『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第十五話「迷子の迷子、あるいは神隠しの公園」
一
深夜二時の児童公園。街灯の放つ青白い光が、誰もいない遊具の影を砂場へと長く引き伸ばしている。榊結衣は、支給されたブカブカの作業用ジャンパーを羽織り、緑色のプラスチック製の竹箒をベンチの脇に立てかけていた。
彼女のルーティンは常に一定だ。週に二回、この公園の落ち葉と空き缶を掃き清めること。そして、作業の合間に自動販売機の横にある錆びかけたベンチに腰を下ろすこと。
「結衣ちゃん、今日もお疲れ様。夜は冷えるから、これでも飲みなさい」
声をかけてきたのは、同じく清掃用具を持った腰の曲がった老女――バイト先の先輩であるお婆さんだった。彼女の手から差し出されたのは、何の変哲もない、自販機で買われたばかりのポッカコーヒーの温かい缶だった。
結衣はそれを両手で受け取る。人外の肉体となった彼女は、人間の食物を栄養として摂取することはあまり意味がない。しかし、手のひらに伝わる自販機の加温機構の熱と、お婆さんの優しい眼差しは、結衣が何度も社会の底辺で弾かれ、バイトに失敗し続けた末に見出した、数少ない「普通」の記号だった。
或る日の夜の公園で、お婆さんはふと、思い出したように結衣に問いかける。
「そういえば結衣ちゃん、もう学校は行かないのかい? 17歳なら、まだ学生やってる歳だろうにねえ」
その言葉に、結衣は箒を握る手をわずかに止めた。実家を飛び出して以来、彼女は学校という場所に足を踏み入れていない。過去の経験から、仮に無理をして全日制の高校へ行ったとしても、「周囲から遠巻きにされるだけ」だと深く諦念していたからだ。今なら人外化の影響による異質さで尚更だろう。
「……学校には、行っていません」
「そうかい。でもね、今はいろんな形があるからねえ。通信講座の類で、自分のペースでレポートを出して卒業資格を取るような学校もあるんだよ。お節介かもしれないけど、これからの長い人生、何か一つでも『普通』の切符を持っておくのは悪いことじゃあないよ」
お婆さんの温かい言葉は、結衣の心に静かな波紋を広げた。全日制のような制服こそないが、通信制の学校という選択肢がある。一般社会への適応を半ば諦めつつも、お婆さんという純粋な日常の光に触れ続けることで、結衣の事務的な思考回路は『普通の記号を増やすために、通信制の学校で勉強を始めるのも悪くない』と考え始めていた。
「……考えてみます」
お婆さんは満足そうに頷き、「ちょっと自販機の裏のゴミ箱を見てくるね」と、ゆっくりとした足取りで街灯の陰へと歩いていった。
二
結衣が一人ベンチに残り、通信講座の事について考えていた、その時だった。
公園の空気が、物理的に「凍りついた」。
都会の喧騒、遠くを走る車のエンジン音が完全に遮断され、空間そのものが外界から切り離された密室へと変貌する。滑り台の影から、陽炎のように歪みながら現れたのは、鹿の角のような異形を頭部に戴き、古びた狩衣を纏った巨大な影――この土地に数百年居座り、境界の向こう側で結衣の網から漏れていた古の土地神(怪異)だった。
土地神の放つ傲慢な神気は、周囲の雑草を一瞬で枯らせるほどに重苦しい。しかし、ベンチに座る結衣は、前髪を微かに揺らしただけで、表情一つ変えなかった。
土地神は結衣の瞳の奥にある歪な金色の輪を凝視し、不快感を露わにして声を発した。
「何故お前は、そのような浅薄な人の振りなどしている?」
結衣は、問われた言葉の意味が純粋に理解できなかった。彼女にとって、こうして公園を掃除して缶コーヒーを貰い、これからは通信制の勉強を始めようとすることは、すべて「日常の維持」そのものである。
結衣は首を数ミリだけ傾げ、平坦な声で返した。
「……普通にしているだけです」
「化性の分際で人の温もりに擬態するなど滑稽であろう。人外なら人外らしく、肉を喰らい、恐怖を貪り、この街を呪詛で満たせば良かろうに。何が『普通』だ。お前の存在そのものが歪みであろうが」
土地神の言葉には、古参の怪異としてのプライドと、新参の魔王に対する苛立ちが混ざり合っていた。しかし、結衣の脳内にある道徳の教科書には、そんな大層な人外の美学など記載されていない。
「?……だから、普通にしていると言いました」
結衣の目は完全に凪いでいた。この徹底的なドライさと、対話の拒絶に、土地神の形の無い顔が怒りで引きつった。話が通じない。
「底の浅い娘め……。もしや、あの老いぼれに執着して居るのか?」
土地神は街灯の陰、お婆さんがいる方向へと忌々しげに視線を向けた。
「ならば心残りをなくしてやろう。あの肉塊を|境界の奥へ引き込み《かみかくし》、お前の『普通』とやらを根底から消し去ってくれるわ」
土地神の背後で空間が裂け、異界の門が開く。
その瞬間、結衣の瞳の奥の金色の輪が、かつてないほど冷たく、静かに凪いだ。お婆さんから貰う「温かい缶コーヒーの時間」を害されることは、今の結衣という存在における最大級の『規律違反』だった。
三
「……ダメです。それは私のコーヒーの時間を邪魔することになります。非常に良くないことだと思います」
結衣が静かに一歩を踏み出した、その瞬間だった。
彼女の足元から、底無しの深淵から噴き出すかのように、無数の黒糸が爆発的に溢れ出し、児童公園の周囲を網の目のように覆い尽くした。
「なっ……、これ、は……っ!?」
土地神が驚愕に目を見開く。黒糸から溢れ出す圧倒的な妖気が、瞬く間に周囲の空間を濃密に埋め尽くしていった。古の怪異が数百年かけて練り上げ、周囲に展開していた傲慢な神気は、その圧倒的な暴力の質量の前に耐えきれず、一瞬で、木端微塵に粉砕されていた。
「あ……、あ、が……っ、何だ、この、質量は……ッ!」
結衣の手のひらが、土地神の異形の顔面を正面から捉え、そのまま凄絶な速度で砂場のコンクリートの縁へと叩きつけた。神格すら超越した魔王の「格の差」の前に、古き神はただの虫ケラのように無力だった。
「捕食の時間です」
結衣の皮膚を引き裂いて溢れ出た黒い糸が、土地神の神聖な肉体へと無数に突き刺さる。ここからの描写は、まさに肉と霊魂の深淵を貪る、蠱惑的で淫らな饗宴へと変わっていく。
土地神の体内から溢れ出す、純粋ゆえに煮詰まった神気と、それが「死と消滅」への絶対的な恐怖へと反転した瞬間の最高級の情念。それが結衣の喉へと流れ込んできた。
「ん……、あン、うあ……っ」
結衣の喉から、普段の平坦さからは想像もつかない、濡れた艶っぽい吐息が漏れる。彼女の肢体は、極上の神気を細胞レベルで咀嚼する歓喜に包まれ、弓なりに大きくのけ反った。金色の瞳は完全に焦点の定まらない快楽の深みへと融解していく。神としてのプライドが根こそぎ剥ぎ取られ、ドロドロの髄となって結衣の口腔を満たす。土地神は恐怖のあまり声を失い、完全に消滅を待つだけの肉塊へと変えられていった。
「はぁ……、ん、んう……っ。ごちそうさまでした」
吸入が終わり、結衣の背中が静かに戻る。そこには、塵一つ残さず分子レベルで吸収され、完全に消滅した土地神の在った場所には、叩き付けられた際の跡だけが残されていた。結衣は衣服の乱れを事務的に整え、再びプラスチックの竹箒を手に取った。
四
空間の歪みが解け、新宿の深夜の騒音が再び公園へと戻ってくる。
「結衣ちゃん、お待たせ。ゴミ箱の周り、綺麗にしておいたよ。はい、今日のコーヒーだよ」
街灯の陰から、何も知らぬまま戻ってきたお婆さんが、微笑みながら一本の缶コーヒーを結衣の手のひらに握らせた。
結衣は、数秒前に一つの神格をこの世から完全に抹消したばかりの手で、その少し冷めかけた缶を大切そうに受け取った。彼女の瞳の奥の金色の輪は、すでにいつもの夜の湖のように静かに凪いでいる。
「……ありがとうございます、先輩。あの、さっきの学校の話ですが、明日、パンフレットを調べてみようと思います」
「そうかい、それは良いことだねぇ。頑張り切れたら、自分へのご褒美に何か素敵な服でも買いなさい」
お婆さんは、通信制だから制服はないだろうし、という意味で言ったのだが、結衣の脳内にはなぜか「普通の学生=制服」という記号が強く結びついていた。
(通信制でも、レポートを出す日は、「コスプレ」と呼ぶようなそれっぽい制服を着て行った方がいいのでしょうか。今度、那留にネットで探させましょう……)
そんな、人外ゆえにどこかズレた、しかしチープで愛おしい日常の計算を頭の中で組み立てながら、結衣はお婆さんの歩調に合わせて、再びゆっくりと箒を動かし始めた。世界がどれほど歪もうと、彼女の望むミニマムな平穏は、この深夜の児童公園で、誰の目にも留まらずに守られ続けていくのだった。
(第十五話「迷子の迷子、あるいは神隠しの公園」了)Noveliaとは?
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