『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第10話「魔王の説法、あるいは組織の浄化」
一
深夜二時を回った歌舞伎町の路地裏は、昼間の喧騒が嘘のように冷たい排気ガスの匂いに満ちていた。頭上の狭い空を切り取る雑居ビルの群れは、まるで巨大な黒い墓標のようにそびえ立ち、ネオンの残骸をアスファルトの泥水に反射させている。榊結衣は、いつも通りの単調な歩調で、その闇の底を歩いていた。新装開店した地下の店での勤務を終え、いつものように周囲の「害虫駆除」を兼ねたパトロールを済ませた後のことである。彼女にとって、この夜の巡回はただのルーティンであり、明日の平穏な睡眠を担保するための地味な作業に過ぎなかった。
しかし、その夜の空気の歪みは、いつになく機械的で、かつ人工的な密度を伴っていた。突如として、前方の空間がかすかに明滅する。国家公認の対妖機関から流出したと思しき、特殊な呪導式遮断結界が起動したのだ。周囲の雑音が完全に遮断され、真空のような静寂が路地を包み込む。それと同時に、暗闇から音もなく現れたのは、過剰なまでの重装備を身に纏った六人の男たちだった。関東最大の急進派ヤクザ組織「銀星会」の若頭、鬼頭誠一郎が組織の威信をかけて編成した、対人・対妖兼用の精鋭部隊である。
彼らが着用しているのは、防弾繊維に呪術的な防護文字を織り込んだ最新鋭の呪式防弾ベスト。手にするのは、超高周波で微細振動する黒染めのブレードと、霊波干渉を完全にシャットアウトする重厚なヘッドギアだった。前回の拉致部隊の全滅を受け、鬼頭は極めて冷静に次の手を打ったつもりだった。人間を遥かに超越した「怪物」を想定し、裏社会のコネクションをフルに活用して集めた最高峰の兵器。その中央で、鬼頭は仕立ての良い高級スーツのポケットに手を突っ込み、冷徹な双眸で結衣を見据えていた。彼の目には、結衣がただの痩せっぽちの、どこにでもいる十七歳の女子高生にしか見えなかったが、その油断は一切行動には表れていなかった。
「フォーメーションB。確実に無力化しろ。生け捕りが理想だが、四肢の二、三本は落としても構わん」
鬼頭の低く抑えられた声が、インカムを通じて隊員たちに響く。次の瞬間、三人の隊員が同時に前進し、特殊銃器の引き金を引き絞った。放たれたのは、象をも一瞬で昏睡させる強力な特殊麻酔弾、そして肉体を拘束するための呪符付き粘着弾の斉射である。狭い路地裏に硝煙の臭いと、空気を切り裂く鋭い発射音が炸裂した。
だが、激しい着弾の煙の向こうから現れたのは、服の繊維に数発の弾丸を引っ掛けただけの、無傷の少女だった。結衣の体内へと染み込もうとした高濃度の麻酔成分は、彼女の皮膚の下で蠢く無数の黒い糸――人外の細胞組織によって、分子レベルで瞬時に分解され、無効化されていた。結衣はただ、少し面倒そうに左肩に当たった弾丸を手で払い落とし、平坦な声を漏らした。
「……また、夜道で騒ぐ人たちですか。いい加減にしてもらえませんか。私、明日は朝から公園のお掃除があるんです。早く帰って眠らないと、お肌に良くないって清掃員のおばあちゃんも言っていました」
その声には、恐怖も、怒りも、あるいは魔王としての尊大さも一切含まれていない。ただた、予定調和を乱されたことに対する、純粋で地味な不満だけが横たわっていた。その絶対的な温度の低さに、鬼頭の背筋を冷たい悪寒が走り抜けた。モニター越しではなく、自らの目で見るその光景は、彼の半生で培ってきた「暴力の常識」を根底から揺るがすものだった。
二
幸か不幸か、日本全国の妖魔たちから毎晩自動的に「負の感情」を吸い上げるシステムのおかげで、今の結衣の胃の腑は満ち足りていた。血を啜り、肉を咀嚼するような原初的な飢餓の波は凪いでいる。だからこそ、彼女の動きは前回の捕食の時よりもずっと洗徹されており、無駄な残虐性を排除した、淡々とした作業としての処理に向かっていた。
「化け物め、死ねッ!」
隊員の一人が恐怖を振り払うように叫び、高周波ブレードを猛烈な速度で振り下ろした。空気を切り裂く高音の振動音が、結衣の脳天へと迫る。しかし、結衣はその凶器に対して、避ける動作すら見せなかった。彼女はただ、買い物の帰りに落ちてきた木の葉でも掴むかのように、華奢な右手をふらりと伸ばしたのだ。
キィィィン、という鼓膜を突き刺すような金属音が響き渡り、火花が激しく散る。超高周波で振動し、戦車の装甲すら切り裂くはずのチタン合金の刃は、結衣の掌に触れた瞬間、完全にその振動を止められていた。結衣の皮膚の下で蠢く黒い糸が、ブレードの物理的なエネルギーを完全に吸収し、中和してしまったのだ。隊員が目を見開いた瞬間、結衣は「お行儀が悪いと思います」と小さく呟き、指先に微かな力を込めた。
パキィン、と呆気ない音がして、最新鋭のブレードがガラス細工のように粉々に砕け散った。その破片が地面に落ちるよりも早く、結衣の左手が男の胸の呪式防弾ベストを正面から捉える。人間離れした質量と速度の前に、最高峰の防護服は何の意味もなさなかった。繊維は一瞬で引き裂かれ、男の巨体はまるで突風に吹き飛ばされた紙屑のように、十メートル先のコンクリート壁へと叩きつけられた。骨が軋む鈍い音が響き、男はそのまま崩れ落ちて動かなくなった。
残りの隊員たちがパニックに陥り、狂ったように火器を連射する。しかし、結衣の歩みは止まらない。彼女が歩くたびに、路地裏の影から無数の黒い触手が音もなく這い出し、放たれた弾丸や呪術の光を次々と 飲み込んでいく。ある者は腕を掴まれて地面に叩きつけられ、ある者はヘッドギアごと頭を壁に打ち付けられた。わずか十数秒。銀星会が誇る最強の私兵部隊は、誰一人として結衣の皮膚に傷一つ付けることすら叶わず、泥のように地べたへ這いつくばることとなった。
圧倒的な実力差。それは「戦闘」と呼べる代物ではなかった。ただの、自然災害のような不可避の質量が、そこにあるだけだった。生き残った男たちの瞳に宿るのは、絶望という言葉すら生ぬるい、完全な無力感だった。彼らにとって結衣は、どれほど手を伸ばしても、どれほど武器を鍛え上げても、決して届くことのない次元の異なる神格そのものだった。己の存在の矮小さを嫌というほど見せつけられ、ただ呼吸をすることすら許されているのが奇跡であるかのような、圧倒的な恐怖が彼らの精神を支配していた。
三
だが、戦闘の終わりは、さらなる異変の始まりに過ぎなかった。結衣の胃の奥で、先ほどまで静まり返っていたはずの「人外の因子」が、にわかに微かな身震いを始めたのだ。確かに満腹ではあった。しかし、目の前で極限の恐怖に囚われ、絶望に震えている鬼頭誠一郎の全身から立ち上る、濃厚で焦げ付くような「生への執着」と「どす黒いプライドの崩壊」。その匂いが、結衣の鼻腔をあまりにも強烈に刺激した。
ああ、それは満ち足りていたはずの五感を狂わせる、抗いがたい情欲の味だった。胃の腑の底で眠っていた獣が、濡れた舌先で内臓の壁を愛撫するように、甘美で熱い疼きを呼び覚ます。結衣の瞳の奥の金色の輪が、じっとりと潤みを帯びて明滅し、彼女の吐息はにわかに熱く、淫らな湿り気を帯びていった。飢餓は、物理的な空腹を超え、目の前の男のすべてを貪り尽くしたいという、蠱惑的な性愛そのものへと変貌していく。皮膚の下の黒い糸たちが、歓喜に濡れた声を上げるように激しく蠢き、結衣の肢体を艶やかに波打たせた。
結衣はゆっくりと鬼頭の方へと歩を進めた。鬼頭は、腰のあたりまで迫ってきた死の気配に抗うように、懐から愛用の拳銃を抜き放ち、銃口を結衣の額へと向けた。指がトリガーにかかる。だが、彼が引き金を引くよりも早く、結衣の細い指先が、信じられない滑らかさで鬼頭の手首を正面から捉えていた。
ミシミシ、と圧迫される骨の音と共に、鬼頭の握力は完全に奪われ、拳銃がアスファルトの上へと頼りなく落ちた。結衣はそのまま彼の身体を強引に引き寄せ、地べたへと押し潰すように座らせた。鬼頭の顔が恐怖と屈辱で歪む。しかし、結衣の顔はその瞬間、奇妙なほどに無垢で、かつ凄絶なまでの「情熱」に満たされていた。
「ひ、っ……あ……」
鬼頭の口から情けない悲鳴が漏れる。結衣は彼の胸元に顔を近づけ、そのドロドロに潤んだ金色の瞳で、彼の魂の最深部を覗き込んだ。至近距離から漂う、少女のものとは思えない甘くおぞましい芳香。結衣の薄い唇が微かに開き、鬼頭の首筋へと寄せられる。その瞬間、鬼頭は己の脳髄が、彼女の放つ人外のカリスマによって直接ドロドロに溶かされていくような、強烈な法悦と恐怖の混ざり合う感覚に襲われた。抗うことなど到底不可能な、圧倒的な捕食者との交わり。結衣の肢体が彼の身体に滑らかに絡みつき、その細い指先が彼の背中を優しく、しかし絶対的な力で愛撫する。吸い上げられる生命の澱が、結衣の喉を滑り落ちるたびに、彼女の胸元が小さく高鳴り、満足げな吐息が路地に漏れた。
しかし、結衣の本能は、その快感の絶頂にあっても冷徹な「規律」を失わなかった。彼女は荒い息を吐く鬼頭の魂の深淵に、侵入不可能な楔を打ち込むように、ペタンと彼の前にしゃがみ込んだ。そして、それまでの淫らな雰囲気を一瞬で消し去り、中学の道徳の教科書を読むかのような、ひどく平坦で真面目な「お説教」を始めたのだ。
「……あの、人を拐かそうとしたり、夜道で鉄の棒を振り回したりするのは、法律で禁止されている犯罪です。警察に捕まりますし、何より周りの人の迷惑になります。そんなに力があるなら、真面目に働いてお金を稼ぐほうが、ずっと健全で素晴らしいことだと思います」
鬼頭は、激しい呼吸を繰り返しながら、目の前の怪物の言葉を聴いていた。全身の力が抜け、指一本動かすことすらできない無力感の中で、その言葉だけが彼の脳髄に直接書き込まれていく。彼が半生をかけて築き上げてきたヤクザとしての論理、暴力による支配、裏社会の美学――そのすべてが、結衣の放つあまりにも低次元で、しかし絶対的な「正論」の前に、まるで砂の城のように音を立てて崩壊していった。
「あなたたちは、ちゃんと税金を納めて、普通のお仕事をしたほうがいいですよ。悪いことをしても、誰も褒めてくれません」
結衣はそう締めくくると、地べたに転がっていた鬼頭の高級腕時計をそっと拾い上げ、自分のポケットにしまい込んだ。「これは、迷惑料としていただきますね」と言い残し、彼女は何事もなかったかのように路地裏の闇へと消えていった。残された鬼頭は、涙と泥にまみれたまま、ただ彼女が去った虚空を見つめ続けるしかなかった。彼の魂の最深部には、「秘密厳守」と「真面目な労働」という鉄の規律が、消えない烙印として刻まれていた。
四
翌々日の朝、銀星会の本部ビルでは、裏社会の歴史を塗り替えるほどの異常事態が発生していた。総会の席上、若頭の鬼頭誠一郎は、いつもの冷徹な表情のまま、集まった幹部たちに向かって信じられない宣言を放ったのだ。
「我が銀星会は、本日をもって一切の違法行為から手を引く。これからは『銀星建設株式会社』として、真面目に社会貢献を行い、クリーンな事業を展開する。当然、全組員は即座に更生し、納税の義務を果たすこと」
静まり返る会議室の中で、幹部たちは最初、若頭の高度な冗談か何かだと思った。しかし、鬼頭の瞳には、かつてないほどの鉄の意志と、どこか洗脳された信者のような純粋な光が宿っていた。反対の声を上げた武闘派の幹部に対し、鬼頭は「真面目に働かない者は、社会のゴミだ」と冷酷に言い放ち、超人的な手際でその場を制圧した。彼の内側に刻まれた結衣の規律は、一種の精神的ウイルスのように、組織の幹部から下道へと急速に感染し、銀星会は瞬く間に「日本一規律の正しい建設会社」へと変貌を遂げていったのである。
この凄絶な組織の「浄化」の報告を受け、高級ホテルの一室で遠隔魔術回線を監視していた久世玲二は、ついに持っていた万年筆を完全に握り潰した。破片が手のひらに刺さり、血が滲むのも気にならないほど、彼の瞳は驚愕と絶望に染まっていた。
「あの女は……裏社会を暴力で支配するのではなく、自らのあまりにも歪んだ『正論』で、世界の構造そのものを書き換えようとしているのか……? 国家の特務機関だけでなく、最大のヤクザ組織までを自らの家畜ネットワークに組み込むとは……。これでは、世界が彼女の望む『退屈な日常』のために作り変えられてしまう……!」
久世は冷たい冷や汗を流しながら、モニターに映る新宿の地図を凝視していた。彼にとって結衣は、もはや制御不可能な、世界そのものを侵食する無冠の魔王そのものだった。
一方、当の榊結衣は、新しくなった地下の店のソファで、換金した高級腕時計のお金で買い足した明治エッセルスーパーカップのバニラ味を、木のスプーンで静かに削り取っていた。口の中に広がる冷たい甘みを感じながら、彼女は深い安堵の中にいた。夜道の不審者もいなくなり、また一つ、彼女の身の丈に合ったミニマムな平穏は守られたのだ。世界がどれほど裏側で大混乱に陥ろうとも、彼女の願いはただ一つ――誰の目にも留まらず、静かにアイスを食べて明日を迎えることだけだった。
(『屍花は夜に咲く』第10話「魔王の説法、あるいは組織の浄化」 了)Noveliaとは?
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