氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜
氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜
三十歳の召喚士グレンは、たった一体のリビングアーマーしか喚び出せないという理由で、Bランクパーティ『紅の牙』を追放される。リーダーのゼクスは冷たく言い放った。「お前の召喚じゃ前線が保たない」。グレンはただ「そうか」とだけ呟き、抗わずに去っていった。
しかし、彼が十五年もの間、全魔力を注ぎ込んできたリビングアーマーは、密かに自我を持つ上位存在――“リビングナイト”へと進化を遂げていた。グレン自身もまた、凄まじい鍛錬の末に通常の魔導士の三倍の魔力容量を有し、敵の動きを阻害する氷結魔法を得意としていた。相棒のリビングナイトは重騎士として振る舞い、絶対零度の斬撃を放つ斧と、主を守る鉄壁の盾を操る。二人の絆は、とうの昔に主従を超え、戦友と呼ぶべきものになっていた。
街外れでひっそりと杖工房を開いたグレンは、そこで天職を見出す。素材と刻印を客の魔力に緻密に調律するその手腕は、駆け出しの火魔法使いアリサや、Bランクの風魔導士クラウスなど、様々な冒険者たちの信頼を集めていった。一方、氷による妨害と盾防御という要を失った『紅の
氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜 - 氷刃と教えと
朝の空気はまだ冷たく、石畳の上に昨夜の名残のような湿り気が漂っていた。工房『鉄槌と刻印』の戸口を開けると、木の匂いと、炉の灰の匂いが混ざった、あの落ち着く空気がグレンを包んだ。
壁際の棚の前で、グレンは革鞄を広げている。中には予備の魔石が三つ、それから氷結の触媒が二本。銀色の粉が封入された小さな硝子管を、彼は指先でそっと持ち上げ、朝の光に透かした。中の粉が、さらさらと音もなく流れる。
(これで足りるか)
今日はいつもの工房仕事ではない。ガルドからの依頼で、新人冒険者五名を連れての実戦訓練。場所はクラーゲン坑道一層の、一番浅い採掘跡だ。Dランクの鉱石蟲が主な相手。新人たちにとっては、初めての本格的な魔物との戦闘になる。
グレンは革鞄の口を閉じ、作業台の上に置いてあった名簿に目を落とした。ガルドが昨夜のうちに届けてくれたものだ。走り書きの文字には、五人の名前と年齢、適性、実戦経験の浅さが、短い言葉で記されている。
カイル、十七歳。剣士志望。
ティナ、十六歳。弓使い。
リオ、十八歳。治癒師見習い。
マーヤ、レン、十五歳。軽戦士の双子。
(全員、実戦経験は三ヶ月未満……か)
名簿の端に、ガルドが小さく「頼む」とだけ書き添えていた。その二文字を見て、グレンは微かに笑う。あの男が他人にこういう依頼をするのは、本当に珍しいことだった。
足音もなく、リビングジェネラルが隣に立った。蒼黒い重鎧が朝の光を鈍く反射する。兜の奥の蒼い光は、静かに、しかし強く脈打っていた。その手には大盾と戦斧。相棒はもう、準備が整っている。
グレンは革鞄を肩にかけ、リビングジェネラルの兜を軽く叩いた。金属の冷たい感触が、こつりと指に返る。
「今日は、五人とも必ず無事に帰す。それが一番だと思ってるよ」
兜の奥の蒼い光が、一瞬、大きく明滅した。
答えの代わりに、それで十分だった。
工房の戸に鍵をかける。空は青く晴れていて、城壁の向こうから、街の朝のざわめきが聞こえてきた。パン屋の匂いが、ほのかに風に乗っている。商人たちの馬車の音。子供の笑い声。この街の日常が、今日もいつも通りに始まっていた。
グレンはリビングジェネラルを連れて、西へ向かう街道へと足を踏み出した。
——。
クラーゲン坑道の入口は、ヘルダインの西方、歩いて半日ほどの丘陵地帯にあった。かつて魔鉄鉱石を採掘していた鉱山の廃坑を、そのままダンジョンとして利用している場所だ。入口には互助会が設置した木製の結界門があり、許可証のない者を通さない仕組みになっている。
とはいえ、結界の効果は一層の入り口付近まで。奥へ進むほど、古い坑道の闇が濃くなり、人の管理が届かなくなる。だからこそ、新人訓練は一番浅い場所で、互いの声が届く範囲で行うのが鉄則だった。
グレンたちが到着すると、入口の前には既に五人の若者が待っていた。
一番背の高い少年が、緊張した面持ちで一歩前に出る。十七歳のカイルだ。栗色の髪は汗ばんでいて、腰の剣を握る手は白くなるほどに強く拳を作っている。その手が、微かに震えているのがグレンには分かった。
「お、おはようございます。今日はよろしくお願いします」
声が、少し裏返っていた。
「おはよう。無理はしなくていいから、今日は自分の足で立つことを覚えて帰ろうね」
カイルが、少しだけ肩の力を抜いた。
その後ろでは、弓使いの少女ティナが、矢筒の中の矢を指で数えている。十六歳。黒い髪を後ろで一つに束ねた、小柄な娘だ。数え終わると、今度は弓の弦を指で摘まんで、軽く弾いた。ピン、と乾いた音が、丘陵の空気に吸い込まれていく。彼女が落ち着こうとしているのが、ありありと分かった。
その隣で、軽戦士の双子、マーヤとレンが、互いの軽鎧の革紐を確認し合っていた。十五歳。姉のマーヤは赤毛を短く切り、弟のレンは同色の髪を無造作に伸ばしている。二人とも華奢な体つきだが、動きには無駄がない。マーヤがレンの肩当てを拳で叩き、レンがマーヤの腰帯を引っ張って締め直す。言葉は要らないらしい。
そして、五人の中で一番端にいたのが、治癒師見習いのリオだった。十八歳。長身で、青白い顔。薄い金色の髪の下から覗く瞳が、落ち着きなく足元を泳いでいる。背負った鞄には包帯や薬草、簡易の治癒術用の符が詰まっているはずだが、その鞄の紐を、彼は何度も握り直していた。
ガルドが、木陰からゆっくりと歩いてきた。百九十五センチの巨体。スキンヘッドに、左頬から首へ走る古い引っかき傷。背中には大剣を背負い、腰には小さな斧が二本。重戦士としての装備を纏った彼は、近づくだけで周囲の空気が締まるような威圧感があった。
新人たちの背筋が、一斉に伸びた。
ガルドは新人たちの前に立つと、低い声で言った。
「これから坑道に入る。今日、お前らが死なずに帰るために、三つだけ言う」
彼は指を一本立てた。
「一つ。戦闘中は仲間の声を聞け。自分の耳で、自分の頭で、周りが何を言っているかを常に追え。勝手な判断で動くな」
二本目の指。
「二つ。無闇に前へ出るより、帰る道を守れ。倒すことより、生きて戻ることが先だ。逃げるのが仕事になる場面もある」
三本目。
「三つ。自分の役割を捨てるな。剣士は剣を振れ。弓は射線を確保しろ。治癒師は後ろにいて、必要な時に動け。誰かの役割を奪うな。それが、全員で帰るための条件だ」
無骨な声が、丘陵の静かな空気に染み渡る。
カイルが、小さく唾を飲み込んだ。
「ガルドの言う通りだよ。今日は君たちが『冒険者として自分の命を守る』ための訓練だからね。何かあれば、僕も相棒も動く。だから、まずは自分たちが指示を聞いて動くこと。それだけ覚えておいて」
五人が、それぞれの形で頷いた。
ガルドは、グレンの方を一瞥した。瞳が、ほんの一瞬だけ柔らかくなる。あの日、工房で頭を下げた時の、あの表情だ。
「編成は、俺が先頭。お前らは真ん中。グレンとリビングジェネラルが殿だ。隊列は常に保て。離れるな」
新人たちが、慌てて隊列を組む。
グレンは、カイルの隣に歩み寄った。
「剣、握りすぎだよ。手の力は、振る瞬間だけに乗せればいい。それまでは、肩の力を抜いて。腰を落とす余裕がなくなるからね」
カイルが、はっとして手のひらを開く。汗で湿った革の柄が、朝の風に当たって冷たくなっていた。
「す、すみません。緊張してしまって」
「初めての実戦だもの。当たり前だよ。でも、握りすぎは剣筋を鈍らせる。深呼吸して。今日は死なないための訓練なんだから」
カイルが、深く息を吸って、吐いた。肩が、少しだけ下がる。
グレンは、後ろで黙って待つリビングジェネラルに目をやった。相棒は、すでに隊列の最後尾に位置についている。その大盾が、五人の背中を守るように立っていた。
「行くぞ」
ガルドの声を合図に、一行は坑道の入口へと足を踏み入れた。
——。
坑道の中は、外よりもずっと冷えていた。湿った岩壁が、ランプの光をべったりと反射している。天井の高い坑道には、古い木枠の支柱が何本も並び、かびた木の匂いと、鉄錆の匂いが混ざっていた。どこかから滴る水の音が、絶え間なく響いている。
進むにつれて、外の光は消え、代わりにガルドが掲げた魔導灯の淡い光だけが、周囲を浮かび上がらせた。
グレンは、隊列の後方で魔力探知を広げていた。目を閉じるまでもなく、周囲の魔力の流れが手に取るように分かる。岩壁に残る微量の魔鉄鉱石。湿った空気。その中で、生き物が発する微弱な魔力——まだ遠い。だが、確かにいる。
(一層の浅部に、五匹ほどの塊が二つ……あとは、坑道の奥に微かな反応)
岩蜥蜴か、鉱石蟲か。グレンは、その位置を正確に把握しながら、足を進めた。
新人たちは無言だった。ただ、全員の呼吸が浅い。緊張が、ひりひりと空気に混ざる。
カイルが、唇を噛んでいる。ティナが矢筒の位置を、右手で何度も触って確認している。マーヤとレンは、互いの距離を保ちながら、視線だけを忙しく動かしていた。リオは、青白い顔のまま、足元の岩に躓きそうになっては、必死にバランスを取っていた。
「リオ」
グレンが、静かに後ろから声をかける。リオの肩が跳ねた。
「辛くなったら、後ろに下がっていい。君の仕事は、倒すことじゃなくて、倒れさせないことだよ。誰かが傷ついた時に、君が立っていられることが一番大事なんだ」
リオは、振り返ってグレンの顔を見た。その薄い瞳が、揺れている。
「……すみません。自分、足手まといにならないかって、そればっかり考えてしまって」
「足手まといにはしないよ。君がいるだけで、前衛は安心して戦える。治癒師は、ただ立ってるだけで守られている存在じゃない。みんなを立たせておく存在だよ」
リオが、小さく、本当に小さく頷いた。
少し前、カイルが振り返ってリオを見た。心配そうな顔をしていたが、グレンが目で合図すると、向き直って剣に手を添えた。
——坑道に入って、およそ三十分。
一層の浅部。天井が高く、かつて採掘場だったらしい広い空間に出た。壁際には、使い古された松明の名残が、黒く煤けた痕を残している。地面には、鉱石蟲が噛み砕いた小石の破片が散らばっていた。
グレンの魔力探知が、ぴたりと、何かを捉えた。
直後、ガルドが短く言った。
「止まれ」
全員の足が止まる。
耳を澄ませた。
かさり。かさり、かさり。
岩の隙間から、硬いものがこすれる音がする。いくつも。重なって。そして、湿った空気の中を、羽の音が、ぱたぱたと横切った。
ガルドが、大剣を鞘から抜いた。金属の擦れる音が、坑道に鋭く響く。
「来るぞ。陣形を崩すな」
次の瞬間、天井近くの岩陰から、ごろごろと音を立てて、石の塊が転がり落ちてきた。
いや、石ではない。
球状に体を丸めた鉱石蟲。その黒光りする甲殻が、ランプの光を反射しながら、地面にあたって跳ね、丸い体を展開した。一匹、二匹、三匹——五匹。体長は一メートルを超え、口からは鉱石を噛み砕くための鋭い顎が覗いている。
カイルが、思わず半歩、後ずさった。
その影に隠れるようにして、天井の裂け目から、三体の暗影蝙蝠が滑空してきた。灰色の翼は音もなく空気を裂き、その腹には、うっすらと紫の魔力が脈打っている。超音波攻撃を持つ、Cランク相当の魔物。本来、一層の浅部に出す相手ではない。
「新手の波だ! 前衛は蟲を止めろ! ティナ、蝙蝠の射線を切れ!」
ガルドの怒声が坑道に反響した。
「ひ、ひぃっ……!」
リオが、青ざめてその場に座り込む。その隙を、蝙蝠が見逃すはずがない。一体が、超音波の矢を放った。目に見えない紫の衝撃波が、空気を歪ませてリオへ飛ぶ。
リビングジェネラルが、音もなくリオの前へ回り込んだ。大盾を掲げる。蒼い魔力障壁が、盾の表面に展開され、超音波の矢を真っ向から弾いた。ぎり、と金属が軋む。
グレンは、すでに動いていた。
「氷壁」
呟くような詠唱と同時に、前方の地面から蒼い氷の壁が隆起する。鉱石蟲の突進が、その壁に激突した。ごつ、と重い音。氷の破片が飛び散る。
「今だ! カイル、マーヤ、氷の右側から一体を狙え!」
カイルが、震える手で剣を抜いた。
「うぁあああっ!」
声を張り上げ、がむしゃらに突っ込む。狙いは、氷に足を取られた一匹の鉱石蟲。だが、剣筋は大きくぶれ、蟲の硬い甲殻に弾かれた。ぎん、と情けない音がして、カイルの手が痺れる。
「お前の一撃じゃ砕けん! 足を狙え、足だ!」
マーヤが、レンと同時に左右から斬りかかる。軽戦士の連携は、初々しいながらも的確だった。マーヤが蟲の触角を叩き、レンが足の関節を狙う。ぎち、と甲殻が軋み、蟲が体勢を崩す。
その間にも、二匹目の蝙蝠が、今度はティナを狙って急降下した。
「こないで……っ!」
ティナが弓を引き絞る。矢は明後日の方向へ飛び、岩壁に当たって跳ね返った。蝙蝠の翼が、彼女の頬をかすめる。薄い皮が裂け、ぱっ、と血が飛んだ。
「ティナ、下がれ! グレン、蝠を頼む!」
声が飛ぶよりも早く、グレンは杖を構えた。氷結の触媒を杖先に押し込み、魔力を叩き込む。白い霜が、杖の先端から空気を伝って広がった。
「氷牙」
無数の氷の牙が、グレンの周囲に浮かび上がる。次の瞬間、それらが一斉に放たれた。狙いは空の三体。氷の牙は、蝙蝠たちの翼を貫こうと空を裂く。
一体の翼を砕いた。もがきながら落ちる。もう一体、避けたところに、二本目が突き刺さる。紫の血が、霧のように舞った。
「よし、二体落ちた!」
残りは、蟲が四匹。そして——
グレンの探知が、ひときわ強い反応を捉えた。
壁の影。
そこから、さらに二体の暗影蝙蝠。
(まずい。あの位置からは、リオが真っ先に狙われる)
次の瞬間、二体の蝙蝠が、同時にリオへ向かって急降下した。超音波の矢が、彼の足元の岩をえぐる。リオは悲鳴も上げられず、地面に這いつくばった。
「いや……だ、誰か……っ」
声が震えている。
グレンは、もはや迷わなかった。
杖を握り直す。氷で覆われた杖身が、霜を帯びて伸び始めた。その先端から、蒼い光が刃の形を成していく。槍のように鋭く、刀身のようにしなやかな、一本の氷の刃。
(右足を半歩、深く)
体が、勝手に動いた。
祖父の手記にあった、剣の踏み込み。地面を蹴る。腰を落とす。肩を前に入れる。十五年間、頭の中で繰り返し、体に叩き込んだ、剣士の型。
「……ッ!」
グレンは、リビングジェネラルの肩を足場に、前線へ躍り出た。蒼黒い騎士が、主の意図を察して盾を傾ける。グレンの側面を庇うように。
蝙蝠が、リオの首筋へ向かう。
その翼を、グレンの氷刃が貫いた。薄い皮と血が飛び散る。氷の刃は、そのまま蝙蝠の腹を抜け、向こうの岩壁に突き立った。
カンカンカン、と音がして、氷の破片が地面に落ちる。
坑道内が、一瞬、静まり返った。
新人全員が、動きを止めている。
ガルドを除く全員——カイルも、ティナも、マーヤも、レンも、リオも——が、完全に、こちらを見ていた。
魔法師が、杖で前線を張っている。その光景が、彼らの常識を音を立てて崩している。
「お前ら、ボサッとするな! 残りの蟲をやるぞ! グレンは蝙蝠の残党だ!」
ガルドの怒声で、新人たちがはっと我に返った。
グレンは、地面に突き刺した氷刃を引き抜く。リビングジェネラルの戦斧が、横から飛んできた蝙蝠を薙ぎ払った。紫の体液が、蒼黒い鎧に飛び散る。兜の奥の光は、依然として冷静に脈打っている。
「相棒、助かった。もう大丈夫だよ。……残りは、後ろに任せる」
言うが早いか、グレンは再び地を蹴った。氷の刃が、空を裂く。二体目の蝙蝠の翼を、根元から凍らせた。羽ばたきが止まり、地面に叩きつけられる。
リビングジェネラルが、グレンの後ろで盾を構え、まだ残る超音波の残滓を弾き続けた。
戦場が、確実に、勢いを変えていた。
カイルが、歯を食いしばった。さっき弾かれた手の痺れが、まだ痛む。だが、目の前で蟲の足が、氷の破片で傷ついているのが見えた。
「くそっ……!」
カイルが、低い姿勢のまま前へ出た。今度は、狙いを足に絞っている。剣を振り上げ、振り下ろす。甲殻の隙間を、剣先が捉えた。ぎぃ、と不気味な音がして、蟲の足が一本、もげた。
「や、やった……!」
「よし! そのまま頭をやらせろ!」
ガルドの大剣が、一閃。蟲の頭部の甲殻が、粉々に砕けた。内側から青い体液が噴き出し、蟲は肢を痙攣させた後に、動きを止めた。
残る蟲を、マーヤとレンが囲む。レンが足を止め、マーヤが背に斬りつける。息の合った連携だった。
ティナが、ようやく矢を番えた。今度は、呼吸を整えている。狙いは、レンの背後に回りかけた一匹の蝙蝠——いや、もういない。全ての蝙蝠は、すでに地面に落ちていた。
戦闘が、終わった。
気がつけば、地面のあちこちに、蟲の残骸と蝙蝠の死骸が転がっている。空気は、鉄と鉱物と魔物の体液が混ざった、鼻孔を刺すような匂いで満ちていた。ランプの光が、静かに戦場を照らし出している。
ガルドが、大剣を鞘に収める。
「……よく生きてた」
彼は、草と土を手に集めると、カイルの手のひらに押し当てた。小さな裂傷があるらしい。カイルが、痛みに顔を歪める。
「これで血止めだ。唾つけとけ。治癒師、こっちだ。擦り傷と打撲、消毒できるか」
リオが、はっとして立ち上がる。足が震えている。それでも、彼は鞄から薬草の入った布袋と、清潔な布を取り出した。手際は、訓練で覚えたままに正確だった。
グレンは、杖の氷刃を消した。刃は、音もなく空気に溶け、杖は元の長さに戻る。そして、被害が最も酷かった地面の血と土を、持っていた布で丁寧に拭いた。
「……大丈夫だった?」
声をかけると、カイルが顔を上げた。
その瞳は、恐怖と興奮で揺れていたが、確かに、まっすぐこちらを見ていた。
「グレンさん……どうして」
「どうして……何だい?」
「だって、グレンさんは魔法師で……後ろで守るのが、その、普通で。なのに、あんな風に、前に出て……氷の刃で……あの、すごかったです」
声が震えている。寒さのせいだけではない。恐怖と、それ以上の何か。まだ言葉にできない感情が、彼の中で渦を巻いている。
グレンは、少しだけ考えた。
答えを、どこまで話すべきか。
だが、カイルの瞳を見た時、彼はこの少年に、短い言葉でもいいから、本当のことを話そうと決めた。
「僕はね、本当は剣士になりたかったんだよ」
カイルが、はっと顔を上げる。
「でも、適性がなかった。十五の時に、検査でそう言われた。それで、剣を諦めて、召喚士になったんだ。それから十五年。……誰かを守るために、杖を振る方法を考えた。剣が振れないなら、氷で刃を作ればいい。踏み込みの型だけなら、自分にもできるかもしれないと思ったんだ」
グレンは、杖を軽く持ち上げた。先端の魔石が、坑道の薄暗がりで、青く澄んだ光を放っている。
「前に出るだけが剣じゃない。敵を倒す剣も大事だけど、誰かを守る剣もある。君が今日、あの蟲の足を切った。あれも、仲間を守るための一振りだっただろう?」
カイルの目が、見開かれる。
さっきまで、自分の剣は無力だと思っていた。蟲の甲殻に弾かれて、何の役にも立たないと思っていた。
でも。
足を切った。仲間を助けた。確かに、マーヤとレンの攻撃を助けた。
「俺は……まだ、何にもなれてません」
「それでいいんだよ。今は、何にもなれなくていい。ただ、剣を振った後の手の感覚を忘れないこと。誰かのために振った剣は、ちゃんと君の中で重さを持つから」
グレンは、カイルの剣の柄に手を置いた。まだ、汗で湿っている。
「……お前は、何のために剣を振りたい?」
カイルは、息を呑んだ。
誰に聞かれたこともない問いだった。
剣士になりたい。強くなりたい。立派な冒険者になりたい。ずっと、そう思っていた。
でも、何のためかと聞かれて、初めて、真剣に考えた。
「……俺は」
声が、滲んだ。
「時間をかけて、見つけなさい。今は、それでいいんだ。答えを急ぐほど、剣は重くならないよ。ゆっくりでいい。歩きながら、探していけばいいんだ」
カイルの瞳に、大粒の涙が浮かんだ。
彼は、ぐっと唇を噛んで、それを流すまいとした。
——。
坑道の入口を出た頃には、空が茜色に染まっていた。
夕暮れの風が、冷えた体に心地よく当たる。血の匂いと腐敗の匂いが、外の空気に混ざって薄れていく。
ティナが、深く息を吐いた。肩が、ようやく下りたような顔をしている。マーヤとレンは、疲れ切って無言になった。リオは、地面に手をついて、荒い呼吸を繰り返していた。
カイルが、グレンの前に立った。
その顔は、まだ青ざめていたが、先ほどまで消えかけていた瞳の光が、戻っている。
「グレンさん! 俺、次は絶対、もっと上手くやります。今日みたいに足を狙うんじゃなくて、ちゃんと、誰かを守れる剣士になります!」
声が、夕暮れの草原に響いた。
マーヤとレンが、ちらりとカイルを見て、微かに笑った。ティナが、少しだけ口元を緩める。「先に息を切らすなよ」とでも言いたげだった。
グレンは、その様子を見ながら、静かに尋ねた。
「……明日も、来られるかい?」
カイルが、力強く、二度、うなずいた。
「行きます! 絶対に、また!」
グレンは、短く「まあ、いいか」と呟いて、微笑んだ。
——その時だった。
地面が、微かに、震えた。
ドクン。
体の底に響くような、低い地鳴り。
風が止み、夕暮れの空気が、一瞬、凍りつく。
そして、聞こえた。
坑道の奥から、金属を擦り合わせるような、不気味な唸り声。低く、長く、地の底から這い上がるような音だった。
リビングジェネラルが、すっとグレンの前に立った。盾を前面に構え、兜の奥の蒼い光を、強く、脈打たせている。警戒しているのだ。
「……今のは」
ガルドが、大剣の柄に手を置いた。
新人たちの顔から、さっきまでの弛みが消えた。
「まさか、二層から……?」
「分からん。だが、深部の何かが、こっちに近づいてる可能性がある。早く離れるぞ。今日はもう、訓練は終わりだ」
グレンは、坑道の入口を振り返った。
黒い坑口が、夕闇の中に、ぽっかりと口を開けている。その奥から、もう一度、微かな地鳴りが響いた。
リビングジェネラルの蒼い光が、ひと際強く脈打つ。
(……近い。浅部にまで来ている)
グレンは、心の中でそう呟いて、新人たちを急かすように、来た道を歩き出した。
——。
工房に戻った頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
グレンは、蝋燭に火を灯し、作業台の椅子に腰を下ろした。革鞄を下ろすと、その口は、いつの間にか擦り切れて、少し破れていた。戦闘中に、地面の岩に引き裂かれたらしい。中身を確認すると、魔石は無事だが、氷結の触媒は一本、粉々になって底に沈んでいた。
「……派手にやりすぎたかな」
微苦笑が漏れる。
壁際では、リビングジェネラルが、いつもの定位置に立っていた。その兜の奥の蒼い光は、戦闘の興奮がまだ収まらないのか、いつもより速く、規則的に明滅している。
グレンは、革鞄の底から、折り畳まれた一枚の紙を取り出した。
祖父の手紙だった。
『剣を振る手は、誰かの盾の代わりにはなれない。だが、剣を振る意志は、誰かの心の盾になる』
その文字を、グレンは目で追う。
今日の戦いで、何度も頭の中に浮かんだ言葉だった。リオを守るために前へ出たあの瞬間、カイルに問いかけたあの時。
グレンは、手紙を丁寧に畳んで、机の端に置いた。
それから、リビングジェネラルへ向き直った。
「お前、さっき……勝手に動いただろ」
リビングジェネラルが、盾を下げて、首を傾げた。
その仕草は、以前にはなかったものだ。
「リオの前に出た時、僕が指示するより先に、お前が庇った。あれは、お前が判断したのか? それとも、俺の無意識に呼ばれたのか」
リビングジェネラルは、答えない。代わりに、兜の奥の蒼い光が、ゆっくりと、三度、明滅した。
グレンは、その光を見つめながら、静かに笑った。
「……まだ終わってなかったんだよな。俺も、お前も」
乾いた声だった。
しかし、その声には、少しだけ、どこか晴れやかな色が混じっていた。
リビングジェネラルが、盾を構え直す。
蒼い光が、工房の暗がりを、淡く照らしていた。
グレンは、手帳を開き、明日の予定を書き込んだ。
『新人訓練 二日目。坑道入口まで。カイル、ティナ、リオ、マーヤ、レン』
そして、その下に、小さく、
『基礎体力から』
とだけ、付け足した。
ペンを置く。
工房の外では、夜風が、木戸をかすかに揺らしていた。
——その奥深くで、坑道の地鳴りが、まだ、止まらなかった。Noveliaとは?
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