『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第三話「縄張りの獣、あるいは吸気の夜」
一
どれだけ大量に、そして綺麗に平らげても、胃の腑の底に潜む「人外の獣」はすぐに目を覚ます。
前回の「食事」から、わずか三日。榊結衣は再び、内臓を素手でじりじりと嬲られるような、焼け付くような飢餓感に襲われていた。
地下の待合室。結衣はパイプ椅子に深く腰掛け、割り箸の先で自分の平らな下腹部を小突いていた。こうして物理的な刺激を与えていないと、喉の奥から熱い吐息が漏れ出しそうになるからだ。
学のない結衣には、自分の身に起きた異変を調べる術がなかった。スマートフォンの検索画面に「お腹が空く 人間を食べたい」と打ち込むほどの知恵もなければ、図書館へ行って医学書を紐解く学力もない。ただ、ネットの掲示板を無目的にスクロールしては、溢れる情報の波に眩暈を覚えるだけだった。
彼女にあるのは、圧倒的な戦闘能力という「無敵」の肉体と、この地下の風俗店以外にお金を稼ぐ手段がないという、極めて生々しい「社会的弱者」としての現実だけだ。
もしも、生きるためにまた人間を丸ごと一人喰らえば、あの凄惨な隠蔽工作を繰り返さなければならない。衣服の繊維一本、血の一滴すら残さない「完璧な後片付け」は、想像するだけで気が遠くなるほどの労力を要する。何より、警察や裏社会の人間に気づかれれば、結衣がようやく手に入れた「誰の目にも留まらない、隠れ家としての日常」が完全に崩壊してしまう。
(私はただ、静かに、穏やかに息をしていたいだけなのに……)
そんなある夜、結衣は偶然、奇妙な「生存戦略」を発見することになった。
その日の最初の客は、仕事のストレスを溜め込んだ、見るからに神経質な中年男だった。男は部屋に入るなり、結衣に対して理不尽な罵詈雑言を浴びせ、ベッドの上で彼女を乱暴に組み伏せた。男の全身から、どす黒く濁った「怒り」と、ねっとりとした「醜悪な性欲」が立ち上る。
いつもなら、意識を天井へと飛ばしてやり過ごす時間。しかしその時、結衣の鼻腔が、男の身体から放たれるその「負の感情」を、異常なまでの鮮明さで感知した。それは目に見えない濃密な紫色の霧となって、部屋の空気を満たしていた。
本能に突き動かされるように、結衣がその霧を肺いっぱいに吸い込んだ瞬間――喉の奥の焼け付くような渇きが、ほんの少しだけ、しかし確実に和らいだ。
(……あ。これ、食べられる)
肉や骨を咀嚼しなくても、彼らが放つ悪意や欲望という「精神の澱」を直接吸い上げれば、飢えを凌ぐことができる。それは、結衣にとって奇跡のような発見だった。これなら誰も殺さなくていいし、後片付けの必要もない。
結衣は、自ら進んで店の「負の感情のゴミ箱」になることを決意した。客の暴言も、暴力的な情欲も、すべては自分の飢えを満たすための「滋養」に過ぎない。こうして、結衣の新しい、そして歪んだ日常が幕を開けた。
二
しかし、その「感情捕食」の副産物として、結衣の思惑とは全く異なる異常事態が発生し始めていた。
悪意や欲望を効率よく、そして限界まで絞り尽くして吸い上げるため、結衣は捕食の瞬間、それまでの無表情が嘘のように、狂おしいほどの「情熱」を客に向けるようになったのだ。
「おい……っ、お前、急にどうしちまったんだよ……!」
個室のベッドの上。先ほどまで粗暴に結衣を扱っていた客の男が、今や恐怖と、それ以上の圧倒的な快楽に顔を歪ませて喘いでいた。
結衣の細い両腕が、男の首筋に、背中に、まるで命綱にでも縋り付くような異常な力で絡みついている。いつもなら冷淡な金色の瞳は、濡れたように潤み、獲物を絶対に逃さないという獰猛な情熱を孕んで明滅していた。
お腹が空いた。もっと、あなたの汚い塊を私に頂戴――。
結衣の理性は完全に消し飛び、人外の獣としての本能が男の肉体に貪りついていた。彼女の割れた唇が、男の口元へ、そして首筋へと執拗に押し付けられる。吸血鬼のような牙を突き立てるのではない。ただ、狂おしいほどに深い口吻(こうふん)を交わし、男の肺の奥からせり上がる「淫らな吐息」を、その悪意ごと強引に吸い尽くしていくのだ。
結衣の小さな手が、男の胸元や太ももを艶めかしく愛撫する。その指先が触れるたび、皮膚の裏側を流れる男の欲望がドクドクと活性化し、結衣の肉体へと直接吸い上げられていく。結衣の肢体は、男の放つ極上の濁ったエネルギーを浴びて歓喜に身悶えし、胸の先端を硬く突っ張らせながら、男の巨体に自らの胸を何度も熱く押し付けた。
それは、喰らう側と喰らわれる側が、ドロドロの愛欲の中で溶け合っていくような、おぞましくも至高の官能。結衣は男の耳元で「はぁ、ぁ……もっと、もっと頂戴……」と、熱い吐息とともに蠱惑的な声を漏らし、全身の細胞で男の存在そのものを搾り取ろうと、情熱的に縋り付き続けた。
「ひ、あ、あぐっ……!」
男は、自分の脳髄から大切な何かが根こそぎ吸い出されていく恐怖を感じながらも、結衣の放つ圧倒的な肉感的魅力と、人外の抱擁がもたらす異次元の快感の前に、ただ白目を剥いてのけ反るしかなかった。
やがて、男の中の「悪意」と「性欲」が完全に枯渇し、抜け殻のようになると、結衣はふっと情熱の炎を消し、元の冷淡な少女へと戻る。
ベッドに倒れ込んだ男は、ひどく疲弊しているはずなのに、その表情には奇妙な恍惚感が張り付いていた。
「なんだよ、あれ……あんな凄ぇの、味わったことねえ……」
結衣にとっては、単に「効率よく餌を吸い尽くすための必死の行為」だった。しかし、暴力や支配欲を満たしにくる裏社会の男たちにとって、あの無口で冷徹な結衣が、自分の前でだけ「狂ったように情熱的に縋り付き、極上の愛撫と口吻を求めてくる」というギャップは、脳が腐るほどの最高のご褒美に他ならなかった。
「おい、結衣。お前、最近なんかやったか?」
数日後、店長が不機嫌そうに、しかしどこか感心したように結衣に声をかけてきた。
「お前の指名、今週だけで倍以上になってるぞ。客の連中が口を揃えて『あの子の執着はヤバい、一度味わったら忘れられない』って言いやがる。まあ、店が儲かるのは良いことだけどよ……」
結衣は無表情のまま、「そうですか」とだけ答えた。
何故か、人気が出てきてしまったらしい。ただ生きるために、必死に餌を求めていただけなのに。目立ちたくないという彼女の願いとは裏腹に、地下の店での結衣の存在感は、確実に大きくなりつつあるようだった。
三
感情捕食によって、ひとまず「人間を殺さずに生き延びる」術を得た結衣だったが、新たな問題が彼女の平穏を脅かし始めていた。
彼女が人間を喰らうのをやめ、他者の悪意を吸うだけで満足していると、街の闇に潜む下級の妖(あやかし)たちの間で、奇妙な誤解が生まれ始めたのだ。
結衣の放つ、史上初の完全融合体としての圧倒的な捕食者のオーラが、彼女の「不殺」の選択によって、微かに優しく凪いでしまった。知性の低い異形たちは、結衣を「力は強いが、牙を抜かれた、御しやすい存在」だと見くびり、彼女の豊かな縄張りである「地下の店」の周辺へと引き寄せられ始めたのだ。
「ギ、ギギ……ッ」
ある日の出勤時。雑居ビルの薄暗い裏口の影に、衣服の隙間から無数の粘膜質の触手を覗かせた、どす黒い泥のような異形が待ち伏せていた。それは結衣の姿を認めるなり、縄張りを奪おうと、鋭い爪を剥き出しにして飛びかかってくる。
結衣の金色の瞳が、極めて冷淡に細められた。
「……迷惑」
彼女は基本的に、無敵だ。
飛びかかってきた妖の細い首を、結衣は目にも留まらぬ速度で伸ばした素手でがっしりと掴んだ。そのまま、コンクリートの壁へと容赦なく叩きつける。
ドン、と鈍い音が響き、異形の肉体が不自然に変形する。結衣がそのまま指先に力を込めると、ミシミシと骨の軋む音がして、妖は一瞬で動かなくなった。彼女の皮膚の下から無数の黒い糸が染み出し、異形の残骸をジュウ、と音を立てて吸い尽くしていく。ものの数秒で、路地裏には何事もなかったかのように静寂が戻った。
傷一つない自分の手のひらを見つめながら、結衣は深く、ため息をついた。
身体は無傷。しかし、心にあるのは勝利の昂ぶりではなく、ひどく冷めた「面倒くさい」という感情だった。
「店の中にまで、あんな気持ち悪いモノに来られたら困る」
店長に不審がられるのも嫌だし、他の客が怯えて店の営業が成り立たなくなれば、自分が小銭を稼ぐ唯一の手段(居場所)がなくなってしまう。
そこで、学のない結衣が導き出した、極めてシンプルで物理的な解決策が、「出勤前と退勤後のパトロール」だった。
結衣は、店に入る前と、仕事を終えてビルを出た直後、必ず雑居ビルの周り、および裏路地をぐるりと「一周」歩くようになった。
(来るなら、その時にね。まとめて片付けるから)
無表情のまま、夜の冷気の中に佇み、金色の瞳を妖しく明滅させながら縄張りを監視する結衣。その姿は、お気に入りの寝床を汚されたくない、冷徹で美しい野生の獣そのものだった。
四
結衣の「店の周りを一周する」という奇妙なルーティンは、すぐに絶大な効果を発揮した。
彼女のパトロール中に襲いかかってくる、あるいは偵察に来た妖たちは、結衣の圧倒的な暴力によって、出勤前の数分、あるいは退勤後の数分の間に、誰の目にも留まらず「塵」にされていった。
結衣にとっては、ただの「害虫駆除」であり、お気に入りの静かな空間を守るための、合理的で淡々とした家事のような作業に過ぎない。
しかし、その「異常な痕跡」――店の周りだけ、定期的に妖の気配が不自然に『完全消失』しているという怪現象を、裏社会の術師・久世玲二が見逃すはずがなかった。
深夜、雑居ビルの向かいにある雑居ビルの屋上から、オペラグラスを覗き込んでいた久世は、驚愕にその唇を震わせていた。
「被験体No.72……榊結衣。彼女は一体、あの場所で何をしようとしている?」
久世の目には、結衣が強大な力を背景に、独自の「結界」を張り、裏社会の勢力図を塗り替えるための「独自の軍勢」を築こうとしているのではないかと、完全に深読みしていた。出勤前後のあのパトロールは、周囲の妖をあえて引き寄せ、選別し、自らの配下に下すための儀式に違いない――久世の脳内で、結衣は恐るべき冷徹な魔王として祭り上げられ、警戒レベルは最大にまで引き上げられていた。
一方の結衣は、そんな大層な企みなど微塵も抱いていなかった。彼女の悩みは、もっと切実で、地味なものだ。
仕事を終え、バッグの中に金属製の腕時計や財布(捕食した客が置いていった、あるいは置いていかざるを得なかったもの)が溜まっていくのを見つめながら、結衣はぽつりと呟いた。
「妖たちの悪い気を吸ったり、襲ってきた不届き者を処理したりして、なんとかやり過ごせているけれど……やっぱり、気持ち悪くなるくらい食べても、またそのうちお腹が空く」
他人の悪意を吸うことで、あの狂おしい飢餓を「一時的に」誤魔化すことはできる。だが、どれだけ吸っても、内臓の奥の燻るような渇きが、完全に消えることはないのだ。それは、この先もずっと、定期的に人間の歪んだ情欲に縋り付き、口吻を交わし、エネルギーを搾り取り続けなければ、自分が維持できないという残酷な現実の証明だった。
地下の店で働き続けるしかない貧しさと、自分の頭の悪さ、そして終わりなき飢餓のループ。
私はただ、静かに、誰の邪魔もせず生きていたいだけなのに――。
結衣の変わらぬ願いを置き去りにしたまま、彼女の放つ「情熱的な吸気」に魅了された男たちと、彼女が張った「一周の露払い」に怯える異形たちによって、その地下の店は、人と異形が交錯する最も熱く、最も危険な最前線へと、じわじわと変貌を遂げていく。
(『屍花は夜に咲く』・第三話 了)Noveliaとは?
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