『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第十二話「組織の飼い主、あるいは魔王の牧場経営」
一
関東最大の広域指定暴力団「銀星会」。その頂点に君臨する会長・銀星鬼三(ぎんせいきぞう)は、齢七十を超えてなお、枯れることのない眼光と冷徹な判断力で裏社会を支配してきた男である。
しかし今、彼の背中は、高級スーツの下で冷たい汗に濡れていた。
場所は、新宿の雑居ビル地下。カビと芳香剤の匂いが微かに漂う、違法風俗店の待合室である。銀星会が誇る最強の私兵集団「黒龍隊」が、たった一人の少女の前に全滅したという報告を受けたのは、わずか二日前のことだ。物理的な破壊跡は爆発の残骸のみ。隊員たちは傷一つなく、ただ「精神の芯」だけを完全に抜き取られた廃人と化していた。
長年の修羅場で培われた銀星の直感が、警鐘を鳴らしていた。これは、抗争ではない。人間が、天災や神仏に戦いを挑むのが愚かであるのと同じだ。勝てない相手には、這いつくばってでも取り入る。それが、組織を延命させる唯一の道であった。
パイプ椅子に腰掛けた銀星の正面には、安物のソファに深く座り、木のスプーンでバニラアイスを掬っている十七歳の少女――榊結衣がいた。
銀星は深く頭を下げ、しわがれた、しかしよく通る声で口を開いた。
「……突然の訪問、お許しいただきたい。私は、あなたに喧嘩を売りに来たわけではありません。愚かな部下たちが無礼を働いたこと、組織の長として深くお詫び申し上げます」
結衣はスプーンを口に咥えたまま、全く感情の読めない無機質な瞳で銀星を見た。
「……誰ですか」
「銀星と申します。単刀直入に申し上げましょう。どうか、我々の組織をお見逃しいただきたい。その代わり、銀星会の持つ金、権力、不動産、裏のネットワーク……あなたの望むものを、何でも差し出します。あなたに絶対の忠誠を誓いましょう」
裏社会の帝王による、事実上の全面降伏。この言葉一つで、数百億の金と数千人の暴力が結衣の足元に平伏したことを意味する。
しかし、結衣の反応はひどく淡白だった。彼女は「何でも」という言葉に一瞬ポカンとし、小さく首をかしげた。
「……何でも?」
「はい。何なりと」
結衣は少しだけ視線を宙に泳がせ、真剣に考え込んだ後、思いついたように言った。
「じゃあ、このビルの斜め向かいにある、コンビニエンスストアを閉店させないでほしいです。あそこが閉まると、帰りに夜食のアイスが買えなくなるので、すごく困ります」
静寂が、待合室を満たした。
銀星は、自分の耳を疑った。数百億の利権と命のやり取りをしている最中に、提示された要求が「深夜のコンビニの存続」だったからだ。あまりにも低次元で、あまりにも日常的すぎる。しかし、銀星はすぐさま老獪な笑みを張り付けた。相手が魔王であろうと、要求が明確であるなら取引は成立する。
「……お安い御用だ。あの店舗一帯の土地は、明日中に我々のフロント企業で買い上げ、永久に営業を保証いたしましょう」
「本当ですか。良かったです。ありがとうございます」
結衣は嬉しそうにでもなく、ただ平坦にそう言うと、再びバニラアイスに意識を戻した。彼女にとって、目の前の老人が日本の裏社会のトップであることなど、どうでもよかった。アイスの安定供給が守られた。それだけで、この交渉は彼女にとって大成功であった。
二
こうして、関東最大の暴力団「銀星会」は、榊結衣という一人の少女の「間接的な庇護下」――より正確に言えば「牧場」と化した。
銀星会長は、裏社会の魔術師である久世玲二と極秘裏に接触し、「魔王の機嫌を損ねないための飼育マニュアル」を共同で作成した。その最重要項目は、「定期的に新鮮な負の感情(餌)を供給し、彼女の飢餓を防ぐこと」であった。
銀星会にとって、これは好都合でもあった。組織内で横領を働いた者、掟を破った不良構成員、あるいは敵対組織の面倒なメンバーを、結衣の地下室へ「生贄」として送り込めばいいのだ。死体は出ず、ただ大人しい廃人となって帰ってくるため、警察の介入も防げる究極の処分システムが完成したのである。
その夜、結衣の元へ「最初の供物」が連れてこられた。
男の名は、健太。銀星会の末端組織でシノギをちょろまかし、制裁としてこの地下室に放り込まれた若いチンピラだった。健太は、自分がなぜこんなカビ臭い地下室に連れてこられたのか全く理解していなかった。「組長から直々の説教」と脅されていたものの、目の前にいるのは、華奢で無表情な少女が一人きり。
「あぁ? なんだお前。俺を舐めてんのか? ここに俺を呼び出したジジイはどこにいんだよ!」
健太は苛立ち紛れに、結衣に向かって怒鳴り散らした。凄みを効かせ、今にも殴りかからんばかりに肩を怒らせる。しかし、結衣はソファから立ち上がることもなく、ただ冷たい瞳で男を見上げていた。
「……うるさいです。お店の中で、大声を出さないでください」
「あぁ!? てめぇ、誰に向かって口きいて――」
健太が結衣の髪を掴もうと右手を振り上げた、その瞬間だった。
三
結衣の瞳の奥で、細い金色の円輪が、じっとりと濡れたような光を放った。
彼女の纏う空気が、それまでの無機質なものから、ねっとりとした甘い毒気を孕んだ、おぞましくも蠱惑的な色香へと劇的に変貌する。
男の全身から立ち上る、粗暴な敵意、恐怖を隠すための浅薄な虚勢、そして若く脂ぎった生命力。それらは、飢餓を飼い慣らしている結衣にとって、咽せ返るほどに芳醇で、食欲を直撃する極上のスパイスであった。
(……あぁ。すごく、新鮮な匂いがする)
健太の振り下ろした腕は、結衣の白磁のように滑らかな細い指によって、ふわりと受け止められた。
まったく力みを感じさせない、まるで恋人の手を取るような優しい所作。しかし次の瞬間、健太の視界は天地が逆転し、背中に安物のソファのバネの感触が叩きつけられていた。
「なっ……!?」
何が起きたのか理解する間もなく、健太の腹部の上に、結衣が跨るようにして乗り上げていた。
十七歳の少女の、羽のように軽い柔らかな肢体。しかし、その細い両腕に肩を押さえつけられた健太は、まるで数トンのコンクリートに圧し潰されたかのように、指一本、ピクリとも動かすことができなかった。
「お、おい……ふざけんな、離せ……ッ!」
健太の口から漏れたのは、怒声ではなく、明らかな恐怖に引き攣った哀願だった。
結衣は無表情のまま、ゆっくりと上半身を沈め、健太の顔へと自らの顔を近づけていく。彼女の吐息が、健太の頬を甘く撫でた。それは、熱を帯び、どこか果実が腐りかけたような、人を狂わせる淫靡な香りを孕んでいた。
「……暴れないで。少しだけ、もらうから」
結衣の唇が、ゆっくりと弧を描いた。それは紛れもなく、極上の馳走を前にした女の、濡れた情欲の微笑みであった。
結衣の顔が健太の首筋へと埋められ、その艶やかな唇が、脈打つ頸動脈にぴたりと吸い付く。
「ひっ……ぁ……!」
健太の喉から、声にならない悲鳴が漏れた。
肉を噛み千切られる痛みはない。しかし、結衣の柔らかい唇が皮膚に触れ、その内側にある「牙」が目に見えない精神の膜を貫いた瞬間、健太の魂の奥底から、あらゆる感情が濁流となって吸い上げられ始めた。
結衣の舌が、汗ばんだ健太の肌を執拗に這い回る。男の恐怖から滲み出る脂と冷や汗を、極上のソースを舐めとるように、ちろり、ちろりと絡めとっていく。
チュゥゥ……、チュパァ……ッ。
静かな待合室に、およそ似つかわしくない、卑猥で水っぽい吸着音が響き渡る。
結衣が深々と息を吸い込むたび、健太の「生への執着」や「敵意」が、ドロドロとした黄金色の蜜となって彼女の喉の奥へと注ぎ込まれていった。
「あぁ……っ、んっ……」
極上の栄養を啜り上げ、結衣の喉が艶かしく鳴る。彼女の体は甘美な快感に身震いし、衣服の下の双丘が健太の胸板に押し付けられ、形を変えて擦れ合う。獲物を組み敷く細い太腿は内側にキュッと力を込め、まるで交合の絶頂を迎えているかのように、彼女のつま先がぴんと張った。
一方で、喰われる側である健太の脳髄は、すでに恐怖の限界を通り越し、異常な法悦へと溶け落ちていた。自我を根こそぎ奪われる喪失感が、いつしか強烈な性的快感へと反転していく。彼の口元からはだらしなく涎が垂れ、白目を剥いた顔には、この世のすべての苦痛から解放されたような、阿呆らしいほど幸福な笑みが浮かんでいた。
「あ……ぁぁ……、あぁ……ッ」
健太の体がビクン、ビクンと大きく跳ね、やがて糸の切れた操り人形のように、完全に力が抜け落ちた。結衣はゆっくりと唇を離し、赤く火照った頬で、短く甘い吐息を吐き出した。
舌なめずりをして、唇の端に光る唾液を拭い取る。
「……ごちそうさまでした。お店の人が困るから、もう、悪いことはしないでね」
廃人となった健太の耳元でそう囁くと、結衣は何事もなかったかのように立ち上がり、衣服の乱れを整えた。
健太の心には、結衣に対する「絶対の服従」と「恐怖」という消えない焼き印が、永遠の快楽と共に刻み込まれていた。
結衣自身は、自分がヤクザの組織を飼い慣らしているなどという自覚は一切ない。ただ、「最近、なんだかお店にご飯を持ってきてくれる良い人が増えたな」と、ぼんやりと思っているだけであった。
四
銀星会という強大な「牧羊犬」を手に入れた結衣の日常は、かつてないほどの安定期を迎えていた。
アイスは毎日欠かさず買えるし、地下の店は銀星会の息のかかったフロント企業によって完璧に守られている。結衣の仕事は、定時に出勤し、時折運ばれてくる「悪い人」からご飯をもらうだけ。面倒なトラブルはすべてヤクザたちが勝手に処理してくれるため、彼女はただ静かに息を潜めて生きるという、念願の平穏を手に入れていた。
その日の深夜も、結衣はいつもの児童公園のベンチで、一人静かにバニラアイスを食べていた。
秋の気配が混じり始めた夜風が心地よい。少し前まで、清掃員の老女と一緒に温かいコーヒーを飲みながら、「最近は平和でいいねえ」などと世間話をしたばかりだった。老女が仕事を終えて帰った後の公園は、静寂に包まれている。
(……明日も、スーパーでお肉が半額だといいな)
結衣がそんな、身の丈に合ったささやかな願いを思い浮かべながら、最後のアイスを木のスプーンで掬い上げようとした、その時だった。
ふわり、と。
公園の空気が、急激に冷え込んだ。
それは、夜風の冷たさではない。生物が本能的に死を予感したときに感じる、絶対的な「零度」の気配だった。
結衣の手が止まる。彼女の皮膚の下で眠っていた無数の黒い糸たちが、かつてないほどの警戒心を見せて、肌の裏側でザワザワと蠢き始めた。
結衣がゆっくりと顔を上げると、街灯の鈍いオレンジ色の光の下に、一つの影が立っていた。
結衣と同じか、少し年下に見える少女だった。
しかし、その容姿は異様であった。色素の抜け落ちた真っ白な髪が夜風に揺れ、暗がりの中でもはっきりとわかる、残酷なほど美しい「金色の瞳」が、結衣を真っ直ぐに見据えている。
結衣と同じ、人間の枠を外れた人外の因子。しかし、結衣のそれが「静かなる泥沼」であるならば、目の前の少女が放つ気配は、すべてを切り裂く「剥き出しの刃」そのものであった。
少女は、結衣が手に持っている百円のアイスのカップを一瞥すると、小馬鹿にしたように鼻で笑った。
「……へえ。あなたが、噂の『成功例(オリジナル)』の子?」
少女の口調には、明確な敵意と、底知れぬ好奇心が入り混じっていた。
結衣はスプーンを口から離し、無表情のまま少女を見つめ返した。
完璧に整備されたはずの魔王の牧場に、結衣にとって初めての、そして最悪の「同族」が、その足を踏み入れた瞬間であった。
(『屍花は夜に咲く』第十二話「組織の飼い主、あるいは魔王の牧場経営」 了)
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