『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第二話「寄生する日常、あるいは夜の器」
一
世界の壊れ方に比べれば、自分自身の肉体に起きた変調など、些細なノイズに過ぎなかった。
榊結衣は、いつもと変わらない錆びついた朝を迎えていた。地下の待合室に据え置かれた安物のソファに深く腰掛け、スマートフォンの画面を無目的にスクロールする。午前十時。換気扇の鈍い回転音が、淀んだ空気とともに微かな頭痛を運んでくる。日常は、何一つとしてその形を変えていなかった。店長の粗暴な怒鳴り声も、石鹸とカビが混ざり合った独特の悪臭も、すべてはあの夜以前と同じタイムラインの上に並んでいる。
けれど、結衣の視界だけは、世界の裏側に滲み出した「毒」を捉え続けていた。
数時間前、店へ向かうために通った寂れた商店街の路地裏。自動販売機の薄暗い隙間に、それはいた。全体としては中年男性の輪郭をしているが、衣服の隙間から覗く肌は、まるで死後数週間が経過した泥のようにどす黒く変色し、絶え間なく波打っていた。顔の中央には、皮膚の裂け目から無数の細い粘膜質の触手が覗き、じっと結衣の動向を観察していた。人間の皮をいい加減に被り直しただけの、人ならざるモノ――古来より妖、あるいは外法の眷属と呼ばれる存在が、現代の都市の影に当たり前のように息づいている。
結衣はただ、視線をそらし、何事もなかったかのように通り過ぎた。驚きも、恐怖もなかった。彼女の精神は、長年のネグレクトと暴力によって、あらゆる異常を「そういうもの」として受け流すために精巧にひび割れていた。世界の不条理が今更ひとつやふたつ増えたところで、彼女がただ穏やかに息をしていたいという、生存の最低ラインの願いに影響はないはずだった。
肉体の変化も同様だった。昨夜、粗暴な客に執拗に髪を引っ張られ、壁に頭を打ち付けられた。確かに骨の軋む音が響き、頭皮からは生々しい鮮血が溢れたはずだった。だが、客がシャワールームへ入ったわずか数分の間に、流れた血は結衣の肌に吸い込まれるように消え、傷口は細胞レベルで綺麗に噛み合って塞がってしまった。今では、痛みも、痣すらも残っていない。まるで、自分の肉体そのものが、どんな傷も拒絶する冷徹な精密機械に生まれ変わってしまったかのように。
「まあ……こういうこともある」
結衣は小さく呟き、唇を噛んだ。痛まない身体は、この場所で生き延びるためにはむしろ好都合だった。異形が見える目も、彼らが結衣を恐れて自ずと道を譲る以上、実害はない。彼女は、その驚異的な変貌を、ただの「便利な体質」として無理やり日常の引き出しへと押し込んだ。波風を立てず、ただ静かに、今日という日をやり過ごせれば、それで良かったのだ。
二
しかし、その停滞を許さない唯一の、あるいは最も切実な狂気が、彼女の内側で確実に育ちつつあった。
それは、日を追うごとに凶暴さを増していく、異常なまでの「飢餓感」だった。
昼過ぎ、店から支給された冷え切ったコンビニ弁当のプラスチック容器を、結衣は無感情に開けた。脂の固まった唐揚げと、パサついた白米。以前であれば、それだけで十分に胃袋は満たされていた。しかし今の彼女にとって、それらはただの「無機質な砂」を噛んでいるのと変わらなかった。二つ、三つと弁当を平らげ、腹が物理的に膨れても、脳の奥、そして命の根源が求める渇きは一向に癒えない。それどころか、異物を胃に詰め込んだような不快感だけが募り、喉の奥は常に焼け付くような熱を帯びていた。私の肉体は、一体何を欲しているのか。結衣の理性は、その問いに対する答えを探すことを拒絶していた。ただ、内臓を素手でじりじりと嬲られるような空腹の苦痛に、小さく身を震わせるしかなかった。
夜の帷が下りる頃、その飢えはついに臨界点に達しようとしていた。身体が内側から、熱い炎でじわじわと焼かれていくような感覚。結衣の意識は、猛烈な渇きによって次第に朧気になっていく。
ああ、お腹が空いた。ただの空腹ではない。それは、骨の髄から、五臓六腑の細胞ひとつひとつが狂おしく身悶えし、熱い吐息を漏らすような、濃厚で蠱惑的な飢えであった。下腹部の奥深く、人としての理性を焼き尽くすほどの淫らな熱量がとぐろを巻き、結衣の細い身体を内側から愛撫するように震わせる。喉の粘膜が、愛液のようにじっとりと湿った、しかし酷く飢えた何かを求めて艶めかしく収縮を繰り返す。皮膚のすぐ下を、熱い情動の血潮がドクドクと奔流となって駆け巡り、胸の先端が、吐息のたびに衣服の擦れに過敏に反応して硬く突っ張る。脳が、思考が、蕩けるような官能的な渇きに支配され、結衣はただ、己の肉体が求める「甘美な獲物」の気配を、濡れた瞳で索めていた。それは、魂を直接、淫らに貪り尽くしたいという、人外の獣が放つ極上の情欲そのものであった。
結衣は自身の太ももを強く掴み、指先を食い込ませた。しかし、その自傷行為すらも、内側からせり上がる人外の捕食衝動を抑えるブレーキにはならなかった。ただ穏やかにいたいだけなのに、肉体が、本能が、彼女を奈落の底へと引きずり落とそうと、甘やかに囁き続けていた。
三
午後十一時、結衣の入った個室に、最悪の形でその「獲物」が呼び込まれた。
入ってきたのは、常連のなかでも特に悪名高い、粗暴な男だった。酒の悪臭を全身から漂わせ、血走った目で結衣を睨みつける。男は今日、裏社会の博打か何かで莫大な損失を出したばかりだった。その行き場のない狂気とストレスをぶつけるための、都合の良い人形として、結衣が選ばれたのだ。
「おい、さっさと服を脱げよ。何突っ立ってんだ、このアマ」
男は部屋のドアを乱暴に閉めるなり、結衣の細い手首を掴んでベッドへと押し倒した。結衣は抵抗しなかった。いつものように、意識を天井へと飛ばし、ただの容れ物としてこの時間をやり過ごそうとした。しかし、男の暴力は執拗だった。結衣の無表情な顔が気に入らないと言わんばかりに、大きな平手打ちが彼女の頬を炸裂させた。
「気に食わねえ目しやがって! 金払ってんだから、もっと痛がれよ、泣けよ!」
男はさらに、ベッドサイドのテーブルに置かれていた、ガラス製の重厚な灰皿を掴み上げた。明確な加虐の意志、そして結衣の存在そのものを否定するような、おぞましい「敵意」が男の全身から立ち上る。その瞬間、男の背後の空間が、どす黒い憎悪のオーラとなって結衣の金色の瞳に映し出された。
パツン、と、結衣の頭の中で、何か細い糸が弾ける音がした。
それは恐怖の終わりであり、理性の決壊だった。男から向けられた剥き出しの敵意と暴力。それが、結衣の感覚のなかで、突如として信じられないほど「芳醇で、甘美な香りを放つ馳走」へと反転したのだ。飢えて、飢えて、狂いそうだった喉の奥が、歓喜に震えて大量の唾液を分泌する。目の前にいる、自分を痛めつけようとしているこの哀れな人間が、いまや極上の、肉感的な獲物にしか見えなかった。
「が、あ……っ!」
男が灰皿を振り下ろした瞬間、結衣の手が動いた。目にも留まらぬ速度で伸ばされた彼女の細い指先が、男の手首を正面からがっしりと受け止めた。カツン、と硬質な音が室内に響く。
「あ……? なんだ、お前――」
男の言葉は、それ以上続かなかった。結衣の小さな手が、男の手首の骨を容赦なく握り潰したからだ。ミシミシ、パキパキと、肉と骨が不自然に変形していく。男は絶叫しようとしたが、結衣のもう片方の手が、すでに男の喉元を正確に、深く捉えていた。人間離れした腕力によって、男の巨体が軽々とベッドの上に押さえつけられる。
結衣は男を見下ろした。その瞳の奥、虹彩の境界線に浮かぶ金色の輪が、暗闇のなかで妖しく、美しく明滅している。彼女の口元は、無意識のうちに、歓喜と飢餓に歪んだ艶やかな笑みを浮かべていた。我慢できない。もう、一秒だって耐えられない。
結衣はゆっくりと顔を近づけ、男の首筋に割れた唇を寄せた。怯え狂う獲物の、熱い血液の脈動が、彼女の鼓膜を甘美に濡らす。衣服を引き裂き、剥き出しになった男の肉体に、彼女の牙が深く、深く突き立てられた。その瞬間、溢れ出した生命の奔流――濃厚で、鉄分を含んだ熱い液体が、結衣の乾ききった喉を愛撫しながら滑り落ちていく。ああ、これだ。肉体が、魂が求めていたのは、この淫らなまでの生命そのものの悦楽。結衣の喉は、獲物を飲み込むたびに、歓喜の小刻みな震えを上げ、その肢体は至高の快感にのけ反った。男の肉から、その存在そのものから、純度の高いエネルギーが彼女の内臓へと直接吸い込まれ、全身の細胞が、濡れた歓声を上げて目覚めていく。それは、喰らう側と喰らわれる側が、ドロドロに溶け合って一体となるような、おぞましくも圧倒的に蠱惑的な、人外の交わりであった。
男の身体から急速に力が抜けていく。激しい痙攣の果てに、男の瞳から光が消え、ただの物質へと変わり果てた。しかし、結衣の「食事」はそこでは終わらなかった。
四
結衣の内側に宿った異形の本能は、極めて貪欲であり、同時に冷徹なまでに「合理的」だった。
「……お残しは、だめ」
ふと我に返った結衣は、静まり返った部屋のなかで、ぽつりと呟いた。壊れた家庭環境のなかで、母親から「食べ物を残すな」と理不尽に殴られた古い記憶が、奇妙な形で脳裏を過ったわけではない。ただ、彼女の本能が、この部屋に「痕跡」を残すことの危険性を冷徹に理解していたのだ。もしもここに男の死体が残れば、警察が動き、店が潰れ、彼女がようやく手に入れた「誰の目にも留まらない、隠れ家としての日常」が完全に崩壊してしまう。
私はただ、静かに、穏やかに生きていたいだけ。
そのためには、この現実を、最初からなかったことにしなければならない。結衣は無表情のまま、再び男の肉体へと向かった。骨を噛み砕き、肉を咀嚼し、衣服の繊維に至るまで、その存在のすべてを彼女の肉体は拒絶することなく受け入れていく。彼女の小さな胃袋は、ブラックホールのように男の質量を完全に収め、皮膚の下の黒い糸たちが、それを瞬時に純粋なエネルギーへと変換していった。骨の一片、血の一滴すらも、床や壁に残すことは許されない。
食事が完全に終わったのは、午前二時を回った頃だった。
ベッドの上には、男が身に付けていた金属製の腕時計と、財布、そしていくつかの小銭だけが転がっていた。肉体はおろか、衣服さえも完全に結衣のなかに消え去っていた。結衣はベッドから立ち上がり、シャワールームから濡れ雑巾を持ってくると、床や壁を丹念に拭き始めた。ルミノール反応すら出ないほど、徹底的に、何度も、何度も。男の手首を掴んだときに飛び散った微かな飛沫も、彼女の鋭敏な嗅覚がすべて捉え、完全に拭い去った。残された金属類は、ひとまとめにしてビニール袋に入れ、後で深い川にでも投げ捨てるためにバッグの奥底へ仕舞い込む。
シーツの皺を丁寧に伸ばし、枕の位置を直す。部屋のなかの空気は、完全にリセットされていた。そこには、一人の男が理不尽な暴力を振るい、そしてこの世から完全に消失したという事実を示すものは、何一つとして残されていなかった。完璧な後片付けだった。
結衣は、自分の両手を見つめた。爪の隙間に至るまで、血の跡はない。鏡に映る自分の顔は、相変わらず血色の悪い、どこにでもいる十七歳の少女のままだった。ただ、瞳の奥の金色の輪だけが、静かに深みを増している。満足感はあった。あれほど彼女を苦しめていた、内臓を焼かれるような飢餓感は、嘘のように消え去っていた。足元をふらつかせていた熱も引き、身体は信じられないほどに満ち足りていた。
五
だが、安息は長くは続かなかった。翌々日の夜、結衣は再び、あの不穏な兆候に気づくことになる。
「……嘘、でしょう」
待合室の片隅で、結衣は自分の腹部に手を当て、小さく絶望の息を漏らした。胃の腑の奥深く、あの恐ろしい、焼け付くような熱が、再び小さな火種となってパチパチと音を立てて燻り始めている。脳の裏側を、あの甘美な生命の味が、蠱惑的な幻影となって掠めていく。あんなに、気持ち悪くなるほど、一人の人間のすべてを貪り尽くしたというのに。骨も、肉も、魂すらも残さず、綺麗に平らげたはずなのに、早くも彼女の肉体は、次の「餌」を求めて乾き始めていた。
どれだけ大量に食べても、その満腹感は一時的なものでしかなく、いずれはまた、あの狂おしい飢餓が彼女を襲うのだ。それは、この先もずっと、定期的に人間を、あるいはそれに類する異形を捕食し続けなければ、自分が維持できないという残酷な現実の証明だった。
これでは、困るのだ。
結衣は膝を抱え、深く顔を埋めた。彼女は怪物として君臨したいわけでも、裏社会の戦争に身を投じたいわけでもない。ただ、誰の邪魔もせず、誰からも邪魔されず、静かで穏やかな日々を、細々と営んでいきたいだけなのだ。それなのに、彼女の内なる獣は、生きるために他者を擦り潰すことを要求してくる。
(私は、ただ、普通にそこにいたいだけなのに……)
結衣のささやかな願いを嘲笑うように、路地裏の闇が一層、深く色濃くなっていく。ビルの隙間から、結衣の飢えの気配を察知した妖たちが、怯えながらも、彼女を新たな「捕食者」として讃えるように、静かにその首を垂れていた。彼女が望まぬ試練は、すでに次の足音を立てて、確実に近づきつつあった。
(『屍花は夜に咲く』・第二話 了)Noveliaとは?
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