フリーター無双
40歳のフリーター、佐藤健二はコンビニの夜勤明け、自宅アパートの階段で足を滑らせた瞬間、眩い光に包まれた。気がつくと、そこは見知らぬ森の中。鎧をまとった若者たちに囲まれ、彼らは異界の侵食と呼ばれる現象から逃れてきた転移者だと説明される。この世界エルガリアは、次元の裂け目から現れる謎の存在ヴォイドに侵食されつつあった。転移者には稀に特殊な賜物が与えられるという。健二に授かったのは予剣――戦闘時にわずか2秒先を予見する、地味だが戦場では驚異的な能力だった。
転移者たちの拠点黎明の砦で、健二は冷ややかな視線を浴びる。砦を統率するのは、銀髪を高く結い、鋭い眼光の女戦士長、セリア。彼女は規律と実力を重んじ、だらしなく、年齢も離れた健二を厄介者とみなす。健二の世話役(兼監視役)として付けられたのは、天然でおっちょこちょいな雷魔法使いの少女、リナ。彼女は戦闘では強力な魔力を発揮するが、日常生活では魔法を暴走させては周囲を巻き込むトラブルメーカーだ。さらに、盲目でありながら優れた治癒の祈りを捧げる僧侶の少女、ミーシャがいる。彼女は視覚以外の感覚が鋭く、健二の内に秘めた何かを感じ取っているようだった。
フリーター無双 - 予剣が映す、知ってはいけない断片
朝の空気はひんやりしていた。
鉄踏み広場——砦の直径六十メートルの円形訓練場——には、まだ朝霧が薄く漂っていた。昨夜の廊下のことが、まだ頭の隅に残っている。リナの肩の重さ。体温。規則的な呼吸のリズム。それを思い出すたびに首の後ろがじわりと熱くなるので、健二はとりあえず訓練場の石床を見て気持ちを切り替えようとしていた。
石床には昨日の雨の名残が溜まっていた。水たまりが、いくつかある。
(これは、嫌な予感がする)
予剣——健二に宿った賜物で、わずか二秒先の状況を断片的に予見する力——を使うまでもなかった。嫌な予感はだいたい、使う前に当たる。
「魔力出力、安定テスト! 今日こそ成功させます!」
水色のショートボブが、朝の光の中で鮮やかに輝いていた。リナが両腕を前に伸ばし、金色の目をきらきらさせながら宣言している。その表情には一片の疑いもない。満々の自信というより、むしろ満々の無邪気さだ。訓練場の端に張り付いた魔力緩衝陣——リナの暴走対策で追加設置された特殊な地面の陣——が、どことなく「また来た」と言いたげに見える。
近くで朝練をしていた兵士たちが、ほんの少しだけ訓練場の端から遠ざかった。
自然な動きだった。生活の知恵だ。
「着地点の計算、しましたよね?」
「もちろんです! 昨夜ちゃんとシミュレーションしました!」
「どこに落とす予定ですか」
「あの岩の上です!」
リナが指さした先は、訓練場の中央に置かれた的用の石だった。確かに水たまりから離れている。問題ない……はずだった。
バゴォォォォン!!!!
雷撃が炸裂した。
リナの狙い自体は悪くなかった。問題は昨夜の雨だった。魔力緩衝陣の縁にじわりと染み込んでいた電気が、陣の外側を走って、訓練場の隅に溜まった大きな水たまりに直撃した。
水が爆発した。正確には、水が雷の導線になって、盛大に飛散した。
ザバアアアアッ!!!!
健二は一瞬だけ予剣でそれを見た。次の瞬間、予剣が警告するより早く、現実の水が降ってきていた。頭から。靴の中まで。
「………」
しばらく、盛大な静寂があった。
水が滴る音だけが、訓練場に響いている。
リナが振り向いた。金色の目が点になっている。
「緩衝陣があったから大丈夫でしたよ!」
「俺は大丈夫じゃないです」
「でも爆発はしていません!」
「基準が低い!!!」
訓練場の兵士一同が、生温かい視線を健二に向けていた。同情とも呆れとも取れる視線だ。誰も助けに来ない。砦の人間は皆、リナの訓練日にこうなる確率を把握している。
健二は靴の中の水を感じた。ぐちゃりとした、あの感覚だ。三日連続だった。
(三日連続!! 今週の運が完全に終わった!!!)
内心でそう叫びながら、健二は濡れた袖を一度絞った。ぐっしょりしている。リナが「ごめんなさいごめんなさい今日こそうまくいくと思ってたんですけど水たまりの計算を忘れてて——」と早口で謝りながら近づいてきた。
そのとき——。
健二の足が止まった。
予剣が、起動した。
水たまりを踏んだときの感触とは全然違う何かが、頭の中に割り込んでくる。映像だ。鮮明ではない。断片的な、切り取られたような映像。
暗い部屋。小さな夜灯の光。誰かの大きな手が、木製の引き出しを開けている。その手は素早く、慣れた動きで何かを取り出し——いや、押し込んでいる。薄い革表紙のファイル。引き出しの底に滑り込ませる、折り畳まれた一枚の紙。その紙の右上隅に、細かい数字の羅列。見慣れた書式だ。侵食データを記録するときの、あの書式に似ている。
三秒もかからなかった。
映像が、ぶつりと切れた。
「健二さん?」
リナの声が届く。健二は靴の中の水が「ぐちゃり」と音を立てるのを感じながら、ゆっくり顔を上げた。リナが心配そうに覗き込んでいる。金色の目に、本物の心配が滲んでいた。
「……なんでもないですよ」
「顔色、変わりましたよ」
「水が冷たかったんだと思います」
リナが「そんなわけ……」と言いかけて、口を閉じた。何か言いたそうな顔をしていたが、健二がそれ以上を語る気がないことを感じ取ったのかもしれない。押さなかった。
(あの手は、誰のものか)
書類室——健二は映像を反芻した。引き出しの底。折り畳まれた紙。侵食データの書式に似た数字。あれが何なのかは分からない。分からないが、確かに見た。大きな手。慣れた動き。砦の中に、あの手の持ち主がいる。
誰かに話すべきか。
その問いが、靴の中の水みたいに、ずっとそこに残り続けた。
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午前中の備品整理は、静かな仕事のはずだった。
物資庫の棚を確認しながら、健二はぼんやりと考え続けていた。あの映像の手の持ち主は誰か。引き出しはどこの部屋か。予剣の映像はいつも断片的で、解釈の余地がある。見えた映像が示しているものと、自分の推測が混入しているものを、どうやって切り分けるか。それが分からない。
「薬草袋の整理、手伝いますね!」
リナが棚の上の方に手を伸ばした。保存用の薬草袋がびっしり並んでいる。白い布袋が、整然と積み重なっている。
(頼んでいないし、そこは俺が手が届く——)
「あ」
リナの足が少し滑った。バランスを取ろうとして、棚の端を掴んだ。棚の端には、乾燥中の薬草袋が積み上げられていた。
ズドドドドォォン!!!
リナの体重が全て袋の山にかかり、袋の底が破れた。白い粉末が煙のように充満した。癒樹の花粉を乾燥させた調合用の薬草だ。それが物資庫全体に広がっていく。
「は——ほぅ——くしゅン!!!!」
リナが盛大にくしゃみをした。同時に目を手で押さえる。健二も目に粉が入った。
「いたい!! 目がいたい!!!」
「くしゅっ——目がぁ——くしゅっ!!!」
二人そろってくしゃみを連発しながら、手を引っ張り合って物資庫から転がり出た。廊下にへたり込んで、真っ赤になった目を両手で押さえる。
「いったあああ……」
「ごめんなさいごめんなさい……くしゅっ!!」
近くを通りがかった兵士が二人のそばで足を緩め——そしてさりげなく遠回りして別の廊下へ消えていった。関わらない方がいいと判断したのだろう。砦の生活の知恵だ。
健二は目を押さえたまま、廊下の石壁に背中を預けた。視界がぼやけている。鼻がむずむずする。さっきの映像がまだ頭に引っかかったままで、その上にくしゃみと目の痛みが重なっている。
(誰かに話すべきか、まだ分からない。セリアに言うべきか。でも、断片的すぎる映像で人を疑うのは)
廊下でしばらく二人して蹲って目を押さえている間、その問いだけがぐるぐると回り続けていた。
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午後、医療棟「静寂の間」へ向かったのは、包帯の交換という口実だった。正直に言えば、ミーシャに話を聞いてほしかった。
静寂の間は、いつも通り薬草の香りが漂っていた。癒樹の樹液の瓶が窓からの光を受けて、薄く輝いている。病床は今日は空で、白い布が整然と張られていた。ミーシャが部屋の奥から現れた。白銀色の長い髪を緩くまとめ、完全に白濁した瞳はどこも向いていないのに、迷いなく健二の方へ歩いてくる。
包帯を巻き直しながら、ミーシャは何も聞かなかった。ただ、冷たく繊細な指先が手首の上を動いていく。その無言の時間の中で、健二は自分から口を開いた。
「今朝、変な映像を見たんですよ」
ミーシャの手が止まらなかった。聞いている証拠だ。
「書類室みたいな部屋で、誰かが引き出しの底に何かを隠していた。折り畳まれた紙で、侵食データみたいな数字が書いてあった。三秒くらいで切れたんですけど」
ミーシャは少し間を置いた。包帯を結んでから、静かに言った。
「あなたの賜物が、世界の見ていなかった場所を見せている、ということかもしれません」
「それって俺が怒られてるのと何が違うんですか」
「……違います、たぶん」
「『たぶん』のところが一番怖いんですよ」
ミーシャが、何とも言えない静けさで健二を見た。白濁した瞳は光を映さないが、その表情には確かに何かが宿っている。共感とも、距離ともつかない、独特の静謐さだ。
「あなたの力は、普通の予見とは少し違う動き方をしている気がします。二秒先ではなく、もっと別の何かに反応した可能性があります」
「別の何か、って」
「今は分かりません」
「解決しないやつですね、それ」
「はい」
健二は諦めた顔で包帯を見た。ミーシャとの会話はいつもこうだ。論点が少しずつずれていって、最終的に霧の中に消える。それが「情報がない」という正直な態度なのか、「知っていて言わない」という選択なのか、健二にはいまだに判断できない。
ミーシャが立ち上がり、棚の薬を整理し始めた。それから、こちらを向かずに一言だけ付け加えた。
「今朝あなたが見たもの。砦の中にあるものだと思います。慎重に」
健二の手が止まった。
砦の中。
その言葉が、静寂の間の薬草の香りの中に溶けていった。ミーシャはそれ以上何も言わなかった。健二もそれ以上は聞かなかった。
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夕暮れが砦の石壁を橙色に染め始めた頃、健二は決めた。
セリアに話す。今日中に。
確かなことは何もない。映像は断片的だし、誰の手かも分からないし、あの紙が何なのかも分からない。それでも、砦の戦士長に伝えるべきだという判断は、予剣とは関係なく健二の中で固まっていた。
暁楼——高さ二十二メートルの砦の石塔——の石段を上りながら、健二はどう話すかを考えていた。「今朝、こんな映像を見ました」それだけだ。証拠はない。信じるかどうかはセリアが判断すればいい。
最上階の廊下を歩く。突き当たりに、執務室の扉がある。
健二は手を上げた。ノックしようとした、その瞬間——。
扉の横に窓がある。薄いガラスが嵌まった、小さな明かり取りの窓だ。角度によっては、執務室の内側が少しだけ見える。
健二の手が止まった。
ランタンの光の中に、セリアがいた。
銀髪を高く編み上げ、外套の前を閉じたまま、机の上の資料を両手で押さえている。白くなった指先が、紙の端を強く押さえている。力が入りすぎて、紙の縁がわずかに波打っていた。セリアの横顔は、窓の外からは表情が読みにくい角度だった。でも、肩の線が分かる。首筋の張り方が分かる。
一人で、長いこと、同じ資料を見続けている。
ランタンの光が、銀髪の輪郭を柔らかく縁取っていた。窓ガラス越しのその光景が、健二の手をそのまま宙に止めていた。ノックしようとした手が、降りてこない。
(この人も、何かを抱えている)
それは確信というより、感触に近かった。自分が今から持ち込もうとしているものと、セリアが今抱えているものが、何か同じ重さをしているような気がした。
健二は手を下ろした。静かに踵を返して、階段を降り始めた。
半分くらい降りたところで、後ろに気配があった。
振り返ると、当然のようにリナがいた。二段後ろ。
「……なんでついてきてるんですか」
「なんとなく」
「そのなんとなくを説明してほしいんですが」
「できません」
健二は額に手を当てた。リナが少しだけ視線を逸らして、恥ずかしそうに首をすくめた。廊下の薄灯りの中で、水色の髪が揺れる。
二人して、踊り場で並んで壁に背中を預けた。石の冷たさが背中に染み込んでくる。夕暮れの終わりかけた光が、暁楼の細い窓から差し込んでいた。
「行かないんですか」
「今じゃないほうがいい気がして」
「セリア様、一人で何か調べてました?」
「そんな感じだった」
リナが少し黙った。膝を両手で抱えて、踊り場の石床に視線を落としている。それから、静かに言った。
「セリア様、たぶん前から何か調べてましたよ。執務室に入ると資料の種類が変わってるのが分かるから」
健二が横を向いた。
「……気づいてたんですか」
「世話係ですから。部屋に出入りしてると、なんとなく」
リナが少し照れたように言った。金色の目が、健二の視線を受けてわずかに揺れた。でも逸らさなかった。いつもの天然な明るさの底に、静かで鋭い何かが一瞬だけ顔を出した。
(この子は、思ったより見ている)
健二は少し黙って、それから薄暗い踊り場の天井を見上げた。二人の間の距離が、自然に少し近かった。狭い踊り場に並んで座るとそうなる。リナの体温がうっすらと感じられる距離だった。
「今日はやめます。明日、ちゃんと考えてから話します」
リナがこくりと頷いた。それ以上、何も聞かなかった。
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自室に戻った健二は、しばらく机の前に座っていた。
羽ペンを手に取る。羊皮紙の余白に書き留めようとした——今朝の映像を。書類室の夜灯。大きな手。引き出しの底。折り畳まれた紙。侵食データに似た数字の羅列。
書き始めて、止まった。
「断片的な映像を見た」と書くのは簡単だ。でも、それが「何を意味するか」になった途端に、ペンが動かない。見たことと、それが意味することの間に、埋められない距離がある。
健二は書きかけの羊皮紙をしばらく眺めた。
そのとき、壁の向こうからことんと音がした。リナの部屋の方向から、何かが落ちる音だ。少し間があって、控えめなノック音が扉に届いた。
扉を開けると、リナが廊下に顔だけ出していた。夜着姿だった。薄い布の生地が廊下の灯りを柔らかく透かして、リナの輪郭をほんのりと縁取っていた。水色の髪が、ゆるく乱れている。金色の目が、少し心配そうに健二を見ていた。
「健二さん、今日ずっと何か考えてる顔してました」
「……まあ、そうかもしれない」
扉を挟んで、二人は少しの間そのままでいた。廊下の薄灯りと部屋の灯りが混ざって、不思議な境界線を作っていた。リナと健二の距離は、扉一枚ぶんしかない。リナの吐く息が、廊下の冷気の中にわずかに白く見えた。
リナが少し視線を床に落として、それからまた健二を見た。
「言いたくなったら言ってください。言いたくなくても、側にいますから」
静かな声だった。いつもの元気な軽やかさとは少し違う、低くて穏やかなトーンだった。それだけ言って、リナは廊下の奥へ戻っていった。夜着の裾が揺れて、薄灯りの中に消える。足音が小さくなって、隣の扉が静かに閉まった。
健二は扉を閉めた。
机に戻って、書きかけの羊皮紙を見た。ペンが手の中にある。胸の中に、さっきのリナの体温に似た何かが残っていた。声の余韻が、まだそこにある気がした。
手が止まった。
そのとき、予剣が再起動した。
ほんの一瞬だった。書類室の映像ではなかった。砦の石壁の外。夜の闇の中。誰かの背中が、砦の外へ向かって歩いていく。
映像が切れた。
健二は羊皮紙を静かに折り畳んだ。
燃やさなかった。
引き出しを開けて、その底に、そっと入れた。