フリーター無双
40歳のフリーター、佐藤健二はコンビニの夜勤明け、自宅アパートの階段で足を滑らせた瞬間、眩い光に包まれた。気がつくと、そこは見知らぬ森の中。鎧をまとった若者たちに囲まれ、彼らは異界の侵食と呼ばれる現象から逃れてきた転移者だと説明される。この世界エルガリアは、次元の裂け目から現れる謎の存在ヴォイドに侵食されつつあった。転移者には稀に特殊な賜物が与えられるという。健二に授かったのは予剣――戦闘時にわずか2秒先を予見する、地味だが戦場では驚異的な能力だった。
転移者たちの拠点黎明の砦で、健二は冷ややかな視線を浴びる。砦を統率するのは、銀髪を高く結い、鋭い眼光の女戦士長、セリア。彼女は規律と実力を重んじ、だらしなく、年齢も離れた健二を厄介者とみなす。健二の世話役(兼監視役)として付けられたのは、天然でおっちょこちょいな雷魔法使いの少女、リナ。彼女は戦闘では強力な魔力を発揮するが、日常生活では魔法を暴走させては周囲を巻き込むトラブルメーカーだ。さらに、盲目でありながら優れた治癒の祈りを捧げる僧侶の少女、ミーシャがいる。彼女は視覚以外の感覚が鋭く、健二の内に秘めた何かを感じ取っているようだった。
フリーター無双 - 評議室の静寂と、予剣が問いを映した日
引き出しの中に、紙がある。
昨夜も破かなかった。燃やさなかった。ガイスの言葉、評議室の空気、予剣が映した自分自身の後ろ姿——それらを書き留めた羊皮紙が、引き出しの底でまだ息をしている。健二はそれを確かめてから、机に頰杖をついた。窓の外はまだ薄暗い。沈黙の樹海——砦の西側に広がる広大な広葉樹林——の方角から、朝靄が流れてくる気配がある。
よし。今日こそ、全部ちゃんと考えよう。
そう思った瞬間だった。
ドンッ!!!!
廊下から盛大な音が響いてきた。続いて、紙がはらはらと舞う音。パサパサパサパサパサ——たくさんの紙が一気に散乱する、あの独特の音。
「あっ」
「あっじゃねーよ!!!!」
健二は頰杖から手を外した。何が起きたのか、大体わかる気がした。
廊下を覗くと、若い兵士——砦にきて半年も経っていない、顔に豆粒みたいなそばかすが散っている新米だ——が、召集状をぶちまけていた。石畳の上に、羊皮紙がおよそ二十枚、盛大に散乱している。兵士は青ざめた顔で「す、すみません!!!」と言いながら四つん這いで拾い始めていて、補給長が廊下の壁に手をついて「……落ち着いて回収しろ」と低い声で言っていた。
その「低い声」が怖い。静かで怖い。
健二は引き戸の陰からその光景を見守った。
どうやったらそうなるんだろう。
普通に歩けばよかっただけでは。
兵士が急いで紙を集め直して、くしゃくしゃになった一枚を補給長に差し出した。補給長がそれを見て、ひっそりと目を細める。
「これは医療棟行きじゃないか」
「え、あっ、では」
「そっちは武器庫の在庫確認だ」
「あわわわ」
「全部回収してやり直してこい」
「は、はいいいいい!!!!」
兵士が全力ダッシュで廊下を駆けていった。ドタバタバタバタ——という音が砦の石廊下に盛大に響いて、どこかの部屋から「うるさい!!」という声が聞こえた。補給長がため息をついて、天井を仰いだ。
健二はそっと引き戸を閉めた。
(砦の朝っていつもあんな感じだったっけ)
しみじみ思った。
その五分後。
バチィッ!!!
「わあっ!!」
リナが廊下から引き戸を勢いよく開けた。水色のショートボブが逆立ちかけていて、金色の目が焦っている。右手の指先から、まだ細かい火花がパチパチと散っている——今朝も早速やらかしたらしい。
「健二さん!!召集ですよ召集!!評議会です!!朝から!!」
「声でかい」
「大事なので声が大きくなりました!!」
リナが勢いよく室内に踏み込んできた。廊下で緊張していたらしく、右手の魔力がまだ落ち着いていない。健二は反射的に左側に体を寄せた。——昨日は右肩だった。今日はどっちだ。
「落ち着けってば。緊張してるのか?」
「緊張してます!!ガイスさんのことがあるので!!」
「そうか。でも魔力が——」
バチィッ!!!!
左肩に直撃した。
水差しが倒れた。机の上の水差しが、盛大に倒れた。衣服の左半分が、みるみるうちに濡れていく。じわあああ、と冷たい水が布地に染み込んで、腕の輪郭がくっきりと浮き上がる。
「……」
「今日は左側でした!!右は昨日直ったと思います!!」
健二は廊下の天井を仰いだ。黙って仰いだ。
「どこが直ったんだ」
「全体的に直りつつあります!!」
「いや全体的に直れ」
「全体的が難しいんです」
「そうじゃなくて」
「着替えましょうか!?」
健二が着替えようと動いた瞬間、リナに腕をぐいと引っ張られた。
「時間がないです!!行きましょう!!」
「ちょっ——」
「行きます!!」
左肩びしょ濡れのまま、廊下に引っ張り出された。歩くたびに、冷えた布地が肩口にぴたりと張り付く。腕の線がくっきり見える状態で評議室まで行かなければならない。健二は廊下を歩きながら、自分の濡れた左腕を一瞬だけ見下ろした。布の重さが肩に貼り付く冷たい感触が、歩くたびに意識に引っかかる。すぐに視線を前に戻した。
(……まあいいや)
良くはなかったが、今更だった。
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暁楼——砦の中央に立つ高さ二十二メートルの石塔——の中段、評議会が開かれる広間の扉を押した瞬間、三対の視線が一斉に健二の左肩に集まった。
全員が見た。
セリアが見た。補給長が見た。医療長が見た。
セリア・アストリッドの銀灰の視線が、健二の左肩から下へ、一度だけゆっくりと動いてから、正面に戻った。その視線の止まり方が、ほんの一瞬だけ、普通より長かった。健二は——それに気づいた。気づいてしまって、濡れた肩口から首の後ろにかけて、じわりと熱いものが広がる感覚があった。冷たいはずの濡れた布と、熱くなる首筋。その対比がおかしくて、健二は心の中だけで苦笑した。
補給長が、何も言わずに目を逸らした。
医療長だけが、小声で呟いた。
「……また?」
そして口を押さえた。
リナは評議室には入れないので、廊下で待機している。健二が扉を閉める前に「見張ります!!」と言っていたが、それは見張りでも何でもない。ただ廊下にいるだけだ。
席に着く前に、もう一人が扉を開けた。
ガイス・クラヴェン——砦で最も長く侵食の調査記録と向き合ってきた古参の調査士で、四十五年にわたって侵食現象を研究し続けてきた学者肌の人物だ——が入室した。白髪混じりの黒髪、学者めいた物腰、整然とした歩き方。丁寧に一礼して、中央の椅子に座った。膝の上に両手を揃えた、整然とした挙措だった。
室内の空気が、変わった。
セリアが羊皮紙を開いた。端的に読み上げる。侵食データの外部送信。無断での情報収集。砦の安全規程に反する行動の記録。
ガイスは即答した。否定しなかった。認めた。その速さが、室内の空気を別の次元へ引きずり込んだ。
沈黙の中で、補給長の椅子が鳴った。
「ぎぃぃぃ……」
補給長が体重移動を途中で止めて、固まった。議事録担当の若い兵士が緊張でインク壺に肘を当てた。机の端から滑って——カチン、カタン、と転がって——床に落ちた。石の床にインクが広がる音が、静かに静かに止んでいく。
全員がその音を聞いていた。誰も動かなかった。
インクが広がる音が完全に止んでから、ガイスが静かに言葉を続けた。
「目的は明確です」
セリアが問うた。
「何のためだ」
ガイスが、短い間を置いた。
「侵食は止められません」
七文字が、室内に落ちた。
誰も何も言わなかった。補給長の椅子がもう一度「ぎぃ」と鳴ったが、今度は補給長本人も気づいていないようだった。
ガイスが続けた。穏やかな声だった。怒鳴らず、卑屈にもならず、ただ事実を語るような声だった。
「四十五年。私はずっとそれを見てきました。侵食は拡大し続けている。封じることも、消し去ることも、現在の技術では不可能だ。ならば——使いこなす側に立つ。それが唯一の道ではないかと、私は考えています」
室内が、完全に静止した。
医療長の手が震えていた。震えた手で議事録のペンを持ち直そうとして——落とした。ペンが石の床に当たってカンカンと跳ね、机の脚にぶつかって止まった。医療長が椅子から拾おうとして、半分滑り落ちかけて机の縁に掴まった。補給長が横目でそれを見た瞬間、補給長の椅子が「ぎぃ」と鳴った。
廊下側の窓に、何かが貼り付けられた。
補給長が視認した。白い紙切れに、大きな文字で「見張りです!」と書いてある。
「……いつ貼ったんだ」
誰も答えなかった。ガイスが前を向いたまま静かに待っていた。
健二は評議室の端に立ったまま、ガイスの言葉を咀嚼しようとしていた。
四十五年。
その数字の重さが、じわりと体の中に落ちてくる。ガイスがヴォイドと向き合ってきた時間の長さ。それだけの時間をかけて辿り着いた結論が、あの七文字だった。
(間違っているのか? 正しいのか?)
そう思った瞬間、予剣が静かに起動した。
二つの映像が現れた。
一つは、侵食領域の中を誰かが安全に歩いている光景。結晶化した樹木の間を、確かな足取りで進んでいる。もう一つは、崩れゆく砦の石壁。黒紫の靄が壁面を侵食していき、積み上げられた石が崩れ落ちていく。
どちらも等価だった。どちらも「本物の可能性」として、同じ重さで並んでいた。
健二の体の芯を、何かが貫いた。
「見ることと理解することは別物だ」——その事実が、概念としてではなく、もっと直接的に体に届いてきた感覚があった。四十年間、「どうせわからない」と生きてきた。でも今初めて——わからないことが自分だけの欠陥ではなく、世界そのものの構造かもしれないという可能性の縁に、立っている気がした。予剣は答えを教えてくれない。ただ問いを映している。
セリアが口を開こうとした。
その直前、銀灰の瞳が——一瞬だけ、健二の方を向いた。
確認なのか。問いかけなのか。それとも全く別の何かなのか。一秒にも満たない時間だったが、健二にははっきりわかった。その視線が、自分に向いたということだけは。濡れた左肩がまだ冷えている中で、その一瞬だけ——胸の中の温度が少し戻った気がした。冷たいのに温かい、という矛盾した感覚が数秒間だけ存在して、次の瞬間にはもう消えていた。消えているのに、消えていなかった。
セリアが言った。
「職務を停止する。身柄を預かる」
端的だった。迷いのない声だった。
ガイスはその言葉を聞いて、初めてわずかに口の端を動かした。笑みなのか、安堵なのか、それとも別の何かなのか——室内の誰にも、判断できなかった。
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評議が終わって、人が散った後、健二は一人で暁楼の中段廊下の窓縁に残った。
外は薄曇りだった。沈黙の樹海の緑が、白い空の下で霞んでいる。空気が少しひんやりしていて、廊下の石壁から冷気が滲んでくる。左肩の濡れた布地は、まだ乾き切っていない。
廊下の角から、リナが現れた。
当然のような顔で、隣の窓枠に腰を下ろした。
「どこに来るかわかります」
「それはもう言うな」
短い攻防の後、リナが「見張りです!」の紙の話を始めた。全力で報告した。
「補給長さんに回収されました」
「まあそうなるよな」
「返してくれませんでした」
「返さなくていい」
「悲しいです」
「その紙の何が悲しいんだ」
「見張りの魂です」
「魂がずれてる」
窓枠の幅が狭かった。二人が並んで腰を下ろすと、自然にリナの右肩が健二の左肩と触れた。濡れた布地越しに、温かさが伝わってくる。リナの体温が、冷えた布地に染み込んでくる感触があった。どちらも何も言わなかった。どちらもそれに触れなかった。ただ、薄曇りの外を二人で見ていた。
薄い光がリナの水色の髪を照らしていた。頬の柔らかな輪郭が、霞んだ緑の景色を背景にして、静かに存在していた。肩越しに伝わってくる温度が、じわりじわりと冷えた左腕に染み込んでいく。
健二がひとりごとのように言った。
「予剣って、答えを教えてくれないんだな」
リナが少し間を置いた。
「ガイス副司令の言ってたこと、間違ってると思います」
健二は横を向いた。
「なんで?」
リナが答えた。
「わからないですけど、間違ってると思います」
論拠がなかった。根拠がなかった。なのに——その声には、芯があった。普段の天然な明るさとは全く違う、静かで真っ直ぐな確信だった。道化を降りたリナの声だった。
健二は少し、黙った。予剣が映した二つの映像——等価な二つの可能性——は、どちらが正しいかを教えてくれなかった。でも今リナが口にした「間違ってると思います」は、その二つの映像とは全く別の種類の重さで、健二の中に刺さった。
胸の中で何かが一拍、乱れた。
リナの横顔を横目に収めた。薄曇りの光の中で、その横顔は静かだった。金色の目が遠くを見ている。普段の賑やかさがどこかに行って、ただ確信だけが残っているような顔だった。健二が視線を前に戻すまでに、一秒かかった。
廊下の奥から、足音が聞こえた。
セリアだった。書類の束を抱えて、暁楼の上へ向かっている。規則正しい足音。真っ直ぐな背筋。左頬の薄い刀傷の線が、廊下の薄明かりの中でかすかに見えた。
健二がその背中を目で追った。三歩。
「また三歩ですか」
「数えるな」
足音が遠ざかって、暁楼の上へ消えていった。リナが少しだけ声のトーンを落とした。
「セリア様、大丈夫でしょうか」
道化ではなかった。さっきと同じ声だった。静かな、真剣な声だった。
健二は答えなかった。わからなかったから。でも——わからないまま、ここにいる二人が、同じ方向を向いているのは確かだった。肩が触れていた。薄曇りの光の中で、どちらも答えを出さないまま、外を見ていた。
---
夕刻、自室に戻った。
机の引き出しを開けた。紙は増えていた。前話から、ずっと増え続けている。破かない。燃やさない。それだけは決まっていた。
今日の分を書いた。ガイスの言葉。評議室の静止。予剣が映した二つの映像。リナの「わからないですけど」という横顔。セリアの視線が一瞬だけ向いた、あの一秒以下の時間。
書いて、折り畳んで、引き出しに入れた。
引き出しを閉める前に、予剣が一度だけ静かに起動した。
映像は短かった。砦でも、侵食領域でもない。見知らぬ空間だった。霧のような場所に、一人の後ろ姿があった——健二自身の後ろ姿が、そこにあった。どこを見ているのかわからない。何に向かっているのかわからない。ただ、その背中は迷っていなかった。
映像が消えた。
健二はしばらく、引き出しを前にして座っていた。薄曇りが続いた空が、もう暗くなっている。窓の外、沈黙の樹海の方角から、夜の風が微かに届いてくる。
予剣は答えを教えない。問いを映している。
でも——今日の問いは、昨日までと少し違う重さで積み重なった気がした。リナの確信が、セリアの視線が、ガイスの四十五年が、全部まとめて引き出しの中に入っている。
健二は引き出しを閉めた。
破かない。燃やさない。わからないまま引き出しを閉めることを選んだ。
それが今の自分にとっての、かろうじての答えだった。ただ——次に予剣が映す映像が何なのか、健二にはまだ、想像もつかなかった。