『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第十一話「極上の珍味、あるいは餌の降る夜」
一
新宿歌舞伎町の最北端、職安通りに面した雑居ビルの屋上には、深夜二時の湿った風が吹き抜けていた。
黒いタクティカルウェアに身を包んだ男、厳嶋(いつじま)は、暗視ゴーグル越しに眼下の路地を見下ろしていた。彼の背後には、同じ装備に身を固めた五人の男たちが、彫像のような静寂を保って控えている。
関東最大の広域指定暴力団「銀星会」が、その隠し札として飼い慣らしている私兵集団、通称「黒龍隊」。元特殊作戦群や外人部隊の脱走兵、あるいは戸籍を抹消された格闘技の元王者たち。彼らは法の外側で「暴力の最適化」のみを追求してきたプロフェッショナルであり、鬼頭若頭が直々に「魔性の女」排除のために投入した、組織の最高戦力であった。
厳嶋は耳元のインカムに、氷のように冷徹な声で指示を飛ばす。
「各員、観測データとの齟齬を確認しろ。標的は単体。武装はなし。だが、九局の精鋭を無力化したという事実を忘れるな。これは害獣駆除ではなく、対戦車戦闘と同義と心得よ」
「了解。狙撃班、配置完了。距離百二十、風速一、仰角マイナス十五。視界は良好だ」
隣のビルの給水塔の陰から、狙撃手の低い返答が戻る。
路地裏。
榊結衣は、古びた街灯の下をゆっくりと歩いていた。地下の店での勤務を終え、いつものように静かに家路を辿る一七歳の少女。その足取りは、死を待つ生贄のそれではなく、むしろ深夜の散歩を楽しむ無垢な子供のようにも見えた。
だが、その皮膚の下では、常人には不可視の「黒い糸」たちが、微かな空気の振動を捉えてざわついていた。
「……撃て」
厳嶋の短い命令と同時に、サプレッサーを装着されたレミントンM700から、7.62ミリ弾が放たれた。火薬の爆発音は夜の騒音に溶け込み、音速を超えた鉛の弾丸だけが、結衣の左側頭部を正確に貫こうと空間を切り裂く。
事実として、結衣は銃声を聞いていなかった。しかし、引き金が引かれた瞬間に狙撃手の指先から放たれた「殺意」という名の熱量が、彼女の鼻腔を甘く掠めた。
結衣は、歩みを止めることすらせず、ただ首を三センチだけ右に傾けた。
キィィィン、と背後のコンクリート壁に火花が散る。弾丸は結衣の耳朶をわずかに掠めることもなく、夜の闇に吸い込まれていった。
「……外しただと?」
狙撃手の驚愕は、インカムを通じて黒龍隊の全員に共有された。
「いや、回避された。予備動作なしの反射だ。フェーズ二へ移行。突入班、ガス展開。光学的制圧を開始しろ」
厳嶋の指示は、動揺を一切含まずに遂行された。
二
突如、結衣の周囲で四つの円筒形が破裂した。
強烈な閃光。マグネシウムの燃焼による数百万カンデラの光が夜を白く焼き、同時に鼓膜を破壊するほどの爆音が轟く。さらに、高濃度の催涙ガスが噴霧され、路地裏は視界ゼロの地獄絵図へと変貌した。
特殊マスクを装着した黒龍隊の隊員たちが、ビルの壁を蹴り、蜘蛛のような速度で降下してくる。彼らは視覚や聴覚を封じられた獲物を、チタン製の拘束具と高圧電流を帯びた警棒で仕留めるべく、軍隊式の統制された動きで迫った。
だが。
白一色の視界の中で、結衣は「見て」いた。
催涙ガスによって粘膜を焼かれる痛みも、閃光による網膜の麻痺も、彼女の肉体は数ミリ秒の再生プロセスで無効化していた。そしてそれ以上に、彼女の飢えた感覚が、ガスの中に浮き上がる五つの「魂の熱」を鮮明に捉えていた。
それは、並の人間が発するドロドロとした負の感情とは一線を画していた。
鍛え抜かれた肉体、極限まで研ぎ澄まされた精神。死を恐れず、任務遂行のみに特化した黒龍隊の男たちが放つ「殺意」と「緊張感」は、結衣にとって、これまでに嗅いだことのない芳醇な香りを放っていた。
まるで、安物のジャンクフードの山の中に、一点だけ紛れ込んだ最高級のヴィンテージワイン。
結衣の胃の腑が、歓喜のあまり、不気味な音を立てて震えた。
三
その瞬間、結衣の意識を占めていた「無表情な少女」の仮面が、内側から溶け落ちた。
喉の奥が、焼け付くような熱を帯びる。内臓が、自らの形状を忘れて蠢き、人外の獣が放つ蠱惑的な情欲そのものに塗り替えられていく。
(……あぁ。すごく、いい匂い。硬くて、冷たくて、でも芯のところが燃えるように熱い)
結衣は、ガスの中から踏み出してきた一人目の隊員の懐へ、音もなく滑り込んだ。
隊員が驚愕に目を見開く間もなかった。結衣のしなやかで冷たい両腕が、重厚な防弾ベストを無視して、男の太い首筋に絡みついた。
其処からの描写は、もはや戦闘ではなく、おぞましくも美しい「食事」の儀式であった。
結衣の肌は、興奮によって透き通るような白磁の輝きを放ち、毛穴からは狂おしいほどに甘い、毒を含んだ蜜のような香気が立ち上る。
彼女は男の逞しい胸板に自らの柔らかな肉体を押し当て、耳元で淫らな、熱い吐息を漏らした。
「……美味しそう」
囁きと共に、結衣の唇が男の頸動脈に吸い付く。
男の喉からは、悲鳴ではなく、根源的な快楽に脳を焼かれた者の喘ぎが漏れた。
結衣の舌が、汗と汗の混じった男の肌を愛撫するように這い回る。其れは、捕食者の冷徹な処刑ではなく、情欲に溺れた女が愛撫を求めるような、肉感的で濃厚な接触。
結衣の口腔内では、牙が鋭く、かつ艶やかに突き出していた。其の先端が男の皮膚を貫いた瞬間、生命の奔流が、ドロドロとした黄金の蜜となって結衣の喉へと流れ込む。
男が長年の訓練で築き上げてきた「鋼の精神」が、結衣の愛撫によってドロドロに溶かされ、彼女の胃の腑へと搾り取られていく。
吸い上げるたびに、結衣の肢体は歓喜に震え、背中は弓なりに撓った。
細い指先は、男のタクティカルウェアを引き裂き、剥き出しになった背中の筋肉に執拗に爪を立てる。其れは、獲物を固定するための物理的な拘束であると同時に、昂ぶる肉欲を抑えきれない情婦の、あまりにも生々しい愛撫の跡であった。
一人、また一人と、結衣の抱擁を受けた隊員たちは、天国と地獄を同時に見たような法悦の表情で白目を剥き、アスファルトの上に崩れ落ちていく。
彼らの肉体に傷はない。だが、その魂の核、戦士としての誇りも、死への恐怖も、生存本能のすべてが、結衣という名の「魔性の花」に根こそぎ吸い尽くされていた。
四
最後に残された厳嶋は、暗視ゴーグルの奥で絶望を見ていた。
目の前で繰り広げられているのは、戦術や武力で対抗できる事象ではない。それは、生命そのものの格の差であり、捕食という名の絶対的な愛の行為であった。
「化け物め……!」
厳嶋は、自らのタクティカルベストに装着されたC4爆薬の起爆装置を掴んだ。
捕食される前に、自ら爆発の炎に消える。それが、戦士としての最後の抵抗であった。
だが、結衣はその絶望と自己犠牲の執念を、すでに極上の「匂い」として嗅ぎ取っていた。
「……最後の一口まで、逃がしません」
厳嶋が起爆スイッチを押し込むより刹那早く、結衣の滑らかな手が彼の胸元――爆薬の塊へとそっと添えられる。
同時に、彼女の掌から噴出した数万本の黒い糸が爆薬を這い回り、分厚く強靭な球体となって完全に覆い尽くした。直後、起爆。
一キログラムのC4爆薬が放つはずだった凄絶な熱量と衝撃波は、黒糸の塊の内側に完璧に封じ込められた。ズゥン、という腹の底に響く鈍く重い音とともに、黒い糸の塊が僅かに脈打つように膨張しただけで、外側には爆風の欠片すら漏れ出さない。
絶対的な死を覚悟していた厳嶋は、何一つ痛みのない現実と、目の前で艶やかに微笑む結衣の姿に呆然と目を見開く。
「……ごちそうさまです」
結衣は厳嶋の顔を両手で包み込んだ。そして、絶望すら奪われた男の唇を塞ぎ、深々と、その魂の髄まで直接啜り上げるような濃厚な口吻を交わした。
五
十分後。
路地裏には、ただ静寂だけが戻っていた。倒れているのは、廃人のようになった黒龍隊の隊員たちと、煤で汚れた厳嶋。彼らは生きているが、その瞳にはもはや「戦士」の光は一欠片も残っていない。
結衣は、衣服の汚れを軽く払い、少しだけ重くなった足取りで歩き出した。
「……うぅ」
ふいに、彼女は路地の隅で立ち止まり、自らの下腹部をそっと押さえた。
胃の奥が、ずっしりと重い。普段食べている「悪意の霧」や「下級の妖」とは比較にならないほど、黒龍隊の男たちのエネルギーは濃密で、脂ぎっていた。
それは、空腹の少女が突然、最高級の和牛の脂身だけを十キロ平らげたような、凄絶な「胃もたれ」であった。
「……食べすぎました」
結衣の頬は、かつてないほど朱に染まっている。それは興奮の余韻ではなく、純粋な消化不良による火照りであった。あまりにも良質な餌を、あまりにも大量に、かつ無計画に貪りすぎたのだ。
全身の細胞が、過剰なエネルギーの処理に追いつかず、濡れた悲鳴を上げている。普段なら瞬時に消えるはずの「情熱的な吸気」の残滓が、甘ったるい粘液となって、彼女の内側をドロドロにかき回していた。
結衣は何とかアパートの自室に辿り着き、倒れ込むようにベッドに横たわった。
いつもなら、この後に食べるバニラアイスが楽しみなのだが、今はその単語を思い浮かべるだけで、喉の奥から酸っぱいものが込み上げてくる。
「……美味しいものは、少しずつ食べないと、ダメです」
暗い天井を見つめながら、結衣は自戒を込めて呟いた。
人外の魔王として日本全土を支配下に置こうとも、その本質が「一七歳の、ちょっと頭の弱い少女」であることは変わらない。彼女の悩みは、国家の存亡や裏社会のパワーバランスではなく、今はこの「贅沢すぎる胃もたれ」をどうにかすることなのであった。
六
翌朝。
高級ホテルの一室で、久世玲二は届けられた監視カメラの映像と、現場の生体反応ログを見て、深い溜め息をついた。
「銀星会の最強戦力が、全員揃って『廃人』か……。しかも、死傷者はゼロ。ただ、精神の芯だけが綺麗に抜き取られている」
久世は、万年筆を机に置き、窓の外の新宿の街を眺めた。
「榊結衣。彼女はもはや、捕食者という枠組みすら超えつつある。……彼女にとって、この街はもはや、いつでも新鮮な獲物が手に入る『巨大な冷蔵庫』に過ぎないのではないか」
一方、新宿の児童公園。
結衣はベンチに座り、まだ少し重い胃をさすりながら、清掃員の老女を待っていた。
今朝は、自動収集された負の感情を吸う気にもなれない。
家畜化した妖たちが、気を利かせて「美味しい狂気(エネルギー)」をビル周辺に集めてくれていたが、結衣はそれを「今は見たくないです」と一蹴してしまった。
「おや、結衣ちゃん。今日は何だか、顔色が赤いねえ。熱でもあるのかい」
いつもの老女が、竹箒を片手に現れた。
「……いえ。ちょっと、夜更かしして、脂っこいものを食べすぎただけです」
結衣は、力なく微笑んだ。
「そりゃいけないねえ。若いうちは胃袋が元気だと思って無理しがちだけど、体は正直だからね。はい、これでも飲んで、ゆっくりおやり」
差し出されたのは、温かい缶コーヒー……ではなく、乳酸菌飲料の小さなボトルだった。
「消化を助けてくれるよ」
「……ありがとうございます」
結衣はそれを受け取り、ゆっくりと飲み下した。
魔王の肉体をもってしても解決できなかった胃もたれが、百円の乳酸菌飲料の冷たさで、ほんの少しだけ和らいだような気がした。
銀星会の頂点に君臨する会長・銀星鬼三(ぎんぼしきぞう)は、黒龍隊の全滅という報告を前に、組織の存亡を賭けた「次なる一手」を模索し始めていた。
だが、その対象である魔王は今、公園のベンチで、小さなボトルのアルミ蓋を剥がすのに苦戦している。
世界の壊れ方に比べれば、自分の胃もたれなど些細なもの。そう自分に言い聞かせながら、結衣は午前中の柔らかな光の中で、静かに目を閉じるのだった。
(『屍花は夜に咲く』第十一話「極上の珍味、あるいは餌の降る夜」 了)Noveliaとは?
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