『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第十四話「豊穣の供物、あるいは無人販売所の怪」
一
「今日のご飯は自分で調達してきなさい。ただし絶対に人は殺さず、後片付けの出ないようにすること。わかりましたか。わからないなら、明日からの分のバニラアイスは全部私の胃袋に入ります」
平坦で、まるで小学校の担任が朝の会で読み上げる宿題の連絡のような口調だった。榊結衣は、部屋着を着崩すこともなく、炬燵に下半身を滑り込ませたまま、木のスプーンでスーパーカップの表面を規則正しく削り取っている。その金色の瞳の奥には、世界を統べる魔王の威光など欠片もなく、ただ「今日のアイスを平穏に消化する」というミニマムな事務手続きだけが淡々と流れていた。
その結衣によってアパートの鉄扉の外へと文字通りテキトーに放り出された那留は、新宿の薄暗い裏通りをあてもなく彷徨っていた。
「なによあいつ……! 魔王のくせにバニラアイスの減り方に細かすぎるのよ! おまけに後片付けの出ないようにしろだなんて、人外ライフハックの押し売りもいいところだわ」
白髪を夜風に揺らしながら、那留はむくれた顔で自らの細い指先を見つめる。爪の隙間から時折、飢餓感に呼応するように白い糸がカサカサと覗いては消えた。内臓の奥は、相変わらず焼け付くように熱い。あの圧倒的な格の違いを見せつけられて以来、結衣への恐怖と羨望で脳を焼かれ、無給の家政婦として雑巾がけに甘んじてはいるものの、本能としての捕食欲が消えたわけではなかった。
新宿の夜は、人間たちの放つ様々な「澱」で満ちている。排気ガスと安物の香水、そして他者への猜疑心や情欲が混ざり合った独特の匂い。結衣が働く違法風俗店に行けば、銀星会が用意した「安全な家畜」がシステム的に供給されるが、今日ばかりは自力で獲物を確保しなければアイスの権利を剥奪される。
「とにかく、早くあいつが納得するような最高のご飯を見つけて、あのアパートの六畳一間に戻らないと……」
那留が呟きながら、ネオンの光も届かない、湿ったゴミ箱の並ぶ路地裏へと足を踏み入れたときだった。
「おいおい、見ろよ。こんな時間に白髪の迷子ちゃんか?」
「お嬢ちゃん、どこの店の子? それとも家出? いいものあげるからさ、ちょっとこっち来いよ」
不意に、薄暗い影から三人の男たちが現れた。脂ぎった顔に下卑た笑みを浮かべ、アルコールの臭いをプンプンと漂わせている。裏社会の末端で小銭を稼いでいるような、典型的な不届き者たちの集団だった。彼らの目には、那留がただの線の細い、無防備な少女にしか見えていないようだった。
那留は足を止め、ゆっくりと男たちを振り返った。その金色の瞳が、夜の闇の中で歪にきらめく。
「……変な連中。私に話しかけてるの?」
「他に誰がいるんだよ。生意気な口叩いてっと、痛い目見るぞ――」
中央の男が那留の細い肩を掴もうと手を伸ばした瞬間、世界の法則がひっくり返った。
――ガ、チ、と肉と骨が異常な硬度で衝突する音が響く。
「ひ……っ!?」
男が悲鳴を上げたのは、自分の手首が、人間の少女のものとは思えない膂力によって完全に「固定」されたからだった。那留の細い五指が、男の手首の骨を磁器のように容易くみしみしと軋ませていく。
「痛い目を見るのは、人間のほうよ」
那留の口元が、残酷な三日月型に歪んだ。彼女の皮膚の下から、無数の「白い糸」が爆発的にうねりを上げて噴出する。それは捕食の始まりだった。那留は男の胸ぐらを、まるで紙切れでも手折るかのような無造作さで掴み、自身の身体へと引き寄せた。
「あ、が……あ、あああ……っ!」
男の顔面が、一瞬にして想定外の怪異への恐怖で真っ白に染まる。隣にいた二人の仲間も、腰を抜かしてコンクリートの床にしがみついたまま、声も出せずにガタガタと震え出した。暴力という概念すら超越した、本物の「怪物」を前にした人間の、圧倒的な無力感が路地裏を支配する。那留は恐怖に歪む男の顔を覗き込み、その濡れた唇を男のうなじへと押し当てた。
「ん……、あ、う……っ」
少女の喉から、くぐもった、しかし淫らな吐息が漏れる。彼女の口腔から覗く鋭い牙が、男の肉を飛び越え、霊的な髄へと直接刺し貫いた。その瞬間、男の脳内から溢れ出した「凄絶な死への恐怖」と「生き延びたいという強欲」の奔流が、ドロドロに溶けた熱い蜜となって那留の乾いた喉を滑り落ちていく。
「はぁ……っ、ん、んう……っ! 美味しい……っ、やっぱり、人間の剥き出しの恐怖は最高ね……ッ!」
那留の白い肢体が、快楽のあまり弓なりに大きくのけ反る。白髪は男の冷や汗と自らの淫らな唾液で額に張り付き、金色の瞳は完全に焦点の定まらない快楽の深みへと融解していた。皮膚の下の白い糸が狂おしく波打ち、男の精神のエネルギーを根こそぎ貪り尽くそうと吸引の速度を上げていく。
しかし、その絶頂の最中、那留の脳裏に結衣の冷徹な正論がよぎった。
『一度に全部食べたら死体が残ります。死体を綺麗に消すのは本当に面倒なんです』
「くっ……、あいつの顔がチラついて、思い切り吸えないじゃない……!」
那留は忌々しげに舌を打ち、完全に失神して泥のようになった男をゴミ箱の陰へ放り投げた。残りの二人からも適度に恐怖の澱を啜り上げ、腰を抜かしたまま動けない状態にして放置する。これなら死ぬことはないし、後片付けの必要もない。
ふぅ、と淫らな余韻の残る息を吐き出した那留は、その場から立ち去ろうとして、ふと路地裏の最奥に奇妙な「気配」を感じ取った。
壁の窪みに、古びたコインロッカーがぽつんと佇んでいる。周囲には人間の怨念が何年も蓄積したような、重苦しい瘴気が澱んでいた。裏社会の人間たちが盗品や違法薬物を非対面で取引するために使う、新宿の「闇の無人販売所」であり、同時に霊的な心霊スポットでもあった。
那留はそのロッカーの隙間から、信じられないほど「美味しそうな気配」が漏れ出ているのに気づき、目を輝かせた。
「何これ……? 中に、すっごく濃厚で煮詰まった人間の悪意が詰まってる……! まるでお店(風俗店)の特等席においてあるような、最高のご飯じゃない!」
二
那留はロッカーの前に進み出た。錆びついた扉の隙間からは、ドロリとした怨念の霧が視覚化できるほど濃密に溢れ出ている。
「これならあいつだって文句は言わないはずわ。でも……」
那留は小さな頭をひねった。彼女は結衣との共同生活の中で、人間の社会規範というものを中途半端に学習していた。
『人間のお店にあるものを貰うときは、ちゃんとお金を払わなければいけません。そうしないと泥棒になって、警察という面倒な組織が来ます。
結衣がいつも平坦な口調で言っていた言葉が脳裏を再生される。
「お金を払えば、置いてあるものを貰っていい……。なるほどね、お買い物ってわけね」
しかし、世間知らずの那留にとって、価値のある「お金」の定義は人間とは根本的に異なっていた。彼女が思い至ったのは、自身の肉体から生成される最高の価値物質だった。
「ふん、人間にしてみれば、国家の発行した紙切れなんかより、私の力の一部の方が何千倍も価値があるはずよ」
那留は自身の細い手首の皮膚を、鋭い爪で自傷するように薄く切り裂いた。痛みなど感じていないような涼しい顔のまま、創口からジワリと半透明の液体を分泌させる。それは彼女の皮膚の下の白い糸が超高濃度に凝縮され、結晶化した「異血の結晶(呪力塊)」だった。
コロン、と美しくも禍々しい、淡い金色に輝く結晶が那留の手のひらに転がり出る。それは人間の精神を一瞬で発狂させ、周囲の霊的磁場を完全に歪めてしまうほどの、圧倒的な質量を持った人外の魔力の塊だった。
那留はロッカーの料金投入口に、その結晶を無理やり押し込んだ。ガギギ、と金属の歯車が異常な呪力によって悲鳴を上げるが、那留は気にすることなく、鍵の開いた扉を勢いよく開け放つ。
「いただきまーす!」
ロッカーの内部に保管されていたのは、悪徳ブローカーたちが隠匿していた、他人の呪詛がたっぷりと染み込んだ曰く付きの骨董品や、人間の破滅の感情を吸い尽くした違法な薬物の数々だった。そこから立ち上る極上の怨念の霧を、那留は口腔を大きく開いて、胸いっぱいに吸い込んだ。
「んんっ……! あぁ、頭が痺れるくらい濃いわ……! 最高のお土産ね!」
那留は満足感に浸りながら、空になったロッカーの扉を閉め、意気揚々とアパートへの帰路についた。自分がロッカーに残してきた「代金」が、これからどれほどの惨劇を引き起こすかなど、微塵も想像することなく。
那留が去った数分後。闇の無人販売所に残された「異血の結晶」は、ロッカーの鉄の筐体を内側からドロドロに溶かし始めていた。
結晶から放たれる半透明の霊気が、不可視の波動となって新宿の街全体へと爆発的に拡散していく。
それは、闇に潜むあらゆる下級妖魔や怪異たちにとって、理性を失わせるほどの「極上の香気」だった。
「オオオオオ……」
「ギギ、ギギギギギ!」
マンホールの底から、雑居ビルの隙間から、あるいは深夜の歌舞伎町の路地裏から、数何百匹もの下級妖魔たちが、目を血走らせて一斉に這い出してきた。結晶の放つ異常な霊気に当てられた怪異たちは完全に狂暴化し、ただその光を目指して新宿の中心部へと押し寄せ始める。
街の霊的磁場は一瞬にして臨界点を突破した。空気は物理的にねじれ、街灯のガラスが次々と破裂し、夜空は禍々しい紫色の雲に覆われていく。霊感のある人間たちはその場で泡を吹いて倒れ、何も見えない一般の通行人たちも、突如として街を襲った「得体の知れない悪寒と狂気」にパニックを起こし、絶叫しながら逃げ惑い始めた。
それは、一人の少女の世間知らずが引き起こした、霊的パンデミック寸前の大騒ぎだった。
三
一方、六畳一間の安アパート。
結衣は、テレビから流れる深夜のニュース番組をぼんやりと眺めていた。アナウンサーが『現在、新宿区の一部地域で原因不明の集団ヒステリーおよび大規模な停電が発生しており――』と緊張した声で伝えている。
アパートの窓の外からは、カサカサ、ギギギ、という不快な這行音が近付いてくるのが聞こえた。那留が持ち込んだ結晶の香りに引き寄せられた下級妖魔たちが、ついに結衣たちの住むアパートの周囲にまで群がり始めていたのだ。
「……うるさいです」
結衣はテレビのリモコンを押し、画面を消した。彼女の瞳の奥の金色の輪が、冷たく凪ぐ。
せっかくの静かな深夜の時間が、気持ちの悪い虫のような怪異たちの羽音によって汚されている。何より、この騒ぎのせいで、近くのコンビニへ明日分のスーパーカップを買いに行くルートが完全に塞がれてしまっていた。
そのとき、バタンと建付けの悪い鉄扉が勢いよく開いた。
「ただいまー! お姉様、凄いご飯を見つけてきたわよ!」
両手に抱きしめた骨董品から怨念を滴らせながら、那留が満面の笑みで帰宅した。しかし、室内に漂う空気の圧倒的な「冷たさ」を察知した瞬間、那留の笑顔が凍りついた。
炬燵からゆっくりと這い出してきた結衣の皮膚の下で、数十万本の「黒い糸」が、見たこともないほどの密度で蠢いている。
「あ……、お、お姉様……?」
「那留さん」
結衣の声には、怒りすら含まれていなかった。ただ、絶対的な質量の移動としての暴力が、そこにあった。
「ひっ――」
那留が短い悲鳴を上げるより早く、結衣の手のひらが那留の顔面を正面から覆った。避けることも、防ぐこともできない、天災そのものの速度。結衣はそのまま、那留の小さな頭部を掴んで、容赦なく炬燵の天板へと叩きつけた。ドンッ!! と凄まじい衝撃音が六畳間に響き渡る。頑強な人外の頭蓋骨と、安物の炬燵の天板が軋みを上げ、那留の視界が一瞬で火花を散らした。
結衣にとって、外で起きている霊的パニックの細かい経緯など知る由もなかった。テレビのニュースが原因不明の騒動を報じ、アパートの周りに気持ちの悪い下級妖魔が群がり始めたこと。そしてその直後に、那留が何やら禍々しい戦利品を抱えて帰ってきたこと。結衣の事務的な思考回路は、その二つの事象をただ機械的に結びつけ、「目の前の居候が何か余計なやらかしをした」と結論づけたに過ぎない。
「……質問です」
結衣は那留の顔を天板に固定したまま、微塵も感情の乗らないドライな声で詰問を始めた。
「外で気持ちの悪い虫たちが大騒ぎしています。そしてあなたが手に持っているのは、とても治安の悪い匂いがするゴミです。あなたが何をして、なぜこんなことになっているのか、私が百文字以内で理解できるように説明してください」
「が、はっ……!? だ、だから……お買い物よ! 街のロッカーにすっごく美味しい怨念があったから、ちゃんとお金を払って貰ってきたのよ!」
「お金、とは何ですか。あなたにはお小遣いを渡していませんし、財布も持っていない筈ですが」
天板に押し付けられた那留の頬がみしりと音を立てる。結衣の冷徹な視線に射すくめられ、那留は恐怖に震えながら白状せざるを得なかった。
「う、うあ……っ! 私の体液を結晶にした石よ! 人間にしてみれば国が作った紙切れなんかより、私の魔力の塊の方がずっと価値があるでしょ!? それを料金口に押し込んできたのよ!」
那留の口から飛び出したあまりにも世間知らずな供述を聞き、結衣は心底面倒くさそうに、小さくため息をついた。
「なるほど、理解しました。つまりお説教です」
四
結衣は平坦な、道徳の教科書を読み上げるような口調のまま、容赦のない正論を那留の脳髄へ叩き込み始める。
「お買い物は、国が認めたお金(日本円)でしなければいけません。あなたの体液で作ったネバネバした石を置いてくるのは、人間の社会では泥棒、あるいはテロ行為と言います。とても良くないことだと思います」
「だ、だって……価値はあるし……っ!」
「価値の問題ではありません。規則の問題です」
結衣の手のひらに、さらに力が込められる。那留の皮膚の下の白い糸が、結衣の黒い糸の気配を間近で察知し、恐怖のあまり完全に萎縮して消え去っていく。
「あなたのせいで、外に気持ちの悪い虫がたくさん集まっています。私はこれからコンビニにアイスを買いに行かなければいけないのに、非常に邪魔です。後片付けの手間を増やす居候は、アパートに必要ありません」
「ご、ごめんなさい……っ! 私が悪かったわ、私が全部片付けるから……っ! だからその黒いのを引っ込めて……っ!」
那留の目から、恐怖のあまり熱い涙が溢れ、天板を濡らす。魔王の「規律」が、彼女の生存本能の最深部に、更なる楔となって打ち込まれた瞬間だった。
「……わかりました。では、三分で外の虫をすべて駆除し、ロッカーの石を回収してきなさい。一秒でも遅れたら、あなたをアイスの代わりに食べます」
結衣がそっと手を離すと、那留は這いずるようにして立ち上がり、涙目を拭いながらエプロンを翻して飛び出していった。
数分後、新宿の街を埋め尽くしていた妖魔たちは、泣き喚きながら暴れ回る白髪の少女によって文字通り一匹残らず「蹂躙」され、街のパニックは急速に収束へと向かうことになる。
アパートに残された結衣は、静かになった室内で再びテレビをつけた。外の騒ぎなど、最初からなかったかのように凪いだ六畳一間。彼女は小さく息を吐き、財布から百円玉を数枚取り出すと、自身の求めるミニマムな平穏――冷たいバニラアイスを求めて、ゆっくりと夜の街へ歩き出すのだった。
(第14話「豊穣の供物、あるいは無人販売所の怪」了)Noveliaとは?
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