『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第五話「無冠の魔王、あるいは収穫の夜」
一
七月に入ると、それまで街を包んでいた梅雨の湿気は一転して、アスファルトを直に灼く暴力的な熱気へと姿を変えた。
深夜を過ぎても雑居ビルの並ぶ路地裏には熱がこもり、安価な室外機から吐き出される温風が、腐った生ゴミの臭気をねっとりと拡散させている。
榊結衣は、いつものように地下の待合室へ続く狭い非常階段の途中に佇んでいた。彼女の視線は、数メートル先のアスファルトの裂け目へと向けられている。そこには、赤黒い錆と泥が混ざり合ったような、粘着質の一塊がのたうっていた。
全体としては大型犬ほどの大きさだが、固定された輪郭を持たない。表面からは、人間の抜け落ちた爪や髪の毛を想起させる不浄な破片が絶えず浮き沈みし、じくじくと濁った体液を滴らせている。古来より「妖」あるいは「外法」と称されてきた、過密都市のノイズが生んだ異形の出来損ないだった。
「ギ、ギギ……ッ」
異形は結衣の細い肢体から放たれる、完全適合体特有の濃厚な生命の香りに狂わされ、縄張りを主張するように鋭い粘膜の触手を伸ばしてきた。
以前の結衣であれば、目にも留まらぬ速度でその首を掴み、コンクリートの壁へ叩きつけて「塵」にしていたところだった。完全に咀嚼し、皮膚の下の黒い糸でエネルギーへと変換してしまえば、片付けの手間すら残らない。それが彼女のこれまでの、極めて合理的で淡々とした家事(パトロール)の全容だった。
しかし、つい先日に裏社会の巨頭である富永を「定期的に極上の狂気をもたらす自家発電式の餌箱」として飼い慣らした経験が、学のない結衣の思考回路に、新たな生活の知恵(ライフハック)をもたらしていた。
(……全部食べちゃうのは、もったいない)
結衣は迫り来る触手を、避けることすらしない。ただ、伸ばされた細い腕が、異形の中央にある最も密度が高い「核」の部分を正確に、深く掴み取った。カツン、と硬質な音が響く。
異形は恐怖に身を震わせ、逃れようと肉体を激しく波打たせた。しかし、結衣の指先は万力のようにその存在を固定したまま、微塵も動かない。
ああ、それは骨の髄から吸い上げられる、人外の至高の悦楽。結衣が指先に力を込め、異形の肉体に宿る濁った妖力を肺いっぱいに吸い込むと、喉の粘膜は愛液のようにじっとりと湿り、狂おしいほどの歓喜に収縮を繰り返す。下腹部の奥深くでとぐろを巻く人外の獣が、熱い吐息を漏らしながら、極上のスープを飲み干すように歓声を上げる。胸の先端が過敏に突っ張り、結衣の肢体は至高の快感に微かにのけ反った。喰らう側と喰らわれる側が、ドロドロの愛欲の中で溶け合っていくような、おぞましくも圧倒的に蠱惑的な、人外の交わりがそこにあった。
結衣は異形の力の九割を吸い尽くしたところで、ふっと指先の力を抜いた。
カサカサに乾ききり、元の半分以下の大きさに萎縮した異形が、アスファルトの上に無様に転がり落ちる。死んではいない。だが、結衣という絶対的な捕食者の前に、その生存本能は完全にへし折られていた。
「ねえ、死にたくなかったら、私の言うことを聞いて」
結衣は無表情のまま、足元の萎びた塊を見下ろした。その瞳の奥、虹彩の境界線に浮かぶ金色の輪が、暗闇の中で残酷なほど美しく明滅している。
「毎晩、私のパトロールの邪魔をするモノを片付けるのは面倒くさいの。だから……あなたが代わりに、私のお腹が空かないように、美味しいものを集めてきなさい。街にいる、人間の汚い気持ちを、たくさん集めて、ここに持ってきて」
異形は、結衣から与えられた「生存の対価」という絶対的な枷に、ただ平伏するように激しく震えた。牙を抜かれ、圧倒的な恐怖と吸気の快感に脳を焼かれた異形は、もはや結衣の命令に背くことなど、細胞レベルで不可能だった。
塊は這うようにして、夜の闇の奥へと静かに消えていった。
二
結衣にとって、それは「害虫を家畜化し、毎日の掃除の手間を省く」という、極めて地味で身の丈に合った効率化の試みに過ぎなかった。しかし、人外の生態系において、その行動がもたらした影響は劇的だった。
結衣に命を救われ(あるいは生かされ)、絶対的な主(あるじ)の命令を刻まれたその下級の妖は、仲間たちの元へ戻ると、その圧倒的な捕食者の恐怖を「感染」させていった。知性の低い異形たちにとって、結衣は「逆らえば存在を根こそぎ奪われ、従えば微かな生存を許される」という、夜の街の新しい、そして唯一の絶対法則となったのだ。
数日もしないうちに、新宿の裏路地、ネオンサインの影、深夜の歌舞伎町をうろつく異形たちの行動原理が、完全に一新された。
彼らは結衣の命令を果たすため、都会の過密なノイズに潜む「人間の負の感情」を効率よく収集する「猟犬」へと変貌した。
深夜の居酒屋で、同僚の出世に呪詛を吐くサラリーマンの背後。
ネットの掲示板に、見知らぬ他者へのドロドロとした嫉妬を書き込む若者の指先。
家庭内暴力の末に、冷え切った部屋で剥き出しの敵意を燻らせる親子の隙間。
異形たちは衣服の隙間やアスファルトの影から粘着質の触手を伸ばし、それらの狂気、情念、暴力衝動、妬み嫉みといった「精神の澱」を、ストローのように周囲からじわじわと吸い上げていった。人間たちは、自分がなぜ急に心が軽くなったのか(あるいは、なぜこれ以上怒る気力が湧かないのか)も知らぬまま、ただの抜け殻となって家路につく。
そして夜が更ける頃、力を蓄え、濁った感情の霧を体内に溜め込んだ妖たちが、結衣のいる雑居ビルの周辺へと、誰の目にも留まらぬよう静かに這い集まってくるのだった。
「ギ、ギチ……」
「シュ、ゥ……」
出勤前の午後十時、結衣がいつものようにビルの周りを「一周」歩くルーティンを始めると、路地裏の景色は異様なことになっていた。
ビルの隙間、ゴミ箱の裏、自動販売機のわずかなスペースに、無数の異形たちが息を潜めて列をなしていた。彼らは結衣の姿を認めると、怯えながらも、一斉にその首を垂れる。そして、体内に溜め込んできた最上級に濁った「人間の負の感情」を、目に見えない濃密な紫色の霧として、一斉に路地の空気中へと吐き出し、彼女へと献上し始めた。
結衣は無表情のまま、その霧を肺いっぱいに吸い込んだ。
(……あ、すごく楽。これなら、自分から探しに行かなくてもいい)
喉の奥の焼け付くような渇きが、自動的に、かつ完璧に潤されていく。歩くたびに、街中から集められた新鮮な「滋養」が、彼女の細胞へと直接吸い込まれ、皮膚の下の黒い糸たちが満足げに凪いでいく。
結衣にとっては、お気に入りの寝床を汚されたくないという個人的な都合から始まったライフハックだった。しかし、結果として、彼女は一歩も動かぬまま、街一つの闇を完全に統べる「目に見えない巨大な搾取システム」の頂点に収まってしまったのだ。
三
定点観測を続けていた裏社会の術師・久世玲二は、自身のオフィスで、タブレットにリアルタイムで表示される霊的エネルギーの観測データを見つめたまま、完全に言葉を失っていた。
「バカな……。新宿一帯の負の感情(エネルギー)の指向性が、すべてあの雑居ビルへ向かって収束している……!?」
久世の手の中の万年筆が、今度こそ完全に真っ二つに折れ、濃厚な黒いインクがデスクを汚したが、彼は気にも留めなかった。
彼の眼(霊視)には、街全体のネオンの影から伸びた無数の黒い精神のラインが、まるで巨大な蜘蛛の巣のように、結衣のいる地下の風俗店へと繋がっているのが見えていた。
「被験体No.72、榊結衣。彼女は、猟奇殺人鬼の富永を傀儡にしただけで満足しなかったというのか。今度は街中の妖どもを完全に調伏し、自らの手足として使役している。それどころか、都市そのものが生み出す情念や悪意を効率よく搾取する、巨大な霊的支配システムをたった一人で構築した……」
久世の脳内で、結衣という存在は、もはや組織の実験失敗作などという生易しいレベルを遥かに超越していた。
独自の軍勢を率い、人間と異形の両面からエネルギーを吸い上げ、夜の街の裏面に音もなく君臨する「無冠の魔王」。
彼ら裏社会の人間が数百年かけても成し遂げられなかった闇の王座に、あの十七歳の、無口で血色の悪い少女が、何食わぬ顔で腰掛けているのだ。久世の背中を、防ぎようのない冷たい戦慄が駆け巡っていた。
一方、当の「魔王」は、地下の待合室のパイプ椅子で、支給された冷たい緑茶のペットボトルを静かに口に含んでいた。
「おい、結衣。お前、本当に最近調子いいな。お前が入る個室の周りだけ、なんか空気が軽いっていうか、ヤクザの客もみんな、お前の前だと妙に大人しくなりやがる。店長、お前のこと、うちの店の『守り神』って呼び始めてるぞ」
店員の粗暴ながらも、下心と感心の混ざった声に、結衣は「そうですか」と短く応えた。
彼女の指先は、スマートフォンの画面を無目的にスクロールしている。
妖たちの悪い気(エネルギー)を自動的に吸い上げるシステムのおかげで、ここ数日間、あの狂おしい飢餓感に内臓を嬲られることはなくなっていた。足元をふらつかせていた熱も引き、身体は驚くほどに満ち足りている。
衣服を汚されることもなければ、面倒な戦闘の後の隠蔽工作(後片付け)に追われることもない。
これなら、大丈夫かもしれない。
私はただ、贅沢をしたいわけでも、誰かを支配したいわけでもない。
この薄暗い地下の店で、誰の目にも留まらず、息を潜め、明日を静かに迎えられるだけの平穏があれば、それでいい。
結衣は膝を抱え、満足げに目を細めた。瞳の奥の金色の輪は、彼女のささやかな願いとは裏腹に、夜の街のすべての闇を従えるように、一層深く、妖しくきらめいていた。
(『屍花は夜に咲く』第五話「無冠の魔王、あるいは収穫の夜」 了)Noveliaとは?
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