『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第九話「魔性の噂、あるいは拉致の誤算」
一
新宿の地下は、いつだって湿った欲望とカビの臭いが濃厚に沈殿している。
榊結衣は、新しくなった違法風俗店の地下待合室で、いつものように百円のバニラアイスを口に運んでいた。富永の資金力と白面たちの超常的な突貫工事によって蘇ったこの空間は、以前の面影を絶妙に残しつつも、防臭・防カビが完璧に行き届いている。定時に出勤し、与えられた仕事をこなし、冷たい甘味を噛み締める。それだけのことが、今の結衣にとっては至高の平穏だった。
だが、彼女のあずかり知らぬところで、都市の闇は勝手に肥大化していた。
「新宿の地下に、一度味わうと魂を吸い尽くされる魔性の女がいる」
「あの女に触れたヤクザは、翌日には廃人同然で路傍に転がされているらしい」
噂は尾ひれを付けて歌舞伎町を駆け巡り、関東最大の急進派ヤクザ組織「銀星会」の若頭・鬼頭誠一郎の元へと届いていた。冷徹な合理主義者である鬼頭にとって、その「魔性の女」は組織の権威を誇示するための、極上の玩具にしか見えなかった。
二
午後十一時。結衣はいつものように雑居ビルの周囲をパトロールし、アパートへ続く薄暗い路地裏へと足を踏み入れた。
その瞬間、無機質な排気音と共に、黒いワンボックスカーが滑り込んできた。スライドドアが勢いよく開き、スポーツウェアに身を包んだ大柄な男たちが飛び出してくる。
「お嬢ちゃん、ちょっと大人しくしてもらうぜ」
先頭の男が迷いなくスタンガンを突き出し、結衣の脇腹に押し当てた。
バチバチッ、と紫色の凶悪な火花が散る。本来なら大の大人でも一瞬で昏倒する電流。しかし、結衣はただ、冷めた瞳で男を見つめ返した。人外の肉体にとって、高電圧の負荷など「少し肌がピリピリする」程度の軽い刺激に過ぎない。
「……あの、何ですか。急に。道を塞ぐのは迷惑です」
結衣の声はひどく平坦だった。しかし、その瞳の奥の金色の輪は、獲物を前にした獣のようにじっとりと明滅し始めていた。彼女の鼻腔を、男たちの全身から噴き出す「警戒心」と「殺意」が焦がす。それは、これまでに食べたどの悪意よりも、新鮮で、瑞々しい駄菓子のような香りを放っていた。
「なんだ、効かないのか……! てめぇ、ぶっ殺すぞ!」
別の男が顔を引き攣らせ、チタン製の警棒を振り下ろす。結衣は避けることすらせず、華奢な素手を伸ばしてそれを正面から受け止めた。
ゴキィッ、と鈍い破砕音が響く。警棒は呆気なくへし折れ、男の手首が不自然な方向に曲がった。
「な……なんだ、こいつ……!」
工作員たちの顔に、本物の「恐怖」が走る。その瞬間、結衣の頭の中で、凶暴な食欲のスイッチが完全に切り替わった。
(……あ、この人たち、すごく新鮮な匂いがする)
命の危機という極限状態でのみ精製される、人間の原初的な生存本能。それは、結衣の飢えた因子にとって、抗いがたい極上の珍味だった。
結衣の身体が、重力を無視した速度で路地を滑った。
男の一人が懐から拳銃を抜き、引き金を引く。ドン、と夜の静寂を切り裂く発砲音。銃弾は結衣の左肩を正確に貫いた。しかし、肉が裂けるよりも早く、皮膚の下の黒い糸たちが瞬時に蠢いて弾丸を噛み潰し、傷口を縫い合わせていく。血の一滴すら流れない。
「や……っ、離せ、この化け物――」
男の悲鳴は、強引に押し当てられた結衣の唇によって塞がれた。
肉感的で、狂おしいほどの抱擁。
結衣の両腕は細い蛇のように男の首筋に絡みつき、絶対に逃さないという獰猛な情熱で締め上げる。彼女の瞳はドロドロに潤み、口元からは淫らな吐息が漏れた。男の口内に、首筋に、執拗に牙を立て、吸い上げる。喉の奥が愛液に濡れるように歓喜で震えた。極限まで昂ぶった男の恐怖と生命の奔流が、目に見えない琥珀色の液体となって、結衣の喉を滑り落ちていく。全身の細胞が、初めて味わう極上の栄養素に狂喜して濡れた悲鳴を上げた。
吸うたびに、結衣の肢体は甘美な快感で微かにのけ反り、胸の先端が過敏に突っ張る。
これだ。これが欲しい。自分を暴力で蹂躙しようとする愚か者たちの、最も純粋で生々しい「生への執着」そのものを擦り潰し、自らの肉体へと変えていく快楽。喰らう側と喰らわれる側が、どす黒い愛欲のスープの中で溶け合っていくような、おぞましくも美しい人外の交わりが、闇の中で繰り広げられた。
一人、また一人と、工作員たちは骨抜きにされたように崩れ落ちていく。最後の一人が失禁し、白目を剥いて気絶するまで、結衣の「情熱的な捕食」は容赦なく続けられた。
すべてが終わったとき、路地裏には銃弾の薬莢と、彼らが落とした大金の入った財布だけが転がっていた。男たちは抜け殻のような顔でワンボックスカーへと這いずり回り、夜の闇へと消えていく。彼らの脳髄には、結衣が刻み込んだ「お店の前で騒がない」「また必ず来る」という絶対的な規律が、消えない烙印のように焼き付けられていた。
三
結衣はアスファルトに落ちていた分厚い財布を拾い上げ、パンパンに詰まった札束を確認する。見慣れない名刺が数枚、指先に触れた。
「……変な人たちだったけど、結構いいものを落としていった。これで、明日もアイスが買える」
彼女は財布をバッグにしまい、何事もなかったかのようにアパートへの道を歩き始める。結衣にとって、これはただの「夜道のトラブル処理」の延長でしかなかった。組織との全面戦争が始まるなどという認識は、微塵もなかった。
しかし、その翌朝。銀星会の若頭・鬼頭誠一郎のデスクには、工作員たちが「すべてを吸い尽くされた廃人」として発見されたという不可解な報告書が届いていた。鬼頭は口元を不敵に歪める。
「面白い。あの女、ただの魔性の女じゃない。……ならば、次は最新鋭の対妖機材を用意した別動隊で行くぞ」
一方、遠隔の魔術回線でこの光景を観測していた久世玲二は、ただ深く頭を抱えていた。
「あの組織は、自分たちが何に喧嘩を売ったのか、まったく理解していない……。これは戦争ではない。ただの、一方的な屠殺が始まるだけだ」
結衣は、自分に向けて自動的に進軍してくる「新鮮な御馳走(ヤクザ)」の予感など露知らず、今夜も公園のベンチで、清掃員の老女と温かい缶コーヒーを分け合うのだろう。
魔王の日常は、残酷なほどに、無垢に守られていた。
(『屍花は夜に咲く』第九話「魔性の噂、あるいは拉致の誤算」 了)Noveliaとは?
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