氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜
氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜
三十歳の召喚士グレンは、たった一体のリビングアーマーしか喚び出せないという理由で、Bランクパーティ『紅の牙』を追放される。リーダーのゼクスは冷たく言い放った。「お前の召喚じゃ前線が保たない」。グレンはただ「そうか」とだけ呟き、抗わずに去っていった。
しかし、彼が十五年もの間、全魔力を注ぎ込んできたリビングアーマーは、密かに自我を持つ上位存在――“リビングナイト”へと進化を遂げていた。グレン自身もまた、凄まじい鍛錬の末に通常の魔導士の三倍の魔力容量を有し、敵の動きを阻害する氷結魔法を得意としていた。相棒のリビングナイトは重騎士として振る舞い、絶対零度の斬撃を放つ斧と、主を守る鉄壁の盾を操る。二人の絆は、とうの昔に主従を超え、戦友と呼ぶべきものになっていた。
街外れでひっそりと杖工房を開いたグレンは、そこで天職を見出す。素材と刻印を客の魔力に緻密に調律するその手腕は、駆け出しの火魔法使いアリサや、Bランクの風魔導士クラウスなど、様々な冒険者たちの信頼を集めていった。一方、氷による妨害と盾防御という要を失った『紅の
氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜 - 雨音の咎
雨は、朝からずっと降り続いていた。
工房『鉄槌と刻印』の木戸を叩く音は、一定の間隔で、けれど心なしか弱々しい。グレンは作業台に両手をつき、細いヤスリを杖の表面に当てていた。金属と木が擦れる微かな音が、雨音に混ざって消えていく。壁際のリビングジェネラルは、蒼黒い鎧に水滴ひとつ付けず、いつもと同じ場所に立っていた。兜の奥の蒼い光だけが、薄暗い室内でゆっくりと呼吸している。
(今日は、客足はないだろうな)
グレンは窓の外を一瞥した。石畳の上を、雨が斜めに叩きつけている。城壁の向こうの空は、鉛色の雲でびっしりと覆われていた。五日前、クラーゲン坑道で地鳴りを聞いてからというもの、工房の周囲は妙に静かだった。新人訓練はガルドに預けたままにしている。あの後、坑道の調査が互助会から通告されたが、まだ正式な出動要請は来ていない。
(まあ、いいか)
グレンは、口の中でそう呟いた。
——その時だった。
木戸の外で、衣擦れの音がした。
人の気配。しかも、すでにかなり近い。足音はしなかった。雨の音に紛れて、聞こえなかったのだ。グレンが顔を上げると同時に、木戸が外から、遠慮がちに三度、叩かれた。
「どうぞ、開いてますよ」
返事はなかった。
数秒の間。雨の音だけが、やけに大きく工房の中に流れ込んでくる。グレンは、ヤスリを置いて、カウンターの前まで歩いた。
木戸が、ゆっくりと開いた。
雨と共に、彼女は入ってきた。
濡れた土と、草の匂い。それから、かすかに血のような鉄の匂い。旅の疲れが染みついた外套の裾から、雨水がしたたり落ちて、床に小さな水たまりを作っている。
フードを深く被っていた。顔はほとんど見えない。ただ、白い指先が、外套の前を掴んでいた。その手が、小さく震えている。
グレンは、一目で分かった。
(ミレイユ、か)
彼女は、戸口に立ったまま、動かなかった。
まるで、この場所に入る資格があるのか、とでも問いかけているかのように。雨に濡れた肩を落とし、フードの下から覗く唇が、何かを言おうとして、けれど言葉にならない。
「ひどい雨だね。入って、火のそばに座るといい」
その言葉に、ミレイユは、ようやく一歩を踏み出した。
歩くたびに、床に雨の染みが広がる。彼女はカウンターの前まで来ると、フードを脱いだ。
ウェーブのかかった琥珀色の髪が、濡れて顔に張り付いていた。深い森の緑色の瞳は、以前よりずっと濃く、暗く沈んで見える。頬はこけ、目の下には薄い隈があった。それでも、右手の甲に嵌めた土魔法用の琥珀のグローブだけは、丁寧に手入れされていて、奇妙な対照をなしていた。
「……久しぶりね」
ミレイユの声は、かすれていた。雨のせいだけではない、とグレンには分かった。
「うん、久しぶりだね」
グレンは、カウンターの向こうに立ったまま、穏やかな笑みを浮かべた。
彼女は、少しの間、唇を噛んで、何かを迷っていた。それから、背負っていた細長い荷物を、カウンターの上に置いた。布で何重にも包まれていたが、輪郭から、杖だと分かった。
ミレイユは、震える手で、ゆっくりと布を解いていく。中から現れたのは、丁寧に磨かれた一本の杖だった。杖の先端には、土魔法の魔力を増幅させるらしい、濃い琥珀色の石が嵌め込まれている。グレンには、その杖に見覚えがあった。彼が紅蓮の牙にいた頃、ミレイユのために調整したものだ。
「お願いがあるの。この杖……調子が悪くて」
彼女は、息を吐くように言った。
「最近、魔力の通りが悪いの。詠唱と手印のリズムが合わなくなって、土壁の形成に、時間がかかるようになったわ。先日のソロ依頼で、岩蜥蜴の群れに囲まれた時も……術式が、途中で消えかけて」
「……君が、一人で岩蜥蜴の群れに? 無茶をするね」
グレンは、杖を手に取った。ずっしりと重い。材質は黒檀。芯材には、灰煙の森の魔法樹の根が使われている。長年の使用で、握りの部分だけが、深い飴色に変わっていた。
「無茶は、してないわ。ソロのDランク依頼なんて、紅蓮の牙にいた頃には、考えられなかったけど……今の私は、戦える仕事なら何でもしなきゃいけないから」
ミレイユの指先が、カウンターの縁を掠めた。その指は、以前はもっと肉づきが良かったはずだ。今は骨ばかりが浮き出ている。
(かなり、無理をしているな)
グレンは、そう思ったが、口にはしなかった。
「少し、見せてもらうよ」
作業台に杖を置き、彼は棚から魔力測定器を取り出した。真鍮の台座に、細かな針と、いくつもの硝子管が組み合わされた古い機械だ。杖を台座に固定し、クリスタルに手をかざす。青い光が走り、針が揺れた。
「どう……?」
彼女の声に、縋るような響きが混ざった。
「魔力伝達効率、七十八パーセント。だいぶ落ちてるね。芯材の魔石粉が、劣化してる。継ぎ目の刻印も、上から三番目が摩耗してるよ。杖自体の寿命が近い」
グレンは、淡々と告げた。
ミレイユは、俯いた。
「……そう。やっぱり、そうなのね」
彼女は、深く息を吸った。それから、絞り出すように言った。
「グレン。私、話したいことがあるの。杖の調整を頼むだけなら、こんな雨の日に、ここへ来るべきじゃないって……自分でも思った。でも、誰かに、聞いてほしかったの」
グレンは、何も言わずに、台座に固定した杖へ魔力を流し込んだ。針が、ゆっくりと動く。
「ゼクスが、いなくなったの」
雨音が、一段と強くなった。
「二週間前、宿を引き払ったの。そのまま、互助会への連絡も、完全に途絶えたわ。私も、ガルドも、知らなかった。彼が最後に確認されたのは、王都クロイフェルトの外れだった。首都の、あの、古い魔法使い用の木賃宿が並ぶ区画よ」
グレンは、黙って針の動きを追っていた。
「それで……先週、紅蓮の牙の拠点に来たの。闇ギルドの使いだっていう男が。黒い外套で顔を隠してて、声も、聞き取りにくいような、不気味な男だった。そいつが言ったの。ゼクスは、クロイフェルトの地下で、禁術に手を出した。代償と引き換えに、炎蛇召喚の力を得た、って」
「……炎蛇、召喚」
グレンの指が、一瞬止まった。
炎蛇。高位の火属性モンスターを、自分の召喚体として契約することだ。正規の手順では、召喚士としての高度な訓練と、いくつもの安全装置を経なければ、絶対に不可能な術だ。禁術の代償と言った。おそらく、命か、正気か、それに類する何かを、差し出したのだろう。
「あの男、元々、火属性との相性はそこまで高くなかった。でも、禁術で、自分の魔脈に、無理やり異種の魔力を移植すれば……確かに、理論上は、召喚できるかもしれない。あの人は、グレン、あなたのリビングジェネラルを見て、ずっと、自分も強くなりたいって、そう思ってた。私、止められなかった」
ミレイユの声が、震えた。
「リーダーの変貌に、みんな気づいていた。あなたを追放した後から、おかしくなっていった。依頼の選び方も、粗暴になった。私が、もっと強く言っていれば……私が、あの時、彼の決断に、もっと全力で反対していたら。そうしたら、今ごろ、彼を、こんなところまで追い詰めずに済んだのかもしれない」
彼女の両手が、膝の上で、きつく握りしめられていた。
「私、許せないの。今もゼクスのことを、心配してしまう自分が。心のどこかで、まだ、あの人が立ち直れるんじゃないかって。グレン、あなたを失って、自分たちが犯した間違いの、一番ひどい形が、今、目の前にあるのに。それでも、かつての仲間を見捨てられない、っていう気持ちが、消えないの」
彼女は、うつむいた。
雨音だけが、工房の中に満ちていた。
グレンは、杖の刻印をなぞった。摩耗した三番目の刻印。そこに、細い彫刻刀を当て、一筋、また一筋と、紋様を彫り直していく。作業の手は、止めない。
「ミレイユは、ミレイユで、やればいいよ」
静かな声だった。
ミレイユが、顔を上げた。森の色をした瞳が、グレンに向けられる。
「誰かを心配するのは、悪いことじゃない。君がそれを、偽れないのも、僕には分かってるつもりだよ。君は、元々そういう人だ。ゼクスの暴走を、一番遠くから、でも一番近くで見てたのは、君だろう?」
ミレイユの口元が、歪んだ。泣き出すのを堪えるような、そんな顔だった。
「……勝手だって、思うでしょ。あんなに迷惑をかけたのに」
「まあ、いいか。勝手なのは、僕も同じだからね」
グレンは、彫刻刀を置いた。杖を手に取り、もう一度魔力測定器に通す。針が、みるみるうちに上がっていく。八十、八十五、九十……。最終的に、針は九十四の手前で、ぴたりと止まった。
「これで、伝達効率、九十四パーセントまで戻ったよ。本来の性能以上だ。これなら、岩蜥蜴の群れに囲まれても、土壁はすぐに張れるはずだよ」
ミレイユは、杖を受け取った。その両手は、まだ、かすかに震えていた。けれど、今度は、先ほどとは少し違う震えだった。
「調整代は……」
「銀貨三十枚でいいよ。材料費も、いらない。緊急の仕事だから、早く終わったし」
彼女は、革袋から銀貨を取り出した。硬貨をカウンターに置く。がちゃり、と、濡れた音がした。
ミレイユは、フードを被り直した。
「今日は、もう帰るわ。雨が、ひどくなる前に」
彼女は、木戸へ歩き出した。背中を、グレンに見せて。
そして、木戸の前で、立ち止まった。
振り返った。
「……ごめん」
それは、まるで、雨音に溶け込むような、小さな声だった。
謝罪の言葉。何を、誰に対して、どの過去のことを、謝っているのか。グレンには、色々な意味に聞こえた。けれど、彼は、その意味を問わなかった。問い質すことは、彼女を、これ以上追い詰めることになる。
「また、調整が必要になったら、いつでも来るといい。君の杖は、僕が面倒を見るよ」
グレンの声は、静かで、温かかった。
ミレイユは、一度だけ、深く、首を縦に振った。
木戸が、開いた。冷たい風と雨が、工房の中に吹き込む。彼女は、その中へと消えていった。
——。
木戸が、閉まった。
部屋の中に、再び、雨音が満ちる。
グレンは、カウンターに肘をついた。
濡れた床の上に、ミレイユの足跡が、ぼんやりと浮かんでいる。彼女の座っていた場所だけ、すこし床が湿っていた。
グレンは、少しの間、その染みを見つめていた。
それから、隅に立つリビングジェネラルへ目をやる。
蒼黒い重鎧は、微動だにしない。兜の奥の蒼い光が、ずっと一定の間隔で明滅していた。
「みんな、それぞれだな」
グレンは、小さく呟いた。
呟きは、雨音の中で、あっさりと消えた。
リビングジェネラルが、兜を一度だけ、ゆっくりと傾けた。それから、兜の奥の蒼い光が、短く、強く脈打った。ほんの一瞬だけ。
返事の代わりだった。
——その夜。
雨は、まだ降り続いていた。
グレンは、工房の灯りを、そろそろ消そうと思い、窓へ歩み寄った。分厚い雨雲の向こうに、わずかな月明かりも見えない。街の灯りも、とっくに消えている。よいよ深い闇だった。
窓の桟に、手をかけた。
——その時、だった。
はるか西の空が、赤く光った。
切れた。
また、光った。
二度、三度と、不気味な赤い光が、雲の下を、はっきりと走った。まるで、見えない刃が、夜の腹を引き裂いているかのようだった。
グレンの手が、止まった。
(……クロイフェルトの方角だ)
王都クロイフェルト。ヘルダインから、北西へ百三十キロ。あの赤い光は、間違いなく、そこから発せられていた。
心臓が、一度、強く脈打つ。
背後で、金属の軋む音がした。
振り返る。リビングジェネラルが、窓へ向かって一歩、前に出ていた。兜の奥の蒼い光が、激しく明滅している。赤い光が走るたびに、その蒼が、警告のように強く点滅した。
(ゼクス……)
グレンの脳裏に、ミレイユの言葉が、甦る。
『代償と引き換えに、炎蛇召喚の力を得た』
あの赤い光は、なんだ。雷でもない。普通の魔法の光でもない。あれは、炎蛇、いや、もっと別の、とぐろを巻くような、異形の光だった。禁術の、残り火のような。
雨に濡れた窓ガラスの向こうで、赤い光が、まだ、点滅している。
グレンは、窓を閉めた。
カチリ、と、木枠の音が妙に大きく響いた。
彼は、工房の戸へ歩み寄ると、閂を下ろした。
一度、手を離す。それから、もう一度、閂に触れて、留め具が、しっかりとはまっていることを確かめる。さらに、木戸の取っ手を掴み、内側から、きつく、引き寄せた。
それから、窓の戸締まりを、東の窓、北の小窓、裏手の木扉と、順番に丁寧に、確認していった。
全部で、三重に。
いや、数えてみれば、戸締まりの金具を、かれこれ四回は、きつく握り直していた。
雨音だけが、相変わらず降り続けている。
赤い光が、窓の外から、うっすらと、室内の床を染めていた。間隔は、さっきよりも、少し短くなっている気がする。
(近い。いや、遠いはずだ。百三十キロも離れている)
グレンは、心の中で打ち消した。
けれど、指先の震えは、しばらく止まらなかった。
彼は、ろうそくの火を、吹き消した。
闇が、落ちる。
雨音と、遠い雷鳴のような赤い光が、閉じた窓の外で、夜を焦がしている。
隅に立つリビングジェネラルの蒼い光だけが、この暗闇の中で、静かに、しかし鋭く、何かを睨みつけるように、冷たく脈打ち続けていた。Noveliaとは?
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