ。
現代での紗夜(さよ)は、誰に感謝されることもなく、誰かに感謝することもなく、孤独に本の中で人生を学んでいた。
だが、今、あの人は自分に感謝してくれたのだ。
それだけが、紗夜(さよ)の心を揺さぶった。
窓の外は、完全な暗闇だった。遠くで、夜警の声が聞こえる。城の音。この時代の音。
紗夜(さよ)は、その音に耳を傾けながら、信宏の眼を思い出していた。
あの光。
自分の中にも、似たような光が芽生え始めているのを、紗夜(さよ)は感じていた。
それが何なのか、まだわからない。だが、それが危険なものであることだけは、確かだった。