氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜
氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜
三十歳の召喚士グレンは、たった一体のリビングアーマーしか喚び出せないという理由で、Bランクパーティ『紅の牙』を追放される。リーダーのゼクスは冷たく言い放った。「お前の召喚じゃ前線が保たない」。グレンはただ「そうか」とだけ呟き、抗わずに去っていった。
しかし、彼が十五年もの間、全魔力を注ぎ込んできたリビングアーマーは、密かに自我を持つ上位存在――“リビングナイト”へと進化を遂げていた。グレン自身もまた、凄まじい鍛錬の末に通常の魔導士の三倍の魔力容量を有し、敵の動きを阻害する氷結魔法を得意としていた。相棒のリビングナイトは重騎士として振る舞い、絶対零度の斬撃を放つ斧と、主を守る鉄壁の盾を操る。二人の絆は、とうの昔に主従を超え、戦友と呼ぶべきものになっていた。
街外れでひっそりと杖工房を開いたグレンは、そこで天職を見出す。素材と刻印を客の魔力に緻密に調律するその手腕は、駆け出しの火魔法使いアリサや、Bランクの風魔導士クラウスなど、様々な冒険者たちの信頼を集めていった。一方、氷による妨害と盾防御という要を失った『紅の
氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜 - 罪の重さと初めての客
空は高く、青がどこまでも澄んでいた。初夏の日差しが石畳の街に降り注ぎ、乾いた風が通りを抜けるたび、どこからか微かな埃っぽさが鼻をくすぐる。
グレンの杖工房「鉄槌と刻印」の前には、今朝も新しい看板が静かに揺れていた。ここ一週間ほどで、その文字もすっかりこの景色に馴染んだように思う。彼は作業台の前に座り、昨日から手を入れているドルグの黒檀の杖に彫金針を走らせていた。微細な魔力刻印——風魔法の指向性を高めるための繊細な回路——を、手元の水晶板越しに見える魔力の流れに合わせて調整する。
工房の中は、木と金属と、ほのかに焦げたような魔法薬の匂いが混ざり合っている。壁際ではリビングナイトがいつものように静止し、その蒼黒い鎧の奥の魔力光が、静かにきらめいていた。
(……よし、これでどうだ)
杖の表面に最後の刻印を刻み終え、グレンが小さく息をついた時だった。
コン、コン。
扉を叩く音がした。遠慮がちな、それでいてどこか覚悟を決めたような、控えめなノックだった。
「開いてるよ」
グレンは顔を上げず、手元の杖を柔らかい布で拭きながら答えた。
ギィ……
古い蝶番の軋む音がして、一人の女性が工房に足を踏み入れた。豊かな琥珀色のウェーブがかった長い髪が、開いた扉から差し込む日差しを受けて黄金色に輝いている。深い森の緑色をした瞳は伏せがちで、どこか陰りのある光を宿していた。
土魔導士ミレイユ——かつて紅蓮の牙で共に戦った、参謀役の女性だった。
彼女の右手には、使い込まれた樫材の杖が握られている。グレンがかつて調整を施した品で、表面の魔力刻印は彼の仕事だと一目で分かるものだった。琥珀が埋め込まれた右手のグローブも、彼女のトレードマークだ。少しだけ痩せたように見える頬が、ここ数週間の彼女の心境を物語っている。
「……久しぶり、グレン」
ミレイユは顔を上げて、かすかに微笑もうとした。しかし口元はぎこちなく引きつり、笑顔にはならなかった。彼女の声は、記憶の中の張りのある調子とは違い、どこかくぐもって沈んでいる。
グレンは手を止め、椅子から腰を上げた。
「やあ、ミレイユ。久しぶりだね」
彼の声はあくまで穏やかだった。驚きも、非難も、その口調からは感じられない。ただ、静かに彼女の来訪を受け入れる——そんな温度だ。
ミレイユは作業台の前に立ったまま、まるで許しを請うかのように、伏し目がちに自分の杖を両手で差し出した。彼女の指先が、かすかに震えている。
「杖の調子が……最近、良くなくて。伝達効率が落ちている気がするの」
彼女は言葉を選ぶようにゆっくりと話し、深い緑の瞳はグレンの顔から何かを探るように揺れていた。しかし彼女の本当に伝えたいことは、この杖の話なんかではない。それは痛いほど明らかだった。
グレンは差し出された杖を受け取り、光にかざした。樫材の木肌は、彼女の魔力と長年寄り添ってきたことを示す深い飴色に変わっている。彼は無言で水晶板を取り出し、杖の先端から微弱な魔力を流し込んだ。青白い光が板上に幾何学模様を描き、魔力の流量と抵抗値が数字となって浮かび上がる。
(……刻印の摩耗だけじゃないな。内部の芯材にもストレスが蓄積してる)
グレンは頭の中で診断を組み立てながら、しかし口には出さなかった。彼はただ、職人としての顔で淡々と杖を調べる。
「刻印がいくつか摩耗しているね。伝達効率も落ちてるし、芯材の調子も良くなさそうだ」
彼は杖を作業台の柔らかい布の上に置き、帳簿を手に取った。羽根ペンをインク壺に浸し、調整内容と見積もりを書きつける。
「調整にかかる日数は三日ほど。費用は銀貨十八枚になるけど、どうかな」
ミレイユは小さくうなずき、腰の革袋から銀貨を取り出し始めた。一枚、二枚……硬貨がカウンターの木の上に置かれる乾いた音が、やけに大きく響く。十八枚を数え終えた彼女は、そのままの姿勢で硬貨を見つめていた。
「グレン……私は……」
ミレイユの声が震えた。彼女は顔を上げ、グレンをまっすぐに見つめる。その瞳の奥に、罪悪感と、言葉にならない謝罪と、そして何よりも深い後悔が渦巻いているのがはっきりと見えた。彼女は唇を噛みしめ、しかし次の言葉を紡ぎ出せない。
沈黙が落ちた。
グレンはカウンターに置かれた銀貨には手を触れず、ただその場に置かせたままにした。彼は少しだけ目を細め、穏やかな灰色の瞳をミレイユに向ける。彼女が何を言いたいのか、何を言えないのか——それは手に取るように分かった。紅蓮の牙を追放されたあの日の、彼女の顔を覚えている。押し黙って、唇を噛みしめていたあの顔を。
それでも。
「杖は預かります。良い仕事をしますよ」
彼はそれだけを言った。
優しく、しかし何かを断ち切るように——あるいは、彼女にこれ以上苦しまなくていいと伝えるように——短く、穏やかに。
ミレイユはもう一度だけ唇を噛みしめ、うつむいた。琥珀色の髪が流れ落ち、彼女の表情を隠す。何かが零れそうになるのを、彼女は必死にこらえていた。
「……ええ。……お願い」
絞り出すような声だった。彼女はくるりと背を向け、逃げるように扉へと向かう。その背中があまりにも小さく、痛々しく見えた。
ギィ……バタン。
扉が閉まる。
グレンはそれを見送り、そっとため息を一つついた。
(ミレイユ……君は気に病みすぎだよ)
しかし、それを声に出して伝えることはしない。それが彼の優しさでもあり、また、残酷さでもあった。彼は黙ってミレイユの杖を手に取り、布で丁寧に包み始める。銀貨十八枚は、まだカウンターの上に置かれたままだった。
工房の中に、再び静寂が戻る。リビングナイトは微動だにせず、壁際からそのすべてを見つめていた。
しばらくして、グレンが道具の後片付けを始めた頃——。
バタンッ!!
今度は乱暴な音を立てて、工房の扉が勢いよく開かれた。
「グレンさーん!! 来ましたよ!!」
駆け込んできたのは、まだ若い火魔法使いの少女——アリサだった。彼女は燃えるような赤毛をポニーテールに結い上げ、焦げ茶色の瞳をキラキラと輝かせている。その手には、根本から無残に裂け、内部が焦げた使い物にならない杖が握られていた。
前回、壊れた杖を直す約束をした、工房にとって初めての一般客だ。
アリサは息を切らしながら、作業台の前に立った。薄手の麻のローブはあちこちが汚れ、袖口は煤で黒くなっている。彼女の周りの空気だけがほんのりと温かいのは、彼女の強い火の魔力が無意識に漏れ出ているせいだろう。
「約束通り、来ました! これ、見てもらえますか!? やっぱり直らなくて……!」
「やあ、アリサ。ちょっと待ってね、今お茶を淹れるから」
グレンは小さく笑い、彼女に椅子を勧めた。アリサは素直に腰を下ろし、それでも興奮冷めやらぬ様子で杖を差し出す。
彼は彼女から杖を受け取り、まず全体を観察した。前回も見たが、改めて見るとその損傷のひどさがよく分かる。根本の亀裂は深く、内部の芯材に使われている火魔石の粉が過剰反応を起こし、杖そのものの木質を内部から焼いてしまっている。表面には無数の細かいひび割れが走り、軽く握っただけでパラパラと炭の欠片がこぼれ落ちた。
「あう……やっぱり、もうダメですかね……?」
アリサの声が急に弱々しくなる。彼女は自分の膝の上で両手をぎゅっと握りしめ、不安そうにグレンを見上げた。
「うーん……君の魔力、やっぱり相当強いみたいだね。この杖、安物の桐材でできてるんだけど、桐は魔力の増幅には向いてるけど、熱に弱い。君みたいに出力が強い魔法使いが火魔法を通すと、すぐに内部が焼け焦げちゃうんだよ」
彼は壊れた杖を作業台に置き、立ち上がって材料棚へと向かった。整然と並べられた魔導樹の枝の中から、淡い桜色の木肌を持つ一本を慎重に引き抜く。それはニーレ川の上流で採取した桜材で、表面は滑らかで、手に持つとほんのりとした温もりが伝わってくるようだった。
「これ、桜の魔導樹なんだ。火属性の魔力にすごく相性が良くてね。それに、桐と違って魔力の増幅よりも、制御と安定に優れてるんだ。君みたいに出力が強い魔法使いには、むしろこっちの方が杖が長持ちすると思うよ」
彼は桜材をアリサの前に置いた。彼女はそっと手を伸ばし、恐る恐る木肌に触れる。
「あ……あったかい……」
アリサの瞳が、見る見るうちに輝きを取り戻していく。彼女は桜材を両手で包み込むように持ち、その感触を確かめるように何度も撫でた。
「これ……この木で、杖が作れるんですか? 私の杖が?」
「もちろん。ただ、ちょっと値は張るけどね」
グレンは苦笑いを浮かべて帳簿を取り出し、羽根ペンを走らせた。
「前にも伝えたけど、材料費が銀貨四十五枚。製作工賃が銀貨三十五枚。合計で銀貨八十枚になる。……覚えているかな?」
「は、八十……っ。はい。」
アリサの顔が、わかりやすく青ざめた。彼女は自分の腰の革袋をぎゅっと握りしめ、目に見えてしょんぼりと肩を落とす。駆け出しの魔法使いにとって、銀貨八十枚は途方もない大金だ。Dランク依頼の平均報酬は銀貨二〜五枚。つまり、少なくとも二十回近く依頼をこなさなければならない。
しかしグレンは、そんな彼女の様子を見越したように、穏やかな口調で続けた。
「まあ、慌てなくていいよ。分割でも構わない。まずは材料費の半分、銀貨二十三枚を預かって、残りは納品の時に。工賃の銀貨三十五枚も、納品の時でいい。全部まとめてじゃなく、少しずつでいいんだ」
アリサは顔を上げ、目を真ん丸にしてグレンを見つめた。
「本当に分割でいいんでしょうか……だって、私、まだ駆け出しだし……信用だって、まだ何も……」
彼女の声は震えていた。それは喜びからではなく、信じられなさからだった。駆け出しの、それもこんなぼろぼろのローブを着た小娘に、銀貨八十枚の掛け売りをする商人がどこにいるというのか。
彼女は震える手で革袋を開け、中身をすべてカウンターの上にぶちまけた。銀貨が十五枚。銅貨が八枚。それが、彼女の今の全財産だった。
「これ……これだけしか、今はなくて……でも、必ず払います! 絶対に、ぜったいにちゃんと働いて、ぜんぶ返しますから!」
アリサは泣きそうな声で、必死に訴えた。その瞳の奥には、「断られたらどうしよう」という恐怖と、「それでも縋りたい」という切実な願いが渦巻いている。
グレンは、カウンターに散らばった銀貨と銅貨を、そっと手のひらでまとめた。傷だらけの職人の指が、冷たい硬貨の上を滑る。
「じゃあ、これだけ預かるよ。足りない分は、杖ができてからでいい。それから……君がちゃんと魔法を使えるようになるのが、僕にとっては何よりの報酬だからね」
それは、打算のない、本当に心からの言葉だった。
彼は商人としての計算高さは確かに持っている。しかしその根底には、技術者としての純粋な想いがある。自分が作った杖で魔法使いたちが輝く姿を見ること——それが彼の本当の喜びだった。
アリサはしばらくポカンとグレンの顔を見つめていたが、次の瞬間、彼女の大きな焦げ茶色の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ふ……うぅ……っ、ありがとうございます……っ!」
彼女は子どものように声を上げて泣き出した。この街に来てからずっと、誰も自分を認めてくれなかった。安物の杖を笑われ、駆け出しだと馬鹿にされ、まともに依頼すら受けられなかった。そんな中で、初めて自分を信じてくれた大人がいた。
その喜びが、抑えきれない涙となって溢れ出したのだ。
グレンは何も言わず、そっと彼女の頭に手を置いた。リビングナイトは壁際で、その光景を静かに見つめている。
初夏の陽射しが、泣きじゃくる少女と、穏やかな職人の二人を、やわらかく包み込んでいた。
——その頃。
ヘルダインから南に約四十キロ、灰煙の森の深部は、不気味な静けさに包まれていた。空気は重く、腐葉土と獣の体臭が混ざり合った異臭が漂っている。高く伸びた灰色の樹々のせいで昼間でも薄暗く、あちこちから得体の知れない羽音や唸り声が聞こえてくる。
Bランク依頼「変異灰熊討伐」。
紅蓮の牙は、この森で獲物を探していた。
「気をつけろ。この辺りは奴の縄張りだ」
リーダーの魔法剣士ゼクスは、腰の長剣に手をかけたまま、周囲の気配を探っている。赤みがかった髪には汗が滲み、いつもの自信に満ちた切れ長の瞳にも、どこか焦りの色が浮かんでいた。
彼の背後には、重戦士ガルドがいた。195センチの巨体を分厚い鋼鉄の鎧で包み、無言で大斧を構えている。スキンヘッドの下の小さな灰色の瞳が、森の闇を鋭く睨んでいた。左頬から首筋にかけて走る古いひっかき傷——かつて灰熊と戦った時の勲章——が、薄闇の中で白く浮かんで見える。
彼らはもう二時間も森の中を進んでいた。しかし肝心の灰熊の姿は見えない。普通なら、もっと早く遭遇してもおかしくないはずだった。
「……妙ね。獣道も足跡も、途中で途切れてる。まるで、わざと隠れてるみたい」
ミレイユは地面に手を当て、土魔法で周囲の振動を探りながら言った。彼女の琥珀色の髪は汗で額に張り付き、深い緑の瞳には疲労の色が浮かんでいる。午前中にグレンの工房を訪れたことが、遠い昔の出来事のように感じられた。
「構わん。隠れているなら、追い立てて炙り出すまでだ。俺たちの火力があれば、正面からでも押し切れる」
ゼクスは強気に言い放ち、剣を抜いた。炎の魔石が埋め込まれた刀身が、周囲の闇をぼんやりと赤く照らし出す。
しかし、その時だった。
——ゴォオオオオオオオッ!!!!
森全体を震わせるような咆哮と共に、巨大な影が飛び出してきた。
体長四メートル。灰色の毛皮に覆われた巨体は小さな家ほどの大きさがあり、両目は血のように赤く爛れ、口元からは腐食性の魔力を帯びた涎が滴り落ちている。灰の氾濫で変異した灰熊——通常の個体とは比べ物にならない凶暴さを持つ、Bランクでも最上位の危険指定魔獣だ。
「来たぞ!! 迎え撃て!!」
ゼクスが叫び、炎を纏った剣で斬りかかった。
だが——。
「速い……っ!?」
灰熊はその巨体からは想像もつかない速度で横に跳び、ゼクスの斬撃を易々と回避した。かつてグレンがいた頃なら、ここで地面が凍結し、敵の動きが阻害されていたはずだ。しかし今は、それを担う者はいない。
灰熊は着地と同時に、右前脚を大きく振り抜いた。その巨大な爪には腐食性の魔力が紫色に輝き、空気そのものを腐らせるような異臭を放つ。
「ゼクス、避け——っ!!」
ミレイユの叫びも虚しく。
ザシュッ!!
重く鈍い音と共に、ゼクスの左肩から胸にかけてが、灰熊の爪に深々と裂かれた。鎖帷子が紙のように引きちぎられ、鮮血が飛沫となって舞い散る。
「ぐ……あああああああっ!!」
ゼクスの口から、これまで聞いたことのないような苦痛の叫びが迸った。彼はバランスを崩し、地面に激しく叩きつけられる。傷口からは紫色の腐食性魔力がじわじわと広がり、肉を溶かしながら浸食していく。通常の回復魔法では治せない、灰熊特有の呪いにも似た魔力だった。
「チィッ……!」
ガルドが即座に反応した。彼は大盾を前面に押し出し、追撃を仕掛けようとした灰熊の巨体に体当たりを仕掛ける。鈍い衝突音が森に響き、灰熊の動きが一瞬止まった。
「ミレイユ!! 壁を!!」
ガルドの怒号に、ミレイユは杖を地面に叩きつけた。
「土壁よ、築け——ッ!!」
ゴゴゴゴゴッ!!
灰熊と彼らの間に、厚さ一メートルはあろうかという土の壁が何枚もせり上がる。彼女の土魔法は防御と妨害に長けているが、これはあくまで時間稼ぎに過ぎない。
「撤退する!! ガルド、ゼクスを頼む!!」
ミレイユは悲痛な声で叫び、ガルドは倒れたゼクスを片腕で抱え上げた。彼の左肩から胸にかけては、紫色の魔力が今もなお傷口を腐食し続け、血が止まらない。ゼクスは歯を食いしばり、痛みに顔を歪めながらも、必死に意識を保っていた。
「……この、野郎……っ」
彼は悔しさと屈辱に震えながら、血塗れの手でなおも剣を握ろうとした。しかし指に力が入らず、愛用の長剣が地面に落ちる。
灰熊は土壁の向こうで狂ったように咆哮し、爪で壁を粉砕し始めていた。時間はない。
紅蓮の牙は、命からがら森を後にした。
——それは、紛れもない敗北だった。
夕暮れが近づく頃、彼らは森の外れの安全な野営地にたどり着いた。焚き火がパチパチと音を立て、赤々とした炎が周囲をぼんやりと照らしている。
ゼクスは毛布の上に横たえられ、ミレイユが必死に応急処置を施していた。しかし傷口に残る腐食性魔力が強力で、包帯を巻いても血が止まらず、彼女の手もローブも、すでに真っ赤に染まっている。
「……ダメ。腐食魔力が強すぎる。私の治癒魔法じゃ、これ以上は……」
ミレイユは唇を噛みしめ、震える手で何度も治癒魔法をかけ続けるが、傷口が塞がる気配はない。ゼクスはすでに意識が朦朧とし始め、うわごとのように何かを呟いている。
ガルドは、一言も発さず、黙々と焚き火に薪をくべ続けていた。
彼の無骨な大きな手が、乾いた枝を折り、火の中にくべる。その動作は機械的で、感情の一切が感じられない。ただ、その無言の背中がすべてを物語っていた。
(……これが、今の俺たちか)
ガルドは心の中でそう思った。かつて彼の隣には、蒼黒い鎧の騎士が立っていた。敵の動きを阻害する氷の床があり、すべての攻撃を防ぐ盾があった。それを「火力不足だ」と言って切り捨てたのは、今、血塗れで倒れている男だった。
「……ガルド」
突然、ミレイユが沈黙を破った。彼女は血に染まった包帯を固く絞りながら、俯いたまま、絞り出すような声で言う。
「私、今日……グレンの工房に行ったの」
ガルドの手が、一瞬だけ止まった。しかし彼は何も言わず、また無言で薪をくべ始める。
「杖の調整を、頼みに……。でも、本当は違う。私はただ、謝りたかっただけ……。だけど、何も言えなかった。グレンは、何も言わなかった。ただ……杖は預かります、って。それだけ」
彼女の声は震え、焚き火の炎に吸い込まれるように消えていく。
「あの人は……何も責めなかった。怒りもしなかった。それが、逆に……苦しくて」
ミレイユは涙をこらえきれず、ぐっと唇を噛みしめた。
「私たち、間違ってたのね」
その言葉は、懺悔だった。パーティの参謀として、ゼクスの暴走を止められなかった自分への、何よりも深い後悔だった。
長い沈黙の後、ガルドが初めて口を開いた。
「……あいつは、そういう男だ」
短い、たった一言だった。しかしその低い声には、紛れもない敬意と、そして言葉にできない喪失感が滲んでいた。グレンは文句も言わず、見返りも求めず、ただ自分の道を進む。そんな男だったと、彼は誰よりも知っている。
ガルドはそれ以上は何も言わなかった。彼はただ、焚き火の炎を見つめ続ける。その灰色の瞳が、揺れる火に照らされて、かすかに潤んでいるようにも見えたが——それは、きっと炎のせいだろう。
紅蓮の牙の内部に、初めて明確な亀裂が走った瞬間だった。
——同じ頃。
ヘルダインの酒場「角笛のラグナ」は、いつもの夕暮れ時の喧騒に包まれていた。猪肉のエルダ煮込みの濃厚な匂いと、麦酒の苦みを含んだ香りが混ざり合い、冒険者たちの野太い笑い声がこだまする。店主のラグナ・ホーレンは、カウンターの向こうで手際よくジョッキに酒を注ぎながら、客たちの噂話に耳を傾けていた。
「おい、聞いたか? 紅蓮の牙、大怪我人出したってよ」
「ああ、灰煙の森で灰熊にやられたんだと。ゼクスの野郎、肩から胸にかけてざっくりやられて、腐食魔力が残ってるから治癒も効かねえらしい」
「やっぱりな。グレンがいなきゃ、前線が持たねえんだよ。あの氷の阻害と、リビングナイトの盾だよ。あれがあって初めて、ゼクスの火力が活きる編成だったんだ」
「今更気付いても遅えよ。グレンはもう工房を構えて、職人としてやってるらしいぜ」
「あの野郎、ガルドに無茶させすぎなんだよ。一人で前衛全部背負わせて、そりゃ無理ってもんだろ」
常連客たちの間で、紅蓮の牙の凋落を囁く声は日増しに大きくなっていた。
「……もう、どうにもならんな。あのパーティは」
誰かがぽつりと呟き、数人が同意するようにうなずく。
その噂は、やがて街全体へと広がっていくだろう。しかし今はまだ、小さな火種に過ぎない。この火種がいつか何を燃やすのか、それはまだ誰も知らなかった。
——工房では。
グレンは蝋燭の灯りの下で、アリサのための桜材を手に取り、小刀で慎重に削り始めていた。サクッ、サクッという小気味良い音が、静かな夜の工房に響く。彼の指先は迷いなく動き、桜材の木肌を美しい曲面へと変えていく。
壁際では、リビングナイトが静かにその姿を見つめていた。
何も変わらない、穏やかな夜。
しかしグレンは知らなかった。彼がいない場所で、彼の存在の大きさが改めて証明され、かつての仲間たちが深い裂け目に呑み込まれようとしていることを。
彼はただ、明日も杖を作る。そうして、自分の居場所を、一歩ずつ確かなものにしていく——。
初夏の夜風が、開いた窓からそっと吹き込み、テーブルの上の帳簿のページを静かにめくった。Noveliaとは?
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