反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~
魔族というだけで人間に狩られ、奴隷に堕とされた少女・グレイ。角を持つその身に刻まれたのは、焼き印と鎖、そして屈辱の記憶だけだった。
グランヴェルド――大陸最大の奴隷貿易都市。そこでは魔族は「動く財産」でしかなく、抵抗すれば踏みにじられ、黙れば喰い物にされる。オークションで売れ残ったグレイに目をつけたのは、闘技場の興行主ヴァルド。与えられたのは錆びついた短剣一本と、猛獣の待つ死の檻だった。
絶望の底で、彼女の暗い紫の瞳に宿るのは諦めではなく、燃えるような殺意。
――奪われたものは、全部奪い返す。
――私を踏みつけた奴らは、いつか必ずこの手で殺す。
生き延びるためではない。喰らい尽くすために、少女は牙を剥く。
鎖に繋がれた「角の奴隷」が、血と砂の闘技場で、人間たちの作った地獄そのものを喰い破っていく――。
これは、奪われた少女が、奪う側へと成り上がる、復讐と解放の物語。
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反骨のグレイ~魔族の少女は奴隷から這い上がる~ - 旅は道連れ
闘技場の地下通路は、朝だというのに薄暗く、冷え切っていた。
石壁に染みついた血と汗と黴の匂いが、三年の間、グレイの肺に染み込ませられてきた空気だ。今日は、その空気がやけに肌にまとわりつく。
グレイは、憲兵隊の指令室へと続く石段を上がっていた。背中には、いつもの処刑用の大剣。刃渡り百五十センチの、あの女が遺した重り。一歩踏みしめるごとに、肩に食い込む感触が、自分をここに縛りつけているものの正体を思い出させる。
(気に入らない)
胸の奥で、泥のように沈殿した感情が、鈍く脈打つ。
御前試合の翌日。あの白い石の闘技場で、聖騎士団の騎士たちを打ち倒した記憶は、まだ生々しく残っている。馬の首を斬り飛ばした時の、骨を断つ手応え。落馬した騎士の喉元に、あと一寸で刃を突き立てるはずだった瞬間。そして、観客席から降ってきた、あの無邪気な声。
『勝ったのはグレイだから、護衛はグレイだ』
異世界から召喚されたという、十三歳の勇者。
グレイは、歯を食いしばった。
(あのガキが、余計なことを)
指令室の扉は、分厚い樫の木でできていた。鉄の蝶番が、重々しい音を立てて開く。
部屋の中は、外の通路よりもさらに寒かった。石造りの壁。壁際に並ぶ書類棚。中央には、無骨な木の机が一つ。その向こうに、濃紺のマントを羽織った憲兵が二人、立っていた。銀の胸章が、ランプの灯りを鈍く反射している。
「来たな、魔族」
背の高い方の憲兵が、グレイを見下ろしながら言った。短く刈り込んだ黒髪。無精髭。見覚えのある顔だ。闘技場の地下で、何度もグレイの後頭部を踏みつけた男。
グレイは、何も言わずに部屋の中央まで歩いた。
「御前試合、ずいぶんと派手にやってくれたそうじゃねえか。聖騎士様方を五人も病院送りにしたんだと? お前みたいな魔物が、よくもまあ、あんな真似を」
憲兵は、机の上に置かれた巻物を手に取り、乱暴に広げた。
「命令だ。本日付で、お前は勇者ユウトの護衛として、この都市を離れる。旅の支度をして、今日中に出発しろ」
グレイの眉が、ぴくりと動いた。
「護衛……だと」
声は、自分でも驚くほど低く、平坦だった。
「そうだ。ありがたく思え。魔物の分際で、勇者様のお供ができるんだ。身に余る光栄だろうが」
憲兵は、ゆっくりとグレイに近づいてきた。そして、その右手を伸ばし、グレイの首にはめられた黒鉄の首輪に、指をかけた。
カチン。
冷たい金属の音が、静かな部屋に響く。憲兵は、首輪を指で弾き、からかうように揺らした。
「……だがな、忘れるんじゃねえぞ。お前のこれは、俺たちが外さなきゃ、永遠に外れねえんだ」
憲兵の口臭が、グレイの顔にかかる。
「勇者の護衛とは名ばかりだ。お前は、ただの捨て駒。あの小僧に何かあれば、その首輪は二度と外さねえ。どころか、首ごと胴から切り離してやる。分かったか?」
グレイは、暗い紫の瞳で、憲兵の顔をじっと見据えた。ハイライトのない瞳が、ランプの光を吸い込んで、底なしの闇のように見える。
殺意は、なかった。
怒りも、なかった。
ただ、この男の顔を、この言葉を、決して忘れないことだけが、自分の中の決まりとして残っていた。
「……話は、それだけか」
憲兵は、一瞬、グレイの反応のなさに面食らったような顔をしたが、すぐに鼻を鳴らした。
「ふん、相変わらず気味の悪い目だ。とっとと行け。勇者様が、外で待ってやがる」
グレイは、背を向けて歩き出した。
「せいぜい、道中で野垂れ死ぬんじゃねえぞ。首輪だけは、送り返してもらうからな」
憲兵の嘲笑が、背中に突き刺さる。
グレイは、振り返らなかった。
指令室を出て、外門へと続く通路を歩く。
(捨て駒、か)
(最初から、そのつもりだ)
(どうせ、どこにも行く当てはない)
足を進めるたびに、背中の大剣が重くのしかかる。
外門を抜けると、朝の光が、グレイの目を刺した。
「グレイ!」
明るい声が、光の中から飛び込んでくる。
ユウトが、門のすぐ外で、手を振りながら待っていた。昨日と同じ、くたびれた白いシャツ。肩から下げた、小さな革の鞄。異世界から召喚された勇者には見えない、どこにでもいる十三歳の少年の姿。
「おはよう! 今日から、よろしくね!」
ユウトは、満面の笑みで、グレイに駆け寄ってきた。
「……私は、お前の護衛になるとは言っていない」
グレイは、冷たく言い放った。
「え? でも、命令が出たんでしょ? さっき、憲兵の人が言ってたよ。グレイが、僕の護衛として旅に出るって」
ユウトは、首をかしげた。
「命令されたからといって、私が従うと思うな。お前の護衛など、御免だ」
「なんで? 僕、グレイと一緒に冒険がしたいんだ。グレイは、僕の相棒だよ」
相棒。
その言葉が、グレイの胸の奥に、小さな棘のように刺さった。
「……気に入らない」
グレイは、低く唸るように言った。
「え? 何が?」
「その呼び方も、お前の笑顔も、何もかもが気に入らない。それと、私の名前を、気安く呼ぶな」
グレイは、ユウトを睨みつけた。
ユウトは、一瞬、むっとしたように唇を尖らせた。
「……なんで? 名前、呼んじゃいけないの? 僕、グレイのことが好きだから、名前で呼びたいんだ」
「私は、お前のことを好きではない。だから、呼ぶな」
「そんなの、理由になってないよ。じゃあ、何て呼べばいいの?」
「呼ばなくていい。そもそも、お前と話すことなどない」
グレイは、そう言って歩き出した。
ユウトが、小走りで追いかけてくる。
「待ってよ、グレイ! じゃあ、『お姉さん』って呼ぼうか? それとも、『相棒』のままがいい? あ、でも、グレイは名前で呼ばれるのが嫌なんだよね。うーん……」
グレイは、足を止め、振り返った。
「お前は、なぜ、私に構う。私は魔族だ。この街の誰もが、私の角を見て、目を背ける。お前とて、同じはずだ」
ユウトは、きょとんとした顔で、グレイの角を見上げた。
「角? ああ、これのこと? かっこいいよね。僕、初めて見たとき、すごいなって思ったよ。それに、強いし、かっこいいし、一緒にいたら楽しそうだし」
ユウトは、無邪気に笑った。
グレイは、その笑顔に、目を奪われた。
(こいつは、本気で言っている)
(私の角を、怖がらない。気味悪がらない)
(ただ、かっこいいと、言う)
(……気に入らない)
グレイは、唇を噛みしめ、再び歩き出した。
「勝手にしろ。だが、私の名前を呼ぶな。それだけは、忘れるな」
「……分かった。じゃあ、何て呼べばいい?」
「呼ばなくていい」
「でも、それじゃ、話しかけられないよ」
「話しかけるな」
「えー、それは無理だよ。だって、これから一緒に旅するんだから」
ユウトは、あっけらかんと言った。
グレイは、深く息を吐いた。
(こいつは、私の言葉を、何も聞いていない)
商業区へ向かう石畳の道。朝の市場は、すでに活気に満ちていた。果物や野菜を積んだ荷馬車。魚をさばく匂い。客引きの声。三年間、闘技場の地下と砂の上だけが世界だったグレイには、そのすべてが、遠い異国の風景のように感じられた。
道行く人々が、グレイの角を見て、露骨に顔を背ける。
「おい、見ろよ。魔族だ」
「首輪をしてる。奴隷か。闘技場の連れだな」
「気味が悪い。あんなのが、なんで外を歩いてるんだ」
聞こえよがしの囁きが、耳に届く。
グレイは、無視した。
だが、ユウトは違った。
「ねえ、グレイ。今の人たち、ひどいよね。グレイは、何も悪いことしてないのに」
ユウトが、怒ったような顔で、グレイの隣を歩く。
「……いつものことだ。気にするな」
「でも、僕は気にするよ。グレイは、僕の相棒なんだから。相棒が悪く言われたら、僕が嫌だ」
グレイは、何も言わなかった。
(相棒、か)
(こいつは、なぜ、そこまで私を)
武具店は、商業区の大通りから、一本路地に入ったところにあった。
木の看板に、剣と盾の絵が描かれている。店の前には、錆びた鎧や、使い古された剣が、無造作に並べられていた。
グレイが店の扉を開けると、カランカラン、と鈴の音がした。
「へい、いらっしゃい」
カウンターの奥から、太った男が顔を出した。油で汚れた前掛け。腕まくりしたシャツの下から、たくましい腕がのぞいている。
だが、その男の顔は、グレイの姿を見た瞬間、露骨に歪んだ。
「……なんだ、魔族か。悪いが、うちは魔族お断りだ。帰ってくれ」
店主は、手をひらひらと振り、追い払うような仕草をした。
「客だ。装備を見せろ」
グレイは、低く言った。
「あ? 客? 魔族が? 冗談じゃねえ。お前みたいなのが、うちの品に触れるだけで、他の客が寄りつかなくなるんだよ。とっとと出て行け」
店主の声が、尖っていく。
その時だった。
「すみません、お願いします」
ユウトが、グレイの横から、ひょこっと顔を出した。
「この人、僕の護衛なんです。旅に必要な装備を、新しく買いたいんです。お金なら、あります」
ユウトは、肩から下げた革の鞄から、革袋を取り出した。
そして、カウンターの上で、その口を開いた。
ジャラジャラジャラ。
金貨が、音を立てて溢れ出る。
「これは、僕の支度金です。それと——」
ユウトが、ちらりとグレイを見た。
グレイは、無言で、腰に下げていた別の革袋を、カウンターの上に置いた。
中身を、逆さに開ける。
銀貨と銅貨が、金貨の隣に、山を作った。
三年間。闘技場の砂の上で、命を削り、血を流し、勝ち続けてきた。その報酬のすべて。
「……これで、足りるか」
グレイは、店主を真っ直ぐに見据えた。
店主は、カウンターの上の金貨と銀貨の山を、口を半開きにして見つめていた。
「こ、こいつは……」
店主の喉が、ゴクリと鳴った。
「襟巻き、胸甲、短いズボン、ガントレット、ブーツ。一番いいものを出せ」
グレイは、注文を叩きつけた。
店主は、しばらく迷うように、グレイと金貨の山を交互に見ていたが、やがて、愛想笑いを浮かべた。
「へ、へい! 毎度ありがとうございます! すぐに、いい品をお持ちしますね!」
店主は、態度を一変させ、奥の倉庫へと引っ込んでいった。
グレイは、鼻を鳴らした。
(金を見た瞬間に、この態度だ)
(気に入らない)
「グレイ、すごい! お金、たくさん持ってるんだね!」
ユウトが、目を輝かせて、金貨の山を見つめている。
「……三年分だ。これで、全部だ」
「全部? じゃあ、僕の分も合わせて、全部使っちゃうの?」
「装備は、命だ。惜しむ金ではない」
グレイは、そう言って、壁際に立てかけられた安物の剣に目をやった。
(それに、どうせ、私には、金を使う先などない)
店主が、奥から戻ってきた。
両手に、革の装備を抱えている。
「お待たせしました! こちらが、当店自慢の品でございます。まずは、襟巻きから。こちらは、紫の染料で染め上げた、柔らかな上等な布でして。首元をしっかりと守りつつ、動きを妨げません」
店主が、恭しく差し出した襟巻きは、深い紫色の布だった。手触りが、滑らかで、光沢がある。闘技場で支給されていた、汚れた黒いサラシとは、まるで別物だ。
グレイは、その襟巻きを、無言で受け取った。
「次に、胸甲です。こちらはドワーフが製作した、黒鉄の胸当て。心臓と肺を守る、最も重要な防具です。それから、短いズボン。動きやすさを最優先にした、剣闘士向けの作りのものです。ガントレットは、腕と手首を守りつつ、指先は自由に動かせます。ブーツは、底に鋲を打った、滑りにくいものをご用意しました」
店主は、次々と装備を並べていく。
どれも、新品の匂いがした。
「……試着する」
グレイは、装備を抱え、店の奥にある試着室へと向かった。
試着室は、狭く、薄暗かった。
壁に掛けられた曇った鏡。古い木の椅子が一脚。
グレイは、背中の大剣を下ろし、壁に立てかけた。
そして、身に着けていた、ボロボロの剣闘士装備を、一つずつ外していく。
汚れた黒いサラシ。肩・腕・腰を覆う、茶色い革の防具。汗と血が染み込み、こびりついた、三年間の歴史。
それらを床に落とすと、グレイは、新品の装備を手に取った。
まずは、短いズボン。
足を通すと、柔らかな革が、肌に吸い付くように馴染む。動きやすい。
次に、胸甲。
胸の形に合わせて鍛えられた様な鉄板を、体に当て、背中の革紐を締める。鎧というには露出が多いが、確かに、心臓のあたりを守ってくれる安心感がある。
ガントレット。
腕を通し、手首の留め具を締める。指先は自由だ。これなら、大剣を握る感覚を損なわない。
ブーツ。
足を入れ、革紐をきつく結ぶ。底の鋲が、木の床を捉える。地面を蹴る力が、無駄なく伝わる感触。
最後に、襟巻き。
紫の布を、首に巻きつける。
冷たい黒鉄の首輪が、布の下に隠れる。
グレイは、鏡を見た。
そこには、闘技場の奴隷剣闘士ではない、別の誰かが立っていた。
伸びた灰色の髪。ハイライトのない暗い紫の瞳。牡牛のような二本の角。胸元の烙印は、胸甲に隠れて見えない。首輪は、紫の襟巻きに覆われて、その輪郭すら分からなくなっている。
(……これが、私か)
グレイは、鏡の中の自分を、じっと見つめた。
「グレイ、着替え終わった?」
試着室の外から、ユウトの声がした。
グレイは、鏡から目を逸らし、試着室のカーテンを開けた。
ユウトが、目を丸くして、グレイを見上げた。
「わあ……! すごく、似合ってるよ! かっこいい!」
ユウトは、ぱあっと顔を輝かせた。
「……そうか」
グレイは、短く答えた。
「うん! 本当に! ねえ、グレイ、襟巻き、すごくきれいだね。紫色が、グレイの髪の色と合ってる」
ユウトは、無邪気に笑った。
グレイは、何も言わず、背中の大剣を背負い直した。
「行くぞ」
「あ、待ってよ!」
グレイは、店主に金を払い、店を出た。
外の空気は、朝よりもさらに暖かくなっていた。
(似合っている、か)
(こいつは、いつも、そうだ)
(私の何を見ても、真っ直ぐに、言葉にする)
(……気に入らない)
グレイは、大通りを外れ、人通りの少ない路地へと入った。
ユウトが、後ろから追いかけてくる。
「ねえ、グレイ。これから、どこに行くの? 宿? それとも、先にご飯にする?」
グレイは、足を止めた。
「……少し、待っていろ」
グレイは、そう言うと、路地の壁際に立ち、両手を頭の後ろへと回した。
そして、額に装着していた、銅のプロテクターを、ゆっくりと外した。
剣闘士の証。奴隷剣闘士として、闘技場で戦う者だけが身に着けることを許された、額当て。
それを外した瞬間、グレイの額に、三年間、陽の光を浴びることのなかった、白い肌が露わになった。
「え……?」
ユウトが、驚いたように声を上げた。
グレイは、外したプロテクターを、無造作に路地の隅へ放り投げた。
カラン。
銅の塊が、石畳の上で、乾いた音を立てた。
「グレイ、それ、どうして……? 大事なものじゃないの?」
ユウトが、困惑した顔で、プロテクターとグレイを交互に見る。
「もう、いらない」
グレイは、短く言った。
そして、伸びた灰色の髪を、後ろで一つに束ね直す。
手慣れた動きで、髪をまとめ、革の紐で縛る。
闘技場で支給された、髪を纏めるための紐。それだけが、まだ、グレイの手元に残っていた。
髪を束ね終えると、グレイの顔の輪郭が、はっきりと露わになった。
額のプロテクターに隠れていた、白い額。シャープな顎のライン。そして、牡牛のような角が、束ねた髪の間から、より一層、力強く前方へと突き出して見える。
ユウトが、息を止めた。
「……グレイ」
ユウトの声が、かすかに震えている。
「……見るな」
グレイは、ユウトから顔を背け、歩き出した。
「待って! 見るなって、どういうこと? 僕、グレイのこと、見てたいよ」
ユウトが、慌てて追いかけてくる。
「気に入らない。その顔で、私を見るな」
「そんなこと言われても……。だって、グレイ、すごく、きれいなのに」
ユウトの言葉に、グレイの足が、一瞬、止まった。
(きれい、だと)
(私が)
グレイは、振り返らず、再び歩き出した。
「……黙って、ついて来い」
グレイは、それだけ言って、足を速めた。
ユウトは、何か言いたそうにしていたが、結局、黙って、グレイの後ろを歩いた。
夕暮れが近づき、街に影が長く伸び始める頃、二人は、商業区の外れにある小さな宿屋に着いた。
「いらっしゃい。二名様かい?」
宿屋の主人は、白髪交じりの穏やかな老人だった。
「個室を、二つ。隣同士でお願いします」
ユウトが、にこやかに言った。
「あいよ。二階の、奥の部屋だ。ゆっくりしていってくれ」
宿屋の主人は、グレイの角をちらりと見たが、何も言わずに、鍵を二つ差し出した。
グレイは、鍵を受け取り、無言で階段を上がった。
二階の奥。
グレイの部屋は、小さく、簡素な造りだった。
壁際に、木の寝台が一つ。小さな机と椅子。窓には、薄い布のカーテン。
グレイは、背中の大剣を下ろし、寝台の脇に立てかけた。
そして、窓辺に歩み寄り、カーテンを開けた。
——息を、呑んだ。
窓の外には、満天の星が、広がっていた。
闘技場の地下では、決して見ることのできなかった星空。
深い藍色の空に、無数の光が、瞬いている。
大きく、近い。
まるで、手を伸ばせば、届いてしまいそうなほどに。
グレイは、窓枠に手をかけ、その光景を、じっと見つめた。
(外は、こんなに、星が、見えるのか)
(空は、こんなに、広いのか)
三年間。石の壁と、砂の地面と、血の匂いだけが、自分の世界のすべてだった。
空の広さを、星の美しさを、知らなかった。
知ろうとも、思わなかった。
夜風が、窓から吹き込み、グレイの束ねた髪を、優しく揺らした。
(自由って、何だ)
(これが、自由なのか)
(分からない)
(でも、悪くない)
グレイは、そう思った。
胸の奥で、何かが、ほんの少しだけ、ほどけていくような感覚があった。
コンコン。
部屋の扉が、ノックされた。
「グレイ、入ってもいい?」
ユウトの声だ。
「……何の用だ」
グレイは、窓から目を離さずに答えた。
「明日からのこと、ちょっと話したいんだ。あ、ご飯も、一緒にどうかなって。下の食堂、いい匂いがしてたよ」
グレイは、しばらく沈黙した。
「……入れ」
扉が開き、ユウトが入ってきた。
手に、パンと干し肉を乗せた皿を持っている。
「これ、主人に分けてもらったんだ。グレイも、お腹すいたでしょ?」
ユウトは、机の上に皿を置いた。
「……別に」
「そう言わずに、食べようよ。僕、お腹ぺこぺこなんだ」
ユウトは、椅子に座り、パンにかじりついた。
グレイは、窓辺から離れ、寝台の端に腰を下ろした。
「ねえ、グレイ。明日からのことなんだけど、僕、行きたい場所があるんだ」
ユウトが、パンを飲み込みながら言った。
「……どこだ」
「北の方にある、小さな村なんだけど、その近くの廃教会で、最近、行方不明者が続出してるんだって。冒険者ギルドに、依頼が出てるらしいんだ」
ユウトは、鞄から、一枚の羊皮紙を取り出した。
「これ、ギルドで見つけた依頼書の写し。『廃教会に潜む、人攫いの魔物を討伐せよ』。報酬も、けっこういいんだよ」
ユウトは、羊皮紙をグレイに見せた。
「……廃教会、か」
グレイは、羊皮紙に目を落とす。
「うん。グレイとなら、きっと大丈夫だよ。二人で、その依頼を解決して、村の人たちを助けようよ」
ユウトは、期待に満ちた目で、グレイを見た。
その時だった。
——ガシャァァァン!!
窓ガラスが、粉々に砕け散った。
破片が、部屋中に飛び散る。
「——っ!!」
グレイは、反射的に立ち上がり、寝台の脇に立てかけてあった大剣を手に取った。
砕けた窓から、黒い影が、次々と室内に飛び込んでくる。
一人、二人、三人。
全員が、黒いフードを深く被り、口元を黒いマスクで覆っている。手には、抜き身の短剣。
(暗殺者か)
グレイは、ユウトを背中に庇うように、前に出た。
「下がっていろ」
「グレイ!」
ユウトが、悲鳴のような声を上げた。
「そこの魔族が、勇者の護衛か。悪いが、お前らには、ここで死んでもらう」
先頭の男が、低く、くぐもった声で言った。
「誰の差し金だ」
グレイは、大剣の鞘を払った。
ブン。
刃が、月明かりを反射して、青白く光る。
「死人に、教える義理はない」
暗殺者たちが、一斉に、グレイに襲いかかってきた。
三人の動きは、訓練された者のそれだった。
だが、遅い。
グレイは、闘技場で、百人以上の剣闘士と、猛獣と、そして聖騎士団と戦ってきた。
殺気の中を、生き抜いてきた。
一人目。
先頭の男が、短剣を突き出してくる。
グレイは、体を半身に開き、その突きを、紙一重でかわした。
そして、大剣を、下段から、斜め上へと斬り上げる。
ザシュッ。
男の右腕が、肩口から、肘まで、深く裂かれた。
鮮血が、壁に飛び散る。
「があっ!?」
男が、短剣を取り落とし、よろめく。
グレイは、追撃を入れず、すでに背後から迫っていた二人目の男へと、体を回した。
二人目の男は、グレイの首を狙って、短剣を横薙ぎに振ってきた。
グレイは、大剣の腹で、それを受け止めた。
ガキィン!!
火花が散る。
「お前ら、弱いな」
グレイは、歯を食いしばり、大剣を押し返した。
男の体が、弾かれたように、後方へ飛ぶ。
そこへ、三人目の男が、窓の外から、クロスボウを構えているのが見えた。
狙いは、グレイの背後にいる、ユウト。
(やらせるか)
グレイは、大剣を、逆手に持ち替え、力の限り、窓の外の男へと投げつけた。
ブゥン!!
大剣が、空気を裂いて、回転しながら飛んでいく。
ドゴッ。
鈍い音。
クロスボウを構えていた男の胸に、大剣の刃が、深々と突き刺さった。
男は、声も上げずに、窓の外へと、消えた。
「ひっ……!」
二人目の男が、尻餅をつきながら、後ずさる。
グレイは、落ちていた短剣を拾い上げ、その男の喉元に、突きつけた。
「誰の差し金だ。言え。言わなければ、お前の首を、ここで斬り落とす」
グレイの声は、氷のように冷たかった。
「わ、分からねえ……! 俺たちは、ただ、金をもらって、あんたたちを殺せって……!」
男の声は、恐怖で震えている。
「誰からだ」
「し、知らねえ! 本当だ! 仲介人を通したんだ! 依頼主の顔なんて、見てねえ……!」
男は、ガタガタと震えながら、叫んだ。
「……そうか」
グレイは、短剣を、男の首から離した。
そして、その柄で、男のこめかみを、思い切り殴りつけた。
ゴッ。
男は、白目をむいて、床に倒れた。
グレイは、倒れた男たちを、一瞥した。
一人目は、腕を斬られ、血を流しながら、壁にもたれかかって、動かない。二人目は、気を失っている。三人目は、窓の外で、大剣に貫かれて、絶命している。
(初めて、自分の意思で、人を斬った)
(命令でも、興行でもなく)
(自分が、守るために)
グレイは、自分の手を見た。
血は、ついていない。
だが、確かに、刃を振るった感触が、手のひらに残っている。
「グレイ……!」
ユウトが、震えながら、グレイの背中にしがみついてきた。
「……大丈夫か」
グレイは、振り返らずに聞いた。
「う、うん……。僕は、大丈夫。グレイが、守ってくれたから……」
ユウトの声は、まだ震えている。
グレイは、ゆっくりと、窓の外へと歩いた。
そして、大剣を、男の胸から引き抜いた。
血が、夜の闇に、黒く流れ落ちる。
グレイは、大剣を鞘に戻し、背負い直した。
(暗殺、か)
(誰かが、私たちのことを消そうとした)
(憲兵隊か、それとも、ゲー・レッツか)
(……どちらでもいい)
(来るなら、来い。全員、斬る)
グレイは、荒い息のまま、首輪に手をやった。
紫の襟巻きの下。
冷たい黒鉄の感触。
(首輪は、まだ、外れない)
(だが、私は、もう、逃げない)
「……グレイ」
ユウトが、グレイの隣に立った。
「明日、廃教会の依頼へ行こう。グレイとなら、僕、どこへだって行ける。だから……」
ユウトは、グレイの顔を見上げた。
「だから、これからも、一緒にいて。相棒」
グレイは、答えなかった。
夜風が、砕けた窓から吹き込み、二人の髪を揺らした。
星だけが、静かに、その光を、二人の上に降り注いでいた。Noveliaとは?
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