フリーター無双
40歳のフリーター、佐藤健二はコンビニの夜勤明け、自宅アパートの階段で足を滑らせた瞬間、眩い光に包まれた。気がつくと、そこは見知らぬ森の中。鎧をまとった若者たちに囲まれ、彼らは異界の侵食と呼ばれる現象から逃れてきた転移者だと説明される。この世界エルガリアは、次元の裂け目から現れる謎の存在ヴォイドに侵食されつつあった。転移者には稀に特殊な賜物が与えられるという。健二に授かったのは予剣――戦闘時にわずか2秒先を予見する、地味だが戦場では驚異的な能力だった。
転移者たちの拠点黎明の砦で、健二は冷ややかな視線を浴びる。砦を統率するのは、銀髪を高く結い、鋭い眼光の女戦士長、セリア。彼女は規律と実力を重んじ、だらしなく、年齢も離れた健二を厄介者とみなす。健二の世話役(兼監視役)として付けられたのは、天然でおっちょこちょいな雷魔法使いの少女、リナ。彼女は戦闘では強力な魔力を発揮するが、日常生活では魔法を暴走させては周囲を巻き込むトラブルメーカーだ。さらに、盲目でありながら優れた治癒の祈りを捧げる僧侶の少女、ミーシャがいる。彼女は視覚以外の感覚が鋭く、健二の内に秘めた何かを感じ取っているようだった。
フリーター無双 - 共鳴仮説と、ドアの前の二秒間
引き出しの中に、紙が増えていた。
健二は昨夜もそれを確かめてから眠りについた——いや、眠れなかったと言った方が正しい。ガイスの言葉、評議室の張り詰めた空気、予剣が映した自分自身の後ろ姿。それらが順番に脳裏を通り過ぎて、朝の光が窓から差し込む頃にようやく意識が落ちた。
砦の食堂「煤竈亭」は朝の香りで満ちていた。樹海茸のシチューを煮込む匂いと、焼いた黒パンの香ばしさが混ざり合って、石造りの壁に染み込んでいる。料理長ハナが大きな鍋をかき混ぜる音が、リズムよく続いている。健二は隅の席に腰を落ち着けて、両手でスープ皿を包み込んでいた。温かい。それだけで少し、頭の中のごちゃごちゃが端っこに寄る気がした。
「健二さん!!」
水色の頭が視界に飛び込んできた。
リナが盆を持ったまま、何事もなかったような顔で健二の隣にどかりと座った。金色の目がきらきらしている。昨日の評議室のこと、ガイスのこと、健二が一晩中ぐるぐる考えていたこと——そういった重さを、リナの明るさはまるっとすり抜けてくる。
「補給長さんから全部聞きました!!評議室のこと!!」
「……そうですか」
「全部です!!セリア様が立ち上がって、ガイスさんが立ち上がって、健二さんが立ち上がって、補給長さんも立ち上がったって!!」
「まあ、そういう流れでしたね」
「補給長さん、同時に立ち上がったの実演してくれました!!私にもやってみましょうか!!」
リナが椅子から立ち上がりかけた。健二は素早くリナの袖をつかんだ。
「やめなさい」
「でも雰囲気が伝わりますよ!!」
「伝わらなくていい」
「補給長さん何回も立ち上がったって言ってましたよ!立ち上がるたびに迫力が増すって!!」
「それは知ってる。お前が実演しなくていい」
「もう立ちかけてました」
「やめろ」
健二がリナの袖をもう少し強く引くと、リナはしぶしぶ着席した。金色の目がまだ実演への未練を宿している。あぶない。本当にあぶない。
そこへ、廊下の方から若い兵士が早足で近づいてきた。砦の中でもまだ新しい顔で、名前は確か——と健二が記憶を探っているうちに、廊下の段差で盛大に足を取られた。
ドタッ!!
「あっ」
兵士が前のめりに傾いた。健二が反射的に立ち上がって腕を伸ばした——予剣を使うより体が先に動いた——そのとき。
バチィッ!!
リナが確認練習のつもりだったらしい小さな放電が、健二の右肩に直撃した。
びしょ濡れではなかった。ただ右肩の服がじわりと湿った。
「精度が上がってます!!今日は右肩だけでした!!」
「……そこは喜ぶところじゃないですよね」
「でも昨日は全身でしたから!!」
「左肩には当てないでください」
「では当ててバランスを整えましょうか!!」
「当てるな!!!」
支えられた兵士がぺこぺこ頭を下げながら、おずおずと口を開いた。
「あの……ミーシャ様からのご伝言で、佐藤健二様に医療棟へいらしていただきたいと……」
「分かりました、すぐ行きます。——ありがとうございます」
兵士が立ち去りかけて、また振り返った。
「お二人はよくこういうことがあるんですか」
健二は一瞬だけ間を置いた。
「……よく、あります」
正直に言うしかなかった。
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医療棟「静寂の間」は、名前の通り静かだった。
石造りの壁が厚く、砦の喧騒をほとんど遮断している。今は患者の姿もなく、朝の薄い光が細い窓から斜めに差し込んで、床に細長い影を作っていた。薬草の乾いた匂いが漂っている。癒樹の樹液を煮詰めた薬瓶が棚に並んでいる。
ミーシャが椅子に座って待っていた。
白銀の髪が、光の中で静かに輝いている。白濁した目は動かないが、健二が入室した瞬間に顔がこちらを向いた。足音で分かるのか、気配で分かるのか——ミーシャのそれはいつも、見えているよりも確かに感じる。
「座ってください」
穏やかな声だった。健二は向かいの椅子に腰を下ろした。
ミーシャが少しの間、何も言わなかった。窓から差し込む光の筋が、床の上でほとんど動かない。健二は自分の手の甲を見た——右手の小さな火傷跡。この手で、予剣の映像を受け取ってきた。
「共鳴仮説、という話をしたいんです」
「……聞きます」
ミーシャがゆっくりと語り始めた。予剣という賜物について。健二の賜物が「可能性の分岐点を感知する」のではなく——「分岐点そのものに干渉している」可能性があること。エルガリアの世界の法則には、ヴォイドの侵食によって綻びが生じている部分がある。その不安定な部分に、健二の存在が共鳴して振れ幅を大きくしているかもしれない、という仮説。
「……つまり、私がここにいると、世界が余計にやばくなる、ということですか」
ミーシャの視線が、健二の手元に落ちた。
窓から差し込む光が動かない。
「否定できません」
三つの音節が、石壁に静かに吸われていった。
健二はその言葉を、体のどこかに受け取った。胸でも腹でもなく、もう少し奥の方——40年間かけて積み上げてきた「どうせ自分なんか」という感覚が眠っている、あの場所に。ミーシャの最初の言葉が戻ってきた。「あなたが息をするだけで、世界が少し驚いている」。その言葉と「否定できません」が、今この部屋で重なった。
沈黙が続いた。三行分の、重い沈黙だった。
——そのとき。
「健二さーーーん!!いますかーーー!!!」
壁の向こうから、水色の台風が声を上げた。
ミーシャが、ほんの微かに目を瞬いた。
健二は天を仰いだ。
重厚な沈黙が、一瞬で霧散した。
扉が開いて、リナが両手を前に差し出しながら飛び込んできた。右手首に包帯が巻かれているが、明らかに巻き方がおかしい。
「包帯の巻き直しをお願いしたくて!!自分でやったら固く締めすぎて手が動かなくなっちゃって!!」
「それはなんで自分でやったんですか」
「ミーシャさんがいなかったから!」
「いたんじゃないですか、今」
「戻ってきたら入れたんです!!」
ミーシャが立ち上がって、リナの前に来た。その動きは静かで迷いがない。白銀の指先が、リナの右手首の包帯にそっと触れた。
「壁越しに聞こえましたか」
リナが少し間を置いた。
「全部聞こえました」
健二はもう一度、天を仰いだ。
ミーシャがリナの包帯をゆっくりと解き始めた。布が一重、二重とほどけていく。三重目——なにかが落ちた。小さくて茶色い、やや乾いた何か。
三人が数秒、完全に固まった。
床の上に、樹海茸が一本、ころりと転がっていた。
「……昨日の夕食のとき、落としました」
「なんで包帯に入ってるんだ」
「気づかなかったんです」
「気づけ!!!」
リナが「でも樹海茸ってわりと細いので!!」と全力で自弁を始めた。健二は額に手を当てた。ミーシャが静かに包帯を巻き直しながら、口元が微かに動いた気がした——笑っているのかもしれない。笑っていないのかもしれない。ミーシャの表情はいつも、判断が難しい。
リナの手首への治療が終わる頃、ミーシャがリナの手に軽く触れたまま、静かに言った。
「あなたが側にいると、法則が安定する傾向があります」
リナが自分の両手を見た。金色の目が、きょとんと瞬く。
「えっ、私が?」
「……はい。理由は分かりません。でも、そういう傾向がある」
リナがまた自分の手を見た。包帯の巻き直された右手首。健二はその言葉を聞いて、何か言いかけた——が、止まった。ミーシャ、リナ、そして自分。三人の間に、奇妙な均衡があった。重さと軽さが同じ空間に同居している、あの感じ。
健二は「……そうか」とだけ言って、口を閉じた。
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午後、自室に戻った健二は引き出しを開けた。
折り畳んだ紙が、重なっている。これまで書き留めてきた予剣の映像断片——崩れる砦の石壁、血に染まるセリアの剣、泣くリナの顔、書類室の映像。一枚ずつ確かめながら、机の上に並べた。
窓の外では沈黙の樹海の梢が風に揺れている。砦の訓練場からかすかに声が聞こえる。普通の午後だった。
「否定できません」がもう一度蘇った。
健二は紙を眺めた。長い間、眺めた。ミーシャが言ったことは、仮説だ。確認された事実ではない。でも否定もされていない。自分が存在することで世界の不安定が大きくなるかもしれない——それが事実だとしたら。
去ることを、初めて本気で考えた。
荷物は少ない。もともとこの世界には何も持っていない。行き先は決まっていない。でも行き先なんて、関係ない。ここを出ることが目的なのだから——。
そこまで考えて、健二は紙を燃やさなかった。
不思議なことに、手が動かなかった。
夕刻の廊下は低い光で満ちていた。
暁楼の石段を降りながら、健二は心の中がまだ整理されていないことを自覚していた。答えが出ていないのに体が動いている。それが自分の悪い癖だと知っている。
廊下の角を曲がったとき、書類の束を抱えたセリアとすれ違った。
銀髪が夕刻の光を受けて、わずかに輝く。175センチの体が、砦の廊下の幅の中でぴたりと収まっている。氷青色の目が一瞬だけ健二を見て、端的な報告の言葉だけが交わされた。
「評議室の記録は補給長に預けてある。目を通しておけ」
「分かりました」
セリアが通り過ぎた。
健二はその後ろ姿を、三歩分だけ目で追った。
夕光の中で、引き締まった肩の輪郭が際立っていた。背筋の通った、迷いのない歩き方。砦のどんな状況でも同じ歩き方をする人間だと、健二は思った。その背中の意味を持て余しながら、胸の中で何かが落ち着かない脈の打ち方をしていた。
「健二さん、今セリア様の背中見てましたよね」
健二が振り返ると、リナが廊下の陰から顔を出していた。
「……なんでそこにいるんだ」
「偶然です」
「偶然でその位置にいるのか」
「三歩、見てましたよね」
「……」
「数えてたじゃないですか」
健二は完全に無言になった。リナが「三歩って絶妙ですね!!」と続けようとしていたので、健二は何も言わずに廊下を歩き始めた。リナの足音がついてきた。
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夜。
部屋の灯りが小さく揺れている。
健二は机の前に座って、折り畳んだ紙を手の中に握っていた。昼間並べて、また折り畳んで、引き出しに戻した紙だ。それをもう一度取り出して、握っている。
去ることを考えた。
今度はより具体的に。荷物は本当に少ない。砦から南東へ三十五キロ、クレーゲルの町まで出れば、そこから先は——。いや、先は考えられない。でも、ここを出ることは考えられる。
「否定できません」がまた来た。
「いないほうがいい」という結論が、反論より先に着地してしまう。40年間そうやって生きてきた。自分が何かに害をなしているかもしれないと分かったとき、真っ先に出てくる答えがそれだった。考えるより先に、体がその答えに向かう。
廊下に、足音がした。
ゆっくりとした足音だった。
健二の部屋の前で止まった。
引き戸に触れる、微かな音。扉の木が僅かに軋む感触が、部屋の中まで伝わってくる。廊下の冷気が扉の隙間から這い込んできた——その冷気の中に、向こうにいる誰かの体温のような密度があった。
確かにそこに、誰かがいた。
二秒間。
その二秒間が、妙に長かった。健二は立ち上がれなかった。手の中の紙を握ったまま、廊下の気配に耳を澄ませていた。扉を開けようとして——開けなかった。開けた先に何があるかを考えて——考えることをやめた。ただ、その体温の密度が扉の向こうにあることを感じていた。
やがて足音が再び動き始めた。遠ざかっていく。
健二は恐る恐る引き戸を開けた。
廊下の角に、リナの寝巻き姿の後ろ姿が消えるところだった。水色の髪が、廊下の薄灯りの中で揺れた。
「リナ」
呼んだ。
リナは振り返らなかった。足音がゆっくりと続いて、隣の部屋の扉が静かに閉まった。
健二は廊下に立ったまま、少しの間そこにいた。夜の石壁が冷たい。廊下の薄灯りがぼんやりと床を照らしている。リナの体温の残滓のような何かが、廊下の空気にまだ漂っている気がした。
朝になった。
リナが食堂に現れたとき、いつもと何も変わらない顔をしていた。金色の目がきらきらしていた。健二の隣に座って、スープ皿を受け取りながら言った。
「夜中は廊下が涼しくて気持ちいいですよね。通り道ですから」
視線が、さりげなく逃げていた。
天然なのか。意図的なのか。
健二にはどちらとも判断できなかった。リナという存在の奥行きが、いつもの明るさの裏にどのくらいあるのか——健二にはまだ、測り切れていない。
「……そうか」
諦観で返した。
健二はその夜、去ることを考えたまま、しかし一枚も紙を破らず、荷物も整理しなかった。引き出しの紙は増えていたが、一枚も燃やしていない。
それが今の健二にとっての、かろうじての答えだった。
ただ——扉の向こうにいた体温の密度が、その答えにぎりぎりの重さを加えていた。「否定できません」と同じ重さで、あの二秒間がそこに存在していた。
引き出しを閉める。
答えはまだ、出ていない。