氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜
氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜
三十歳の召喚士グレンは、たった一体のリビングアーマーしか喚び出せないという理由で、Bランクパーティ『紅の牙』を追放される。リーダーのゼクスは冷たく言い放った。「お前の召喚じゃ前線が保たない」。グレンはただ「そうか」とだけ呟き、抗わずに去っていった。
しかし、彼が十五年もの間、全魔力を注ぎ込んできたリビングアーマーは、密かに自我を持つ上位存在――“リビングナイト”へと進化を遂げていた。グレン自身もまた、凄まじい鍛錬の末に通常の魔導士の三倍の魔力容量を有し、敵の動きを阻害する氷結魔法を得意としていた。相棒のリビングナイトは重騎士として振る舞い、絶対零度の斬撃を放つ斧と、主を守る鉄壁の盾を操る。二人の絆は、とうの昔に主従を超え、戦友と呼ぶべきものになっていた。
街外れでひっそりと杖工房を開いたグレンは、そこで天職を見出す。素材と刻印を客の魔力に緻密に調律するその手腕は、駆け出しの火魔法使いアリサや、Bランクの風魔導士クラウスなど、様々な冒険者たちの信頼を集めていった。一方、氷による妨害と盾防御という要を失った『紅の
氷の相棒と穏やかな日々 〜追放された召喚士、ただ一人の騎士と生きる道〜 - 凍てつく湖の真実
初夏の陽射しが差し込む互助会ホールは、朝早くから冒険者たちの熱気で満ちていた。
依頼掲示板の前には、十人ほどの男女が群がっている。壁一面に貼られた羊皮紙の中から、自分の力量に見合った依頼を探す彼らの目は真剣だ。グレンはその群れから少し離れた場所に立ち、自分の名前が書かれた個人用の依頼票を確認していた。
(薬草採取に、素材運搬……どれもすぐに終わりそうだな)
頭の中で工房の仕事の段取りを組み立てていると、不意に声をかけられた。
「あの、すみません。グレンさん、ですよね?」
振り返ると、そこに立っていたのは若い剣士だった。年の頃は二十歳そこそこ。手入れの行き届いた革鎧に、腰には長剣。焦げ茶色の髪は短く整えられ、やや緊張した面持ちでグレンを見つめている。その後ろには、弓を背負った同年代の女性と、小さな杖を握りしめた治癒士らしき少女が立っていた。
三人とも、まだ冒険者としての経験が浅いことを隠せない。装備は実用的だが使い込まれておらず、掲示板を見る目にも迷いが浮かんでいる。
「僕に何か?」
「ええ、実は……」
カイルと名乗った剣士は、仲間たちと顔を見合わせてから、意を決したように話し始めた。
「俺たち、蒼き小鳥っていうDランクパーティなんです。それで、凍結湖の調査依頼を受けようと思うんですが、報告ではあの湖にCランク相当のリザードマンが出るって話で」
グレンは無言で頷き、先を促す。
「俺たちだけじゃ、ちょっと心許なくて。それで、サポート役を誰か探してたんです。そしたら互助会の受付の人が、グレンさんならソロ依頼もこなしてるし、氷魔法の使い手だって教えてくれて」
「なるほど」
グレンは三人の顔を順に見た。剣士カイルは真面目そうな若者だ。弓使いのシェーラは、鋭い目つきでグレンの反応を測っている。治癒士のルーナは、不安げに眉をひそめ、シェーラの袖をそっと掴んでいた。
「分かった。引き受けよう」
グレンが即答すると、三人は目を丸くした。
「え、いいんですか? 報酬の分配とか、まだ話してないのに……」
「報酬は、僕はサポート役だから全体の十五パーセントでいいよ。それで君たちも納得できるなら、互助会で正式な臨時パーティ登録をしてくれて構わない」
シェーラが眉をひそめ、口を開いた。
「十五パーセント? 少なすぎませんか。私たち、あなたが紅蓮の牙を追放されたって噂は聞いてます。でも、あなたの実力がどれほどのものかは知らない。サポートって言っても、戦闘になれば危険は同じです。もっと多く取るべきじゃ」
グレンは穏やかに微笑んだ。
「僕にできることは限られてるからね。それに、君たちの足を引っ張るかもしれない。十五パーセントで十分だよ」
カイルはまだ何か言いたげだったが、グレンの静かな物腰に押され、結局「分かりました」と頷いた。
四人は互助会の受付カウンターへ向かい、臨時パーティの登録を済ませる。受付嬢が手際よく書類を処理する間、蒼き小鳥の三人はこそこそと小声で話し合っていた。
「あの人、ほんとに噂の召喚士なのか? もっと無愛想で陰気なやつかと思ってた」
「うん……すごく優しそう。でも、追放されたって話、可哀想」
「同情は要らないわ。とにかく依頼を完遂できれば、それでいい」
グレンはその会話が聞こえていたが、特に反応は示さなかった。彼は自分の手荷物をまとめ、壁際に待機させていたリビングナイトに近づく。
蒼黒い重鎧が、ホールの隅で静かに立っていた。全長二メートルを超えるその威容に、蒼き小鳥の三人は初めて気づき、息を呑む。
「なにあれ……召喚体?」
「でかすぎるだろ……リビングアーマーって聞いてたけど、あれは別物にしか見えねえ」
グレンはリビングナイトの盾を軽く叩き、小さな声で語りかけた。
「今日は守りが本業だからね。よろしく」
リビングナイトは無言で、しかし確かに応えるように、鎧の奥の蒼い魔力光を静かにきらめかせた。
——
同じ頃、凍結湖の東岸には、一人の女性が立っていた。
ミレイユは、腰の採取袋を開け、湖畔に自生する氷結茸を慎重に摘み取っていく。銀色の傘を持つこの茸は、凍った地面にしか生えず、ヘルダインの調薬師たちから貴重な素材として高値で取引されていた。
冷たい湖面からの風が、彼女の琥珀色の長い髪を揺らす。
(こんな単独依頼、グレンがいた頃なら絶対に選ばなかったのに)
彼女は手を止め、遠く湖の西岸を見つめた。
ゼクスが重傷を負ってから、紅蓮の牙の空気は最悪だった。リーダーは苛立ち、残ったメンバーは互いに責任をなすりつけ合う。ガルドはますます無口になり、酒場にこもる日が増えた。参謀役の自分ですら、どうすればいいか分からず、逃げるように一人で外へ出ている。
(あの頃は……もっと静かで、安定していた)
グレンが後衛にいて、リビングナイトが前線を守り、ガルドと共に防衛線を張る。その間にゼクスと自分が全力で攻撃を叩き込む。誰かが勝手に突出することもなく、誰も無理をしなくていい——あの戦い方こそが、紅蓮の牙の本来の強さだった。
それを「火力不足」だと言ったのは、誰だったか。
ミレイユが考え込んでいると、西岸の方角から複数の人影が近づいてくるのが見えた。三人——いや、四人だ。そして、最後方に、ひときわ巨大な影が揺れている。
(あれは……)
彼女は思わず岩陰に身を潜めた。目を凝らすと、先頭を歩くのは若い剣士。その後ろに弓使いと治癒士らしき少女。そして、最後尾を歩くのは——
「グレン……」
声に出して呟き、すぐに口を押さえた。
彼の隣には、あの蒼黒い鎧があった。だが、それはもはや彼女の知っているリビングアーマーではない。全身の鎧の表面に、今まで見たこともない青白い魔力光が不気味に脈打っている。ただ立っているだけで、空気が震えるような重圧感。
(あれが……リビングナイト……?)
噂には聞いていた。追放後、グレンの召喚体が上位存在に進化したという噂を、酒場で小耳に挟んだことがある。だが、実際に目にするのは初めてだった。
声をかけることもできず、ミレイユはその場で息を潜めて、成り行きを見守ることにした。
——
蒼き小鳥が湖岸で調査を始めたのは、陽が中天に差し掛かる頃だった。
カイルが剣を抜き、周囲を警戒する。シェーラが弓を構え、遠くの湖面を睨む。ルーナは後方で、いつでも治癒魔法を詠唱できるように杖を握りしめていた。
グレンは彼らの少し後ろに立ち、リビングナイトを伴って静かに状況を見極めている。
「リザードマンの目撃情報があったのは、この湖の中央付近です。ただ、ここ数日は姿を見せていないって話で……」
「待って!」
シェーラが鋭く叫び、弓を湖面に向けた。
次の瞬間——湖の中央で巨大な水柱が上がった。
ザバアアアアアン!!!
飛沫の中から現れたのは、全長四メートルを超える巨大なリザードマンだ。深緑色の鱗が陽の光を受けて不気味に輝き、爬虫類の冷酷な瞳が岸辺の四人を捉える。
「報告よりでかいぞ……!」
カイルは震えながらも剣を構え直し、前に出た。シェーラが即座に矢を放つ。キリキリという弦の音が空気を裂き、三本の矢がリザードマンの頭部に殺到した。
だが——
カン、カン、カン。
硬い鱗に弾かれ、矢はあさっての方向へ飛び散る。
「鱗が硬すぎる……!」
リザードマンは巨体を震わせ、威嚇するように大きく口を開けた。口の奥で、水の魔力が渦を巻く。
「やばい、水鉄砲が来る!」
カイルが叫んだ瞬間、リザードマンの口から高圧の水流が一気に放たれた。それは一点を狙った攻撃ではなく、扇形に広がる広範囲の一掃射撃だ。三人が散開しようとするが——間に合わない。
その時だった。
グレンが短く、しかし明確な声で命じた。
「盾を」
リビングナイトが一歩前に出た。その動きは、巨体に似合わず驚くほど滑らかだ。左腕の大盾を地面に叩きつける——
ゴォン!!!
衝撃と同時に、盾の表面から冷気が奔出した。白い霧が前方に広がり、次の瞬間、厚さ一メートル以上の半透明な氷の壁が扇形に展開する。アイスウォールガード——前方への広範囲防御に特化した、リビングナイトの盾スキルだ。
バシャアアアアアア!!!
水鉄砲が氷壁に激突する。高圧の水流が氷を砕こうとするが、壁は微動だにしない。水流は細かい飛沫へと変わり、氷壁の向こうで無数の虹を作って散っていく。
蒼き小鳥の三人は、その光景に言葉を失った。
氷のカーテンの向こうで、砕け散った水流が陽光に輝く様は、戦闘の中にあることを一瞬忘れさせるほど美しかった。
「これが……リビングナイト……」
氷壁が砕けた。
グレンは即座に次の指示を出す。
「左から回り込んで」
同時に、彼自身の詠唱が始まった。右手の杖を水平に構え、左手で印を結ぶ。指先から冷気が立ち昇り、大気中の水分が次々と氷の粒へと変わっていく。
「領域凍結」
湖面が一瞬で白く変わった。
リザードマンの下半身が、厚さ数十センチの氷に固定される。巨体がもがき、氷がミシミシと音を立ててひび割れるが、上半身の自由を奪うには十分だった。
「ギャアアアアアア!!!」
リザードマンが咆哮し、再び口に水の魔力を集中させる。だが——
その時にはもう、リビングナイトが側面から突入していた。
巨体の動きには到底見えない、一瞬の踏み込み。右腕の戦斧が大きく振りかぶられ、刃の部分に渦巻く蒼白い冷気が唸りを上げる。周囲の気温が一気に下がり、吐く息が凍った。
一閃。
斧が湖面に叩きつけられた瞬間——世界が白く染まった。
轟音と共に、リザードマンの全身が氷結する。鱗の一枚一枚、牙の一本一本、そして口の中に溜めた水の魔力さえも、一瞬で凍てつく。四メートルの巨体は、まるで精巧な氷の彫刻のように静止し、次の瞬間——
バリンッ。
ガラスが割れるような音と共に、氷像は無数の破片へと砕け散った。
キラキラと陽光に輝く氷の粒が、湖面に降り注ぐ。
戦闘は、終わった。
誰もが言葉を失い、ただ立ち尽くす。
カイルの手から剣が落ち、石の上でカランと音を立てた。
「これが……リビングナイト……なのか……」
彼の声は震え、それは畏怖とも歓喜ともつかない。シェーラは弓を握る手を下ろし、腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。ルーナは涙目で祈るように両手を合わせている。
グレンは杖を構えた姿勢のまま、戦場を見渡した。リビングナイトは斧を下ろし、静かに主人の隣へ戻ってくる。その足取りは重々しく、しかしどこか誇らしげだった。
——
岩陰からこの戦闘の全てを目撃したミレイユは、膝から崩れ落ちた。
(あれが……あれが、私たちが「火力不足」と言って追放したグレンの戦い……?)
冗談ではない。
あの広範囲防御、あの凍結阻害、そして絶対零度の一撃。全てが完璧に連携し、パーティ全体を守りながら敵を殲滅する。あれこそが、グレンの戦術だったのだ。
(私たちは……何も分かってなかった)
ゼクスの負傷、ギスギスした空気、失われた余裕——全ては自分たちの愚かな選択の結果だった。ミレイユはその場に座り込み、手から氷結茸の詰まった採取籠が落ちた。
中身が氷の上に散らばる。銀色の傘が陽の光を受けてきらめくが、もはや拾い上げる気力も湧かなかった。
(グレン……あなたは、こんなにも……)
涙が溢れた。
声を押し殺し、彼女はしばらく泣き続けた。冷たい氷の感触が膝に染み、湖面の風が彼女の泣き声をどこかへさらっていく。
——
同じ日の昼下がり、ヘルダインの大衆酒場「角笛のラグナ」は、まだ客もまばらで静かな時間だった。
店内には、猪肉のエルダ煮込みの残り香と、古い麦酒の匂いが染み付いている。五十席ほどの卓の大半は空席で、隅のテーブルに昼酒をあおる老兵士が一人いるだけだ。
その奥——個室の扉が、静かに閉ざされた。
部屋の中で、ゼクスは苛立たしげに椅子に腰掛けていた。左肩から胸にかけて包帯が巻かれ、その上からかろうじてチュニックを羽織っている。傷はまだ癒えていない。灰熊の腐食魔力が沁み込んだ傷は、治癒魔法だけでは完治しないのだ。顔色は悪く、目の下には濃い隈ができている。
彼の向かいには、怪しげなローブの男が座っていた。フードを深く被り、顔は影になっている。しかし、口元だけは見え、その唇が不快な薄笑いを浮かべている。
「ゼクス・フォルセイア、紅蓮の牙のリーダー。いやあ、噂はかねがね。Bランクパーティの頭が、随分と落ちぶれたようじゃないか」
男の声は、耳障りなほど湿っぽく、ねっとりとした響きを持っていた。
「お前に俺の何が分かる」
ゼクスは吐き捨てるように言った。
「分かるとも。お前は焦っている。仲間はお前を信用しなくなり、パーティの成果は落ち続けている。何より——お前が切り捨てた、たかがリビングアーマー使いが、今や街の有名人だ。樫の工房の主、グレン——お前のプライドをへし折るには十分な名前だろう」
ゼクスの拳が、テーブルの上で震えた。
「あの男は……俺が追放した。それで終わりだ」
「そうか? 終わってなどいないな。お前のパーティはあの男がいなければ機能しない。現に、お前はこのざまだ。肩の傷、癒えないんだろう。焦るのも無理はない」
男はローブの内から、一枚の古びた羊皮紙を取り出した。表面には異様な紋様がびっしりと書かれており、それがかすかに紫色の燐光を放っている。
「これはな、禁呪契約書だ。影の帳——闇ギルドが秘蔵する品でね。この契約を結べば、高位の召喚体を強制的に呼び出す禁術の呪文書を提供する」
「……代償は」
ゼクスの声がかすれた。
「お前の人生、——つまり、お前を禁術によって強制的に召喚士に作り替える。お前の残りの人生を担保として差し出してもらう。
簡単な話だ。今、力を得る代わりに、未来を捨てる。破滅願望のあるお前には、うってつけの取引だと思わないか?」
ゼクスは沈黙した。
手が伸び、羊皮紙に触れる。その表面はゾッとするほど冷たく、生き物のように脈打っている気がした。
(こんなものに手を出すべきじゃない)
理性が叫ぶ。
(だが——もう、引き返せない。グレンに負けたままで、終われるか……)
男の嘲笑が耳にこだまする。
「怖じ気づいたか? まあいい。お前にも、それだけの分別はあるようだ」
「黙れ!!」
ゼクスは激高し、ペンを掴んだ。震える手で、契約書の末尾に署名する。インクではなく、指先から血が滲み、それが文字となる——禁呪契約の証だ。
署名が完了した瞬間、ゼクスの左目の虹彩が、一瞬だけ不気味な紫色に光った。
「契約は成立した。楽しみにしているといい——破滅への第一歩をな」
男は羊皮紙を巻き取り、黒い笑みを残して部屋を出て行った。
残されたゼクスは、テーブルに突っ伏した。包帯の下で、腐食魔力がうずくように痛む。
(これでいい……これで、俺はもっと強くなれる……)
誰に言い訳するでもなく、心の中で繰り返す。しかし、左目に宿った紫色の光だけは、嘘をつけなかった。
——
戦闘後、グレンと蒼き小鳥の三人は湖岸で休息を取っていた。
カイルがリビングナイトの周りをぐるぐる回りながら、興奮気味にまくし立てる。
「ほんとすごかったです! なんで紅蓮の牙はあなたを追放したんですか? ありえない!」
シェーラはまだ腰を抜かしたまま、ぼうっとリビングナイトを見上げていた。ルーナはようやく涙が止まり、グレンの隣で小さく座っている。
グレンはリビングナイトの盾を軽く叩きながら、静かに答えた。
「あの人たちには、あの人たちの考えがあったんだろうね」
「でも、こんなに強いのに!」
「強さだけが全てじゃないよ」
彼はそれ以上は語らず、相棒を労るように、リビングナイトの腕を撫でた。
「今日はよくやってくれた。ありがとう」
リビングナイトは無言で、しかし確かに応えるように、鎧の奥の魔力光を静かに瞬かせた。
その様子を見ていたシェーラが、ぽつりと呟く。
「グレンさんは、本当に自分の召喚体を大切にしてるんですね」
グレンは少し驚いた顔をしてから、微笑んだ。
「十五年、一緒にいるからね」
その言葉に、蒼き小鳥の三人は絶句した。
「十五年……?」
通常の召喚士が、チェスの駒のように召喚体を入れ替えるのは常識だ。一体の召喚体に、十五年もの間、魔力を注ぎ続ける——それは常軌を逸した執念に他ならない。
カイルたちは、グレンの「偏注」の歳月の重みに戦慄し、そして初めて、目の前の穏やかな職人がどれほどの怪物なのかを理解した。
——
グレンたちがヘルダインに戻ったのは、陽が傾き始めた夕刻だった。
「角笛のラグナ」では、蒼き小鳥のカイルたちが、興奮のあまり酒場中に響き渡る声で戦いの様子を語っていた。
「湖ごと凍ったんだよ! リザードマンが一瞬で氷像になって、バリンッて砕けてさ!」
「嘘じゃないわ。私、この目で見たんだから。あの氷の壁、水鉄砲を完全に防いで——きれいだったなあ」
「ほんとです……あんなの、初めて見ました」
噂は瞬く間に広がった。
「やっぱりグレンは本物だったか」
「ゼクスの野郎、とんでもない宝を捨てたな」
「氷の盾にあの破壊力……追放した方がどうかしてるぜ」
酒場の喧騒が最高潮に達する中、カウンターの端で一人、麦酒を煽る大男がいた。
ガルドだ。
彼は無言で噂話に耳を傾け、何も言わぬまま静かにジョッキを置いた。スキンヘッドの頭を手で撫で、左頬の古傷がかすかに歪む。
「……やっぱりな」
小さく呟き、彼は席を立った。何かを決意したかのような、重い足取りで酒場を出ていく。
——
夜。
ミレイユは自宅の小さな部屋で、一人ワインの瓶を空けていた。
採取籠の中身は、泣きながら拾い集めたが、いくつかは湖に落ちてしまった。それでも依頼達成には十分な数だ。だが、そんなことはどうでもよかった。
(私は……何をしてきたんだろう)
グレンに直接謝罪することもできない自分への嫌悪。
紅蓮の牙への疑念。
ゼクスの焦り、ガルドの無言、そして自分の無力。
全てが、あの凍てつく湖で見せつけられた真実の前で、崩れ去っていく。
彼女は震える手でワイングラスを傾け、涙の跡が乾いた頬に、温かい酒精が滲みた。
(もう、元には戻れない)
それは、紅蓮の牙の終わりを直感した瞬間でもあった。
——
工房では。
グレンは蝋燭の灯りの下で、明日からの仕事の段取りを帳簿に書きつけていた。
リビングナイトは壁際で静止し、その蒼黒い鎧の表面に、今日はいつもより少し強く、蒼い光が脈打っている。
「お疲れさま。いい仕事だったね」
リビングナイトは応えない。しかし、グレンにはそれで十分だった。
初夏の夜風が、開いた窓からそっと吹き込み、帳簿のページを静かにめくった。
少し離れた通りからは、まだ酒場の喧騒が微かに聞こえている。
鉄槌と刻印。
その看板の下で、男と一騎の騎士は、今日も穏やかな夜を迎えていた。Noveliaとは?
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