生存者のための遺書
西暦2247年、人類は地上を失い、垂直都市ケージに押し込められた。支配者ホルダーと、人権を持たないリソース。その歪な構造の底で、少年カイトは「生きろ」と笑った少女の言葉だけを抱えて生きている。
年に一度のデスゲーム〈トケイバコ〉。本選の舞台はスナドケイ区——指輪を奪い合い、三点に満たなければ爆死する地獄の遊戯だ。カイトは地下組織クサビの密命を背負いながら、誰にも悟られず「所持ゼロ」を装う独自の戦法で人混みから姿を消そうとする。
だがそこで出会ったのは、自分と同じ戦法を選んだ、琥珀色の瞳を持つ少年だった。
名前も声も交わさぬまま、二人は確信する。
——また会う。そして、何かが動き出す。
生き延びることは罪なのか、それとも誰かへの誓いなのか。
壁の中に閉じ込められた人間たちの、絶望と希望が交錯する近未来サバイバル。
これは、死にゆく者たちが残す、生者への遺書である。
生存者のための遺書 - 選別の刻 ―― 規則の外側で笑う公爵
運営準備室の空気は、朝からずっと重く沈んでいた。天井の蛍光灯が一つ、また一つと明滅を繰り返し、そのたびに名簿の文字が浮かび上がっては闇に沈む。カイトは長机の前に立ち、再配置者名簿の原本を見下ろしていた。革装の分厚い帳簿は、昨夜書庫で触れたものと同じ重さで、机の上に開かれたまま動かない。
(ここで、決める)
カイトは、帳簿のページをめくった。ノアの欄。区分は『保留』。その文字が、薄暗い光の下で、やけに冷たく見えた。規則書の余白に書かれていた注釈を、カイトは昨夜から何度も頭の中で反芻している。脱落者を意図的に再配置対象として処理した場合、その者は運営責任の範疇に入る。つまり、ゲームの勝敗から切り離せる。戦わせずに済む。
だが、それは同時に、ノアを『再配置』という名の別の檻へ送るということでもあった。記憶をさらに削られ、人形のように使われる。それでも、殺されるよりはましだと、カイトは自分に言い聞かせた。
(違う。これは、ましな選択じゃない)
(でも、今はこれしかない)
カイトは、帳簿の脇に置かれた筆記具を手に取った。運営卓の端末に接続された専用のインク。記録がそのまま公爵側のシステムへ送信される。操作ログが残る。公爵の目に、筒抜けになる。
指先が、震えた。
カイトは、自分の右手を、左手で押さえつけた。指の震えが止まらない。心臓の音が、耳の奥で、やけに大きく響く。施設で死を見慣れてきた。恐怖を顔に出さない技術を、何年もかけて身につけてきた。それなのに、今、指が震えている。
(公爵に見つかれば、終わりだ)
(ノアだけじゃない。俺も、レンも、まとめて処理される)
(でも、ここで手を止めたら、ノアは今日、確実に殺される)
カイトは、深く息を吸った。肺の奥まで、黴と鉄錆の匂いが入り込んでくる。吐く。もう一度、吸う。三度目の呼吸で、指の震えが、わずかに収まった。
(やる)
カイトは、筆記具の先を、ノアの欄に落とした。『保留』の文字の上を、丁寧に、しかし確実に、二本の線で消す。そして、その隣の区分欄に、新しい文字を書き込んだ。
『再配置対象』
インクが乾くまで、カイトは、その文字を見つめていた。自分が今、何をしたのかを、頭の中で、何度も確認する。公爵のシステムに、この記録が送られる。ログが残る。もう、後戻りはできない。
カイトは、筆記具を机に置いた。指先が、まだ、冷たい。
(これで、ノアは、今日の催しでは殺されない)
(代わりに、誰かが、選ばれる)
カイトは、名簿の他のページを見た。『保留』の欄に並ぶ、無数の番号。その一つ一つに、名前があり、顔があり、消された記憶がある。カイトの選択が、その誰かの運命を、また別の方向へ曲げる。
(知るか)
カイトは、心の中で、自分に言った。
(全員は救えない。なら、目の前の一人を選ぶ)
(それだけだ)
――
同じ頃、タワー・オブ・ヴェルナーの上層。公爵の執務室は、静寂に包まれていた。窓の外には、ケージ上層の無数の光が、朝の空気の中で淡く揺れている。部屋の中は、いつもと変わらず、清潔で、冷たく、時間が止まったかのようだった。
レンは、公爵の机の前に、一人で立っていた。
呼び出された理由は、部屋に入った瞬間に、わかった。公爵の机の上に、一枚の端末画面が置かれている。そこには、運営準備室の名簿が表示されていた。ノアの欄が、『保留』から『再配置対象』へと書き換えられる瞬間の記録が、克明に残っている。
「見ましたか。実に興味深いでしょう」
公爵は、銀髪を後ろに流し、冷たい薄い青の瞳を細めた。口元には、いつもの微笑み。左手の宝石の指輪が、窓からの光を反射して、ちかりと光る。
「君の相棒は、私の規則の外側へ出ようとしている。あの名簿の細工、なかなか巧妙でした。脱落者を再配置対象として処理すれば、ゲームの勝敗から切り離せる。あの子は、そういう穴を見つけたのです」
レンは、何も言わなかった。
公爵は、ゆっくりと椅子から立ち上がった。足音は、絨毯に吸い込まれて、ほとんど聞こえない。
「さて、レン。君は、どちらを選ぶ?」
公爵は、レンの正面に立った。二人の距離は、一歩もない。公爵の冷たい青い瞳が、レンの琥珀色の瞳を、上から覗き込む。
「君の相棒は、ノアという男を、生かそうとしている。規則を曲げてまで。だが、その細工は、私には筒抜けだ。私が一言命じれば、ノアは今日、確実に処理される。君は、その事実を知っている。その上で、君は、どう動く?」
レンは、笑った。
いつもの、人懐こい笑顔。目尻を下げ、口元を緩め、声を明るく。
「決まってるじゃないですか」
レンは、公爵の机に近づいた。端末画面を指でなぞり、ノアの欄を表示させる。
「ノアは、処理済みにします。今、この場で、手続きを進めますよ。カイトの細工なんて、なかったことにすればいい。公爵の規則に、逆らう奴がいるなら、それを正すのが、運営役の仕事でしょ」
レンの指が、端末を操作する。画面が切り替わり、処理執行の確認画面が表示された。レンは、迷いなく、承認のボタンに触れた。
公爵は、その様子を、じっと見ていた。
「素晴らしい」
公爵の声が、部屋に響く。
「実に素晴らしい。君の即断は、私の退屈を、ほんの少しだけ癒してくれた。相棒が規則を破るのを知りながら、君は、私の駒として、その裏をかく。実に、実に、興味深い」
公爵は、レンの肩に手を置いた。細く、冷たい指。
「君に、運営役としての信頼の証を授けよう。次の余興の主導権の一部を、君に任せる。脱落者の選別、組み合わせの調整、進行の管理。君の判断で、動かしてよろしい」
レンは、笑顔のまま、深く一礼した。
「光栄です、公爵様。精一杯、楽しませますよ」
公爵は、満足げに頷いた。
「下がってよろしい。今日の催し、期待していますよ」
レンは、もう一度一礼し、執務室を出た。
扉が閉まる。
廊下に出た瞬間、レンの笑顔が、消えた。
レンは、歩き出した。絨毯が足音を吸い込み、静寂だけが、廊下に残る。レンの右手が、ぎり、と音を立てた。拳を、握りしめている。爪が掌に食い込み、わずかに血が滲む。
(これでいい)
レンは、心の中で、自分に言い聞かせた。
(これで、ノアは、公爵の手から離れる。処理済みとして、システムから消える。カイトの細工がなくても、ノアは、今日の催しで殺されることはない)
(公爵の信頼を得る。冷酷な運営役を演じる。そうすれば、次の余興で、もっと多くの情報に触れられる)
(カイトには、何も言わない)
(お前の正義は、いつも誰かの死で出来てる)
レンは、廊下の窓の前で、足を止めた。ケージ上層の光が、朝の空気の中で、遠く、小さく、瞬いている。レンは、拳を開いた。掌に、三日月型の傷が、四つ。血が、ゆっくりと滲んでいた。
レンは、その手を、使用人服のポケットに押し込んだ。
(そういうこともあるって)
レンは、再び歩き出した。笑顔は、もう、どこにもなかった。
――
催しは、タワー・オブ・ヴェルナーの地下、専用の観覧ホールで開かれた。
ホールの中央には、鉄格子で囲まれた闘技場が設けられ、その周囲を、ホルダーたちの観覧席が取り囲んでいる。壁には、参加者の番号と状態を表示する大型スクリーンが設置され、監視ドローン『ハエ』が、天井近くを静かに飛び回っていた。
カイトは、運営卓の前に立っていた。
卓上には、名簿の端末と、進行表、それに、再配置者たちの状態を管理するための機器が並んでいる。カイトの目は、絶えず動いていた。観覧席のホルダーたちの顔、闘技場の鉄格子、スクリーンに表示される番号、そして、運営卓の端末に流れるログ。すべてを、同時に、観察している。
(公爵は、どこだ)
カイトは、観覧席の最上段を見た。公爵の姿は、まだない。
(レンも、いない)
カイトは、運営卓の端末に、再配置者名簿を表示させた。ノアの欄。
(俺の細工は、生きているか)
カイトの指が、端末を操作する。
その瞬間、画面が、切り替わった。
ノアの欄に、二つの記録が、同時に表示されている。
『再配置対象』
『処理済み』
カイトの指が、止まった。
(何だ、これは)
端末の画面が、点滅する。二つの記録が、システム上で衝突している。エラー表示。ノアの処遇が、確定しない。保留と処理済みが、同時に存在している。
「おい、何が起きてる」
カイトは、周囲の運営スタッフに、低く声をかけた。だが、誰も答えない。スタッフたちは、一斉に、観覧席の方を向いた。
カイトも、つられて、視線を上げた。
観覧席の最上段。公爵専用の席に、銀髪の男が、立っていた。
ヴェルナー・フォン・アルストレム公爵。
公爵は、ゆっくりと、観覧席の階段を降りてきた。一歩、また一歩。その足音は、ホールの喧騒の中で、不思議なくらい、はっきりと聞こえた。ホルダーたちが、一斉に静まり返る。
公爵は、運営卓の前で、立ち止まった。
「実に、面白いことになっていますね」
公爵は、端末の画面を、指先でなぞった。
「カイト。君は、ノアを再配置対象として処理しようとした。規則の穴を使い、彼を生かそうとした。一方、レンは、君の細工を知りながら、ノアを処理済みとして執行した。私の駒として、君の裏をかいた。二人の選択は、完全に、真逆です」
公爵は、微笑んだ。
「その結果が、これです。保留と処理済みが衝突し、ノアの処遇は、システム上、宙に吊るされた。実に、実に、興味深い。私の予想を、わずかに超えてきました」
公爵は、カイトと、それから、運営卓の向こうに立つレンとを、交互に見た。
レンは、いつの間にか、運営卓の反対側に立っていた。笑顔を浮かべている。いつもの、人懐こい笑顔。だが、目は、笑っていない。
「さて、二人とも」
公爵の声が、ホールに響き渡る。
「どちらが先に折れるか、見せてもらいましょう。君たちの対立を、私は、公式に宣言します。カイト。レン。どちらが私の駒として、どちらが私の規則の外側へ出ようとするのか。その答えを、今日の催しの中で、見せてください。ノアの処遇は、その結果で決まります」
公爵は、そう言い残すと、ゆっくりと観覧席へ戻っていった。
ホールに、ざわめきが広がる。ホルダーたちが、互いに顔を見合わせ、囁き合っている。スクリーンには、いまだに、ノアの欄が、エラー表示のまま点滅していた。
カイトは、運営卓を回り込み、レンに近づいた。
「どういうつもりだ」
声を、潜めた。だが、怒りは、抑えきれない。
「どういうつもり、とは?」
レンは、笑顔のまま、首を傾げた。
「お前が、ノアを処理済みにしたのか」
「したよ。公爵の目の前で、迷いなく、ね。だって、そうしないと、お前の細工が、公爵にバレたまま、ノアが即処理されてた。俺が先に処理済みにしておけば、記録が衝突して、処遇は宙に吊るされる。少なくとも、今日、ノアは殺されない」
レンの声が、低くなる。笑顔が、消えた。
「お前の細工がなきゃ、ノアは即処理だったんだぞ。お前は、公爵にログが筒抜けだってことを、計算してなかった。甘いんだよ、お前は」
カイトは、拳を握りしめた。
「なら、なぜ、俺に言わなかった」
「言ったら、お前は、また別の穴を探すだろ。そうやって、どんどん深みに嵌っていく。お前の正義は、いつも、そうだ。誰かを生かそうとして、もっと多くの誰かを、危険に晒す」
二人の間に、沈黙が落ちた。
ホールの喧騒が、遠くに聞こえる。監視ドローンが、頭上を、静かに通過していった。
「俺は、公爵の信頼を得た。次の余興の主導権の一部を、任された。これで、もっと深く、屋敷の内部に食い込める」
レンは、カイトの目を、まっすぐに見た。
「お前は、お前のやり方で、ノアを救え。俺は、俺のやり方で、公爵を追い詰める。どっちが先に折れるか、見せてもらおうじゃないか」
レンは、それだけ言うと、運営卓を離れた。
カイトは、その後ろ姿を、じっと見つめた。
(こいつは、また、自分を騙した)
(公爵の前で、冷酷な運営役を演じるために)
(俺に、何も言わないまま)
カイトの胸の奥で、何かが、ゆっくりと、冷えていく。
――
催しの合間。カイトは、ホールの裏手にある控え室の前で、ノアと再会した。
ノアは、灰色の使用人服を着て、壁にもたれかかっていた。短く刈り込まれた黒い髪。左の頬の古い傷。焦点の合わない目が、カイトの顔を、ゆっくりと捉えた。
「……お前」
ノアの声は、乾いていた。
「ノア」
カイトは、ノアの前に立った。
ノアの目が、わずかに動いた。記憶の断片が、浮かんでは消え、消えては浮かぶ。ノアの唇が、震えながら、言葉を紡ぐ。
「お前……俺のこと、覚えてるか」
カイトは、答えなかった。
「予選区画……砂時計の街の、前の試験……あの場所で、俺は、お前に、助けを求めた。お前は、俺を、見捨てた。見えたのに、見えないふりをして、行った」
ノアの声が、震える。
「お前が、俺を、見捨てたから、俺は、脱落した。脱落したから、記憶を消されて、ここに、連れて来られた。お前が、生き残ったから、俺は、選ばれたんだ」
カイトは、ノアの言葉を、一言一言、頭の中で反芻した。
(予選区画。助けを求めた。見捨てた)
(覚えがない)
カイトの記憶の中に、その場面は、存在しない。砂時計の街の前の試験。予選区画。カイトは、あの場所で、確かに、多くの脱落者を見た。だが、ノアの顔は、記憶にない。助けを求める声も、聞いた覚えがない。
(記憶が、消されているのか)
(それとも、ノアの記憶が、改竄されているのか)
カイトの指先が、冷たくなる。
「違う。俺は、お前を、見捨てていない」
カイトは、やっとのことで、声を出した。
「嘘だ。お前は、俺を見捨てた。俺は、覚えてる。お前の背中を、ずっと、見てた。お前は、一度も、振り返らなかった」
ノアの目から、涙が、こぼれた。
記憶を消され、人形のように扱われてきた男の、涙。ノアは、カイトの胸ぐらを掴んだ。力は、弱い。だが、その指には、骨が浮き出るほどの力が込められていた。
「お前が、俺を、殺すんだ。今日、この催しで。公爵が、そう言ってた。お前と俺を、戦わせるって。お前が、俺を、殺すんだ……」
カイトは、ノアの腕を、掴んだ。
「今日は、お前を、殺さない」
カイトは、ノアの目を、まっすぐに見た。
「俺が、そうさせるか」
ノアの手が、ゆっくりと、離れていく。ノアの体が、壁にもたれかかり、ずるずると崩れ落ちた。ノアは、膝を抱えて、小さく、泣き続けていた。
カイトは、その姿を、しばらく見つめていた。
(記憶操作の痕跡)
(ノアの記憶は、本当か。それとも、公爵が、俺を試すために、植え付けた偽の記憶か)
(どちらにしても、俺には、反論できない)
カイトは、ノアに背を向けた。
その時、視界の端に、人影が見えた。
レンだった。
レンは、控え室の入り口から、こちらを、じっと見ていた。笑顔はない。無表情で、ただ、カイトとノアのやり取りを、観察している。
カイトは、レンと、一瞬だけ、目を合わせた。
レンは、何も言わずに、その場を離れた。
(レンは、あれを、どこから見ていた)
(公爵の前で、一切の表情を変えない、あの男が)
(今、何を、考えている)
カイトは、レンの後ろ姿を見送りながら、胸の奥に、重いものを感じていた。
(レンの冷酷さの裏に、同じ罪悪感が、沈んでいる)
(俺には、それが、わかる)
(でも、口には、出せない)
――
催しの結び。ヴェルナー公爵が、再び、観覧席から降りてきた。
ホールは、静まり返っていた。ホルダーたちは、公爵の言葉を、息を殺して待っている。闘技場の鉄格子の向こうでは、再配置者たちが、疲れ切った表情で、床に座り込んでいた。
公爵は、運営卓の前に立ち、カイトとレンを、交互に見た。
「今日の催しは、実に、退屈でした」
公爵の声が、ホールに響く。
「再配置者同士を戦わせるという趣向は、悪くなかった。だが、肝心の二人が、私の期待を、裏切ってくれなかった。カイトの細工は、私の想定内。レンの執行も、また、私の想定内。どちらも、私の掌の上で、踊ったに過ぎない」
公爵は、カイトに近づいた。
「君の選択は、規則の穴を使うことだった。だが、その穴は、私が、わざと空けておいた穴だ。君は、私の敷いたレールの上を、走っただけです」
次に、レンに近づく。
「君の選択は、私の駒として、相棒の裏をかくことだった。だが、それも、私の想定内。君が、私の信頼を得るために、相棒を裏切ることは、最初から、わかっていました」
公爵は、二人の間に立ち、両手を広げた。
「二人の選択は、どちらも、私の娯楽の範囲内です。実に、面白い。だが、まだ、足りない。もっと、私を、愉しませなさい。もっと、深く、もっと、残酷に。君たちの対立が、本当に、私の退屈を癒すものになるまで、私は、君たちを、泳がせ続けます」
公爵は、そう言い残すと、ゆっくりと、観覧席へ戻っていった。
ホールに、ざわめきが、再び広がる。
カイトは、拳を握りしめた。
(全部、想定内だと)
(俺たちの選択が、全部、この男の娯楽の範囲内だと)
カイトの奥歯が、ぎり、と音を立てた。
――
催しが終わり、ホルダーたちが、ホールから退出していく。
カイトは、運営卓の片付けを終え、屋敷の廊下へ出た。
廊下は、静かだった。非常灯の淡い光が、壁に並ぶ歴代優勝者の肖像画を、ぼんやりと照らしている。分厚い絨毯が、足音を吸い込み、自分の呼吸の音だけが、やけに大きく聞こえた。
(サラは、戻っていない)
カイトは、廊下の窓の外を見た。ケージ上層の光が、闇の中に、無数に浮かんでいる。その光の一つ一つが、誰かの命のように、遠く、小さく、見えた。
(サラは、俺に、規則書を残した)
(優勝者と運営補助の双方が、同時に承認した場合のみ、開かれる、もう一つのゲーム)
(あれは、何のための、規則だ)
カイトは、胸の内側に隠した規則書の感触を、確かめた。
その時、廊下の先に、人影が見えた。
レンだった。
レンは、カイトの前に、静かに立っていた。手に、一通の書類を持っている。
「これ、お前に」
レンは、書類を、カイトに差し出した。
カイトは、それを受け取った。
規則書だった。
表紙には、何も書かれていない。カイトが、自分の部屋で見つけたものと、同じ装丁。
「俺の部屋にも、残ってた。サラが、俺にも、渡してたんだ」
カイトは、規則書を開いた。
最初のページに、文字が並んでいた。
『トケイバコ規則書 補遺』
カイトは、ページをめくった。
そこには、ゲームの規則の外側にある、もう一つのゲームの存在が、記されていた。
『本規則の対象外となる、特別なゲームが存在する。このゲームは、以下の条件が満たされた場合のみ、開かれる』
『条件一。トケイバコの優勝者が、このゲームへの参加を承認すること』
『条件二。運営補助が、このゲームの開催を承認すること』
『条件三。上記二名の承認が、同時に、主催者に提出されること』
カイトの指が、震えた。
(優勝者と、運営補助の、双方が、同時に、承認した場合のみ、開かれる)
(これは、サラが、俺とレンに、それぞれ、託したものだ)
(サラは、俺たち二人が、同時に、このゲームを承認することを、望んでいる)
カイトは、顔を上げた。
レンは、カイトを、じっと見ていた。笑顔はない。無表情で、しかし、その琥珀色の瞳の奥に、何かが、静かに燃えている。
「俺は、これを、承認する」
レンの声が、廊下に、静かに響いた。
「お前は?」
カイトは、規則書を、胸に抱いた。
(レンは、俺に、問いかけている)
(俺たちは、公爵の掌の上で、対立させられている)
(でも、この規則書は、公爵の規則の、外側にある)
(優勝者と運営補助が、同時に承認した場合のみ、開かれる、もう一つのゲーム)
(これは、公爵の娯楽の範囲を、超えるものだ)
カイトは、レンの目を、まっすぐに見た。
「俺も、承認する」
レンは、わずかに、口元を緩めた。
それは、笑顔ではなかった。だが、どこか、安堵のようなものが、その表情に、かすかに浮かんでいた。
「そうか」
レンは、それだけ言うと、カイトに背を向けた。
カイトも、反対の方向へ、歩き出した。
二人は、言葉を交わさずに、別々の方向へ、ゆっくりと、歩いていく。
廊下の非常灯が、二人の影を、長く、床に落としていた。
サラ・ノックスの姿は、どこにもなかった。
屋敷には、規則書だけが、静かに、残されていた。
(次なる闘いは、もう、始まっている)
カイトは、胸に抱いた規則書の重みを、確かめながら、廊下の闇へと、歩き続けた。Noveliaとは?
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