フリーター無双
40歳のフリーター、佐藤健二はコンビニの夜勤明け、自宅アパートの階段で足を滑らせた瞬間、眩い光に包まれた。気がつくと、そこは見知らぬ森の中。鎧をまとった若者たちに囲まれ、彼らは異界の侵食と呼ばれる現象から逃れてきた転移者だと説明される。この世界エルガリアは、次元の裂け目から現れる謎の存在ヴォイドに侵食されつつあった。転移者には稀に特殊な賜物が与えられるという。健二に授かったのは予剣――戦闘時にわずか2秒先を予見する、地味だが戦場では驚異的な能力だった。
転移者たちの拠点黎明の砦で、健二は冷ややかな視線を浴びる。砦を統率するのは、銀髪を高く結い、鋭い眼光の女戦士長、セリア。彼女は規律と実力を重んじ、だらしなく、年齢も離れた健二を厄介者とみなす。健二の世話役(兼監視役)として付けられたのは、天然でおっちょこちょいな雷魔法使いの少女、リナ。彼女は戦闘では強力な魔力を発揮するが、日常生活では魔法を暴走させては周囲を巻き込むトラブルメーカーだ。さらに、盲目でありながら優れた治癒の祈りを捧げる僧侶の少女、ミーシャがいる。彼女は視覚以外の感覚が鋭く、健二の内に秘めた何かを感じ取っているようだった。
フリーター無双 - 転移と予剣の覚醒――おじさん、異世界に叩き落とされる
夜勤明けの朝五時。佐藤健二は、またしてもコンビニの棚を並べ直していた。
「……今日も特売のおにぎり、あるな」
深い茶色の瞳で、2個パックの絹ごし豆腐を手に取った。値段を確認して頷く。黒いショートヘアが寝癖のままだ。40歳の体には、こういう無駄な動きでさえ、小さな疲れが蓄積している。
白いシャツのボタンは下から二番目まで外れ、袖はまくられたまま。右手の火傷跡――コンビニの揚げ物で着けたやつ――は相変わらず薄紫色をしていた。日々の夜勤でついた寝不足の影が目の下に濃くある。鏡を見ると、自分がどんどん透明になっていくような気がすることもあった。
レジ袋を両手に提げ、最後の扉を閉める。朝の冷たい空気が、顔を撫でた。駅までの道のり、約800メートル。歩きながら、昨日の売上を思い出そうとしたが、すぐに忘れた。
(何年、ここにいるんだろう)
自分でも数える気がしない。高校を出てから二十数年。就職、転職、失職。どこかで歯車が狂った。いや、最初から狂っていたのかもしれない。今は毎晩八時間、この駅前のコンビニで立っている。給料は月18万。一人暮らしなら何とか。それ以上でもそれ以下でもない。
アパートは駅の反対側だった。木造二階建て、築35年。大家さんはいい人で、家賃は安い。朝帰りの健二は、いつもの習慣で、いつもの階段を上る。
二階への階段は薄暗い。窓が小さいせいだ。手すりを掴み、一段、二段。足を運ぶ。靴は軽く、音もしない。
「……あ」
四段目で、足が滑った。
理由は簡単だった。昨夜、降った雨が、窓から滑り込む朝露になっていたのだ。足が一気に宙を舞う。手のレジ袋が重い。バランスを失った体が、
眩い光に呑み込まれた。
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意識が戻ったのは、顔面から草むらに突っ込んだ時だった。
「ゴホッ、ゴホッ!」
土の匂い。青臭い草の臭気。耳に入った砂。どす、と身体が落ちた地面は柔らかく、びっしょり湿った。朝露ではなく、夜露かもしれない。あるいは雨が降ったのか。
健二は両手で身体を支え、顔を上げた。深呼吸。目を開く。
「……ここ、どこだ?」
周囲に広がるのは、びっしりとした樹海だった。
樹高五十メートル近い巨木が、立ち並んでいる。その幹は太く、根は地を這い、叢生する根元には小さな別世界が広がっていた。光は樹冠の隙間からしか入らず、林床は薄暗い。空気は湿度が高く、呼吸するだけで肺に水を吸い込んでいるような感覚がある。
(何だ、これは......)
健二は身体を起こした。手のレジ袋は――
あった。
目の前、三十センチのところに、豆腐一丁がぽとりと落ちている。
コンビニの袋は破れ、中身が散らばっていた。おにぎり二個、水1.5リットルペットボトル、朝食用のパン。全て地面に落ちている。その中で、豆腐だけが、奇跡的に無傷で、草むらの上に座っていた。
健二は、その豆腐を、三十秒間、見つめたまま動かなかった。
(......豆腐?)
樹海。豆腐。階段で足が滑った。眩い光。
何も、つながらなかった。
「あ、あの!そこにいるのは!」
突然、声がした。
健二の視線が上がる。樹の根元から、人影が現れた。若い。男。二十代だろう。鎧をまとっている。鋼の装甲が、朝日に反射していた。
その後ろから、さらに人影が。
女性。同じく二十代。剣を腰に下げている。その奥にも、さらに人影。三人、四人、五人。全員が鎧をまとい、武装していた。
「大丈夫ですか!怪我は!」
最初の男が、走ってきた。健二は、思わず身を引く。
「え、あ......」
言葉が出ない。このシチュエーション、何だ。コスプレか。まさか、異世界転生系の、アニメの撮影現場とか......?
「転移者だ」
女性の一人が、そう呟いた。その声色には、何か複雑な感情が混ざっていた。
「転移......者?」
「ああ、異世界から転移してきた者たちのことです。我々も、かつては貴殿と同じように、この世界に忽然と現れました」
最初の男が、丁寧に説明した。その名はテオドール。元は日本の工学部の大学院生だったらしい。今は、その「黎明の砦」という場所の転移者の一人として、戦闘訓練を積んでいるとのこと。
「え、えーと......」
健二は、説明の内容を咀嚼しようとした。異世界。転移。砦。それらの単語は個別にはわかる。だが、組み合わせると、理解が追いつかなかった。
「え、ちょっと待ってください。えーと......それって要するに、魔物みたいなのが世界を壊そうとしてるってこと?」
テオドールの説明では、「ヴォイド」と呼ばれる存在が、次元の裂け目から出現しているらしい。それが「侵食領域」と呼ばれる空間を作り、周囲の世界の法則を書き換えているとのことだった。その対抗勢力として、様々な拠点が作られ、「黎明の砦」はその一つだということだった。
が、健二の頭には、ほとんど入ってこなかった。
「あ、あの......すいません」
唐突に、健二は口を開いた。
「お腹空いたんですけど、飯ってありますか」
テオドールを始めとする若い戦士たちの顔が、ぴたりと固まった。
「......転移直後で、そんなことを」
と、女性の一人が呟いた。その声には、呆れが混ざっていた。
しかし、テオドールは「ああ、わかりました」と、割と素直に返答した。砦に着いた後で、食事を用意するということらしい。ひとまず、異世界という状況も、説明もよく理解できていない健二は、とりあえず着いていくことにした。
樹海の奥へと歩く。足元は湿った土で、歩くたびに靴が沈む。テオドールたちは、その足取りが素早い。経験を積んだ者たちの動きだ。健二は、その後ろから、よろよろとついていく。
「あ、そういえば」
テオドールが、ふと振り返った。
「失礼ですが、お名前は?」
「あ、健二。佐藤健二です」
「佐藤さん、ですね。我々の拠点では、転移者が着いた時は、必ず医療棟で検診を受けることになっているので」
その言葉も、健二にはよく理解できなかった。ただ、この若者たちが、一応、危険な存在ではないらしいということだけは、何となく理解できた。
しばらく歩くと、樹海の光が、わずかに変わった。開けた場所が見えてきたのだ。
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樹海の外縁部。そこに、黎明の砦は立っていた。
石壁で囲まれた要塞。直径200メートルはあろうかという円形の石造りの砦だ。その中央には、高さ二十メートルを超える塔が立っている。その上には、何かの観測機器のようなものが設置されていた。
内部からは、鍛冶の音が聞こえる。激しく、規則的に。カン、カン、カンという音。そして、訓練の気合い声。男女の声が混ざり、「ハッ」「ハッ」と響いてくる。
砦の壁には、衛兵が立っていた。二人の男性。見ると、テオドールたちが手を上げた。すると、厚い木の扉が開く。
うわ、本当だ。
健二は、そう思わずにいられなかった。
(これ......本物だ)
アニメではない。映画でもない。実在する建造物が、眼前にあった。
砦の内部は、想像以上に活気がある。若い戦士たちが、訓練場で剣を振っている。鍛冶工房では、年配の職人が、真っ赤に熱した鉄を叩いている。食堂からは、何か香ばしい匂いが漂ってくる。
人数は、ざっと百名以上はいるだろうか。全員が、何か目的を持って、動いている。生活している。生きている。
健二は、その光景を見て、初めて実感した。
(これ......夢じゃないんだ)
気が遠くなりそうだった。
「佐藤さん。こちらです」
テオドールが、砦の奥へと案内する。いくつかの建物を通り抜け、高い塔へと向かった。その中に、砦長老格の人物がいるという。
暁楼の内部は、階段で構成されていた。くるくると上へ上へ。二十段、三十段。健二の足は、もう重い。夜勤の疲れと、この訳の分からない状況が、体と心の両方を蝕んでいた。
最上階に着いた。
そこには、一人の老人が立っていた。
「転移者が現れたのか」
その声は、深く、重かった。
テオドールが、健二を紹介する。その過程で、年齢のことが話題になった。
「四十歳?」
テオドールが、確認の声を上げた。その瞬間、老人の眉が、わずかに上がった。
「ふむ。転移者の中では、珍しい年代だな。賜物持ちの可能性は......」
その後の説明は、健二にはほとんど理解できなかった。「賜物」とは何か。なぜ自分に何かの力が宿る可能性があるのか。その理由も、根拠も、さっぱり分からなかった。
ただ、老人の言葉から、自分がこの場所で何かを期待されているということだけは、何となく伝わってきた。
(期待......か)
健二は、愛想笑いを浮かべながら、その期待の重さを感じていた。
こんなおじさんに期待されても......何ができるというのか。
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夕方になった。
砦の食堂「煤竈亭」。ここは、全砦員が利用する共同食堂だ。テーブルは長く、一度に三十人以上が食事をすることができる。
今、その片隅の席に、健二は一人で座っていた。
目の前に置かれているのは、陶製の鉢に盛られた樹海茸のシチューだ。濃厚な色をしており、食欲をそそる香りが立っていた。付け合わせの黒パンを手に取り、かじる。
周囲の若い戦士たちは、そのうち何人かが近寄ってきて、「転移者ですか」だとか「どこから来たんですか」だとか、興味津々に声をかけてくる。健二は、その度に「日本です」「40歳です」と、短く返答する。
そして、すぐに食事に戻る。
会話が続かない。当然だ。自分たちとは、生きてきた世界が違う。経験が違う。年齢も違う。共通の話題が、思いつかない。
やがて、若い戦士たちも、健二への興味を失い、別の方へ向かった。
健二は一人、樹海茸のシチューをぼんやりと食べ続けた。汁は濃く、茸の味が深い。美味しい。だが、その美味しささえ、どこか他人事のように感じられた。
周囲の若者たちの活気と、自分の孤独感。その落差が、
静かに、心に突き刺さっていた。
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夜。
転移者居住棟。木造二階建ての建物だ。個室は四畳程度。ベッド、机、窓。それだけだ。壁は薄く、隣室の音が時々聞こえる。
健二は、その粗末なベッドの上に、仰向けで横たわっていた。
天井を見つめる。木目の跡が、ぼんやりと見える。
(何だ、この状況は)
朝、コンビニで夜勤明けの会計をしていた。階段で足を滑らせた。眩い光。樹海。異世界。砦。期待の目。
何が起きたのか、正確には理解できていない。だが、現実であることだけは確かだ。
健二は、ゆっくりと目を閉じた。
心の中で、静かに、自分の人生を思い返していた。
高校卒業後、就職。新卒で入った会社は、半年で辞めた。理由は、上司が合わなかったからだ。その後、転職を繰り返した。営業、製造、事務、飲食。どれもが、長くは続かなかった。何か、いつも欠けている。何か、いつも合わない。
いつしか、就職活動そのものが億劫になった。
コンビニバイトなら、人間関係も最小限で済む。給料も、毎月決まって入る。それで十分だと、思い込んでいた。
が、本当は、何か違う。何か、自分の人生が、本来あるべき形ではない。誰かに期待されたことがない。誰かに必要とされたことがない。ずっと、その欠如感を抱えたままだった。
今、この異世界に転移して、初めて「期待」という言葉を浴びた。
賜物持ちの転移者。砦で活躍する可能性。
それらの言葉は、耳には心地よい。だが、
(俺に、何ができるんだろう)
その疑問が、心の奥底で響き渡っていた。
何も成し遂げなかった40年。就職も失敗。恋愛も経験なし。友人も、真の意味での友人は、いない。
そんな自分に、何が期待されるというのか。
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真夜中。
眠れないまま、健二は窓に近づいた。
樹海の向こう側に、月が見える。白く、大きな月だ。その月の下に、砦の中央の塔「暁楼」が、黒く浮かび上がっていた。
最上階の窓に、灯りが見える。
健二の目が、その灯りに引き付けられた。
そこに、人影がある。
銀色の長髪をした人物だ。窓越しに、はっきりと見える。その人物が、健二の部屋の方向に、視線を向けているように見えた。
健二の心臓が、一瞬、跳ね上がった。
(誰だ......?)
その人影をじっと見つめていると、突然、灯りが消えた。人影も、すぐに消える。
暗くなった塔。何も見えなくなった。
健二は、そっと布団に戻った。
横になり、天井を見つめる。
昼間の出来事が、脳裏に蘇る。樹海で。あの小さな黒紫の靄の存在。その時、自分の体が、何か不可思議な動きをしていた。意識より先に、体が動いた。結果として、危険を避けていた。
(予剣......か)
それが、自分に与えられた能力の名前らしい。戦闘時に、2秒先を予見する。
(2秒......)
2秒。それは、本来なら、何もできない短い時間だ。だが、その2秒が、命がけの戦場では、何かを変える可能性がある。
健二の手のひらが、じんわりと熱を持ち始めた。
それは、予剣の力が、微かに反応している証拠だった。
この世界で、自分が何者になるのか。それはまだ、何も分かっていない。
夜明けまで、まだ数時間がある。
健二は、そっと目を閉じた。
40歳の、おじさんの、新しい夜が、静かに過ぎていった。