『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第八話「魔王の就職活動、あるいは日常の死守」
一
その日、榊結衣はいつものように、カビと安物の石鹸の匂いが混じり合う地下の待合室にいた。
パイプ椅子の冷たさを尻に感じながら、木のスプーンで明治エッセルスーパーカップのバニラ味を静かに削り、口に運ぶ。口の中でひんやりと広がる甘みだけが、彼女が「人間」という皮一枚をこの現世に繋ぎ止めるための、ささやかな楔だった。
日本中の妖魔を「家畜化」し、彼らが自動的に集めてくる人間の嫉妬や怨嗟を霧のように吸い上げるシステムを構築して以来、結衣の胃の腑はかつてないほど凪いでいた。肌には健康的な赤みが差し、くすんでいた髪も、今では夜の帳を溶かしたように滑らかな黒い輝きを放っている。何もしなくても、極上の「ご飯」が向こうから降ってくる。定時に退勤し、アイスを食べて眠る。それこそが、彼女の望む身の丈に合った平穏の極致であった。
しかし、運命という名の乱気流は、いつも彼女の頭上を素通りしてはくれない。
「結衣……すまねえ。本当に、すまねえ……」
紫煙の代わりに、どす黒い絶望を吐き出しながら現れたのは、店長だった。いつもなら不遜にタバコを吹かしている男の顔は、今や梅雨時の泥水のように灰色に濁り、手元が小さく震えている。
結衣はスプーンを口に咥えたまま、無表情の瞳を店長に向けた。
「……どうかしたんですか」
「うちの店が……明日から、無期限の営業停止になっちまった」
ゴト、と結衣の手から木のスプーンが滑り落ち、プラスチックのカップに当たって頼りない音を立てた。結衣の脳裏を、文字通りの「世界滅亡」のイメージがよぎる。
「どうしてですか。私、毎日ちゃんとパトロールもしていますし、お部屋も汚していません」
「お前のせいじゃねえ、結衣。ビルの老朽化だ。行政から立ち入りが入ってな、耐震基準だの、防火設備だの、衛生指導だの、ありとあらゆるイチャモンをつけられた。おまけに……」
店長は声を潜め、周囲を警戒するように囁いた。
「裏の筋から連絡があった。警察が、うちを名指しで摘発する準備を進めてるって。どう考えてもおかしい。うちは細々とやってるだけの地下の店だぞ? なぜ国家権力直々のメスが入るんだ……」
店長は知らない。それが、結衣の計り知れない「魔王としての脅威」をこれ以上肥大化させまいと、裏社会の術師・久世玲二が裏から国家権力を動かして仕掛けた、決死の『兵糧攻め』であることを。
(あの女は、日本全土の闇を一元化し、システムとして搾取している。ならば、彼女の拠点であるあの雑居ビルを法的に、物理的に社会から抹殺する。聖域を失えば、あの魔王とて、再び飢餓に狂い、必ず隙を晒すはずだ……!)
久世は冷たいモニターの前で、そう確信して万年筆を握りしめていた。
しかし、結衣にとっての深刻さは、彼の高尚な世界救済のプランとは一光年ほどかけ離れていた。
(お店が、閉まる……。ご飯を自動で食べるための、私だけの安全な引きこもり部屋が、なくなってしまう)
胃の奥が、冷たい恐怖で微かにきしむ。
もしこの場所を失えば、あの、血管に沸騰した鉛を流し込まれるような、内臓を素手で嬲られるような狂おしい飢餓が、再び自分を襲うかもしれない。何より、毎日の規則正しい生活リズムが崩壊し、誰の目にも留まらない「普通」の生活が維持できなくなる。
「明日から、ここには来られないんですね」
「ああ……。ビル自体の改修工事には億単位の金がかかる。実質、廃業だ。本当に申し訳ねえ……」
結衣は最後の一口のバニラアイスをゆっくりと飲み下した。冷たさが喉を通る。
ただ静かに、誰の邪魔もせず生きていたいだけなのに。世界は、どうしてこうも彼女を普通の日常から引き剥がそうとするのだろうか。結衣は立ち上がり、静かに言った。
「わかりました。……私、別の仕事を探します」
二
四畳半のカビ臭いアパートの部屋で、結衣はスマートフォンの画面を凝視していた。
「……働かなければ、アイスが買えない。お布団のシーツも、お洗濯できない」
地下の店が営業を停止した以上、明日からの収入はゼロだ。貯金など、日々のコンビニ弁当とアイス代でほとんど残っていない。そもそも、人間社会との細い接点を完全に失ってしまえば、自らの存在自体が「人外の怪物」の側へ完全に滑り落ちてしまうような、そんな不気味な予感があった。
飢えをコントロールし、人間の皮を被り続けるためには、最低限の労働と、それに見合ったささやかな収入が必要不可欠だ。
結衣は慣れない手つきで、求人サイト「タウンワーク」の検索欄に条件を入力していった。
『時給1,000円以上』『深夜勤務』『未経験者歓迎』『接客少なめ』
画面に並ぶ、無数のバイト募集。深夜のコンビニ、ファミレスのホール、軽配送センターの仕分け。
結衣は百円ショップで買ってきた履歴書と、安物の黒いボールペンをコタツの上に広げた。
氏名、榊結衣。年齢、十七歳。学歴は途中で途絶えている。
志望動機の欄を前に、結衣は小さな頭を悩ませた。嘘を書くのは良くない、と学校の道徳の時間に習ったような気がする。だから、彼女は自分の胸にある、唯一にして最大の真実を、拙い文字で丁寧に書き記した。
『静かに真面目に働きます。』
これ以上の真実など、この世に存在しなかった。しかし、このあまりにも純粋で、無垢な履歴書が、間もなく「普通の社会」を凄絶なパニックへと陥れる引き金になるとは、結衣はこれっぽっちも思っていなかった。
三
結衣が最初に面接に訪れたのは、駅前にある大手チェーンの深夜営業コンビニエンスストアだった。蛍光灯の白い光が寂しく照らすバックヤードの事務室。
結衣が丸椅子に浅く腰掛け、膝の上に両手を置いて待っていると、ドアが開いた。
「お待たせしました、面接を担当する夜間マネージャーの、」
そこまで言って、面接官の男は、文字通り「彫像」のように硬直した。
手元に持っていたクリアファイルがカサリと床に落ち、中の用紙がバラバラと散らばる。男の顔から、一瞬にしてすべての血の気が失せた。その瞳は、限界まで見開かれ、眼球が今にもこぼれ落ちそうに激しく震えている。
男の正体は、かつて対妖魔特務機関「九局」の精鋭部隊に所属し、新宿の路上で結衣に「道徳のお説教」を喰らわされたあの指揮官だった。
圧倒的な物理的暴力によって刀を噛み砕かれ、炭素繊維の装甲を素手で引き裂かれた挙句、「夜道で急に人を殴るのはやめてください」「乱暴は何も生まない」と中学の道徳の言葉で精神を徹底的に破壊された男。彼はその恐怖から九局を退職し、俗世の片隅で静かに生きるために、このコンビニの夜間マネージャーに転職したばかりだったのだ。
「ひ、ひ、ひぃ……っ!」
男の膝が、ピストンのように激しくガタガタと音を立てる。失禁寸前の凄絶な恐怖が、彼の脳髄を真っ白に染め上げた。
「あ、あ、あなたのようなお方が……なぜ、このような、時給千五十円の奈落に……!」
結衣は首を小さくかしげ、大真面目に答えた。
「普通に働いて、お金を稼ぎたいからです。アイスと牛乳を買って、たまにスーパーで半額シールの貼ってあるお肉を買うためです。悪いことは、しません」
「半額、お肉……!」
男の目から、どっと熱い涙が溢れ出した。世界を裏側から支配し、日本全土の妖魔を家畜化した『無冠の魔王』。その神格すら超越した存在が、自ら労働の対価を得て、スーパーの半額肉を買うために履歴書を持ってきたのだ。その、あまりにも謙虚で、どこまでも気高い「規律」の尊さに、元隊員の精神は完全に洗脳(お説教の残響)の深淵へと叩き落とされた。
「おおお……! なんという、なんという慈悲の御心……! 搾取するのではなく、俗世の法に従い、汗を流されるというのですか……! わかりました! 私、この命に代えても、あなた様に完璧なシフトをご提供いたします!」
面接官は、コンビニのバックヤードの床に額を擦り付け、嗚咽しながら土下座した。
結衣は「……ありがとうございます」と、少し引いた表情で履歴書を手渡した。
しかし、勤務初日の夜、コンビニの日常は一瞬で崩壊した。
結衣が「ユニオンマート」の緑と青の制服を身に纏い、レジの前に立った瞬間から、街の空気が明らかに歪み始めたのだ。
「お、おでんを……大根と、がんもを、一つずつ……っ」
最初にレジに現れたのは、サラリーマンの服を着ているが、頭部が泥の塊のようになっている中位の妖魔だった。彼は「主様が深夜コンビニで労働の苦行を行われている」という噂を風の噂で聞きつけ、居ても立ってもいられずに馳せ参じたのだ。
妖魔は、結衣の前に立つだけで恐怖と法悦のあまり激しく痙攣し、体中から美味な「精神の澱(負の感情)」をボタボタと排出している。
「袋は、いりますか」
「あ、あ、ありがたき幸せにございます……っ! 袋など、滅相もない……!」
結衣が普通にレジを打つだけで、客(妖魔)は涙を流してひれ伏す。さらに、自動収集システムによって結衣への信仰を刻まれた全国の妖魔たちが、結衣に「挨拶(参拝)」をするために、コンビニの前に大行列を作り始めた。
深夜の国道沿いのコンビニ。その駐車場に、頭に無数の目を持つ女子高生風の異形、粘着質の触手を引きずるスーツ姿の男、さらには軽トラック並みの大きさをした犬の異形たちが、行儀よく一列に並んでいる。
彼らはレジで結衣からおにぎりやチロルチョコを受け取るたびに、「ははーっ!」と床にひれ伏し、感動のあまり泣き叫ぶ。当然、レジは全く回らない。
一般の人間のお客さんがタバコを買いにふらりと入ってこようものなら、店内の異様なプレッシャー(妖気と、おぞましい負の情念のスープ)に気圧され、泡を吹いて倒れてしまう。
明け方、マネージャーの元隊員は、血の涙を流しながら結衣の前に跪いた。
「結衣様……! あなた様をお迎えして、我が店の売り上げは通常の三百パーセントを記録いたしました……! しかし、しかし、一般のお客様が誰一人として生存して店を出られません! 店の前のバイパス道路は、巡礼の妖魔たちで完全に麻痺しております! 私の不徳の致すところです、どうか、どうかお許しを……!」
結衣は、レジの裏でチキンを揚げるトングを持ったまま、小さく溜め息をついた。
「……わかりました。お店の人に迷惑をかけるのは、良くないと思います。私、辞めますね」
「ああ、光栄の極みにございます……!」
こうして、結衣の最初のアルバイトは、わずか一日で終了した。
四
次に結衣が挑戦したのは、郊外の幹線道路沿いにある、深夜営業のファミリーレストランのホールスタッフだった。
オレンジ色のエプロンを着用し、髪を後ろで一つにまとめた結衣は、どこからどう見ても、少し不愛想なだけの十七歳の少女だった。
(よし。今度は、レジの前に立たないで、お料理を運ぶだけ。これなら、不審な人も集まらないはず)
結衣は自分の立てた「戦略」に、内心で小さく頷いていた。
だが、その淡い期待は、最初のテーブル席で粉々に打ち砕かれることになる。
「……ご注文は、お決まりですか」
結衣がハンディ端末を手に、無表情のままテーブルの横に立った、その瞬間。
そこに座っていた、仕立ての良いスーツを着た白髪交じりの紳士――その正体は、夜の路地裏で結衣に一撃で叩き潰され、洗脳された挙句にフられた古の大妖怪『白面』だった。彼は人間の美女、あるいは美紳士に化けて、結衣の足跡を狂信的に追跡していたのだ。
白面は、エプロン姿の結衣を見上げるなり、椅子から転げ落ちて床に膝を突いた。
「お、おおおお……! 我が愛しき主、榊結衣様……! まさか、このような、合成着色料と油にまみれた下俗の檻で、尊き御身を労働の汚泥に染めておられるとは……! ああ、なんという可憐さ、なんという高潔な美しさだ……!」
白面の目から、絶大な呪力を帯びた涙がボタボタとファミレスの塩ビの床にこぼれ落ちる。
「ご注文を……お伺いします」
結衣は、彼の芝居がかった絶叫を完全に無視し、冷たく言った。
「注文! 注文などという生温いもので、我が忠誠が示せると思うな! 店長! おい、この店の責任者を出せ! 今すぐこの店を、いや、このフランチャイズの親会社ごと、我が一族の資産で買い取る! この聖女を、このような時給千円の重労働から解放するのだ!」
白面は大声で叫びながら、懐から金色の延べ棒や、裏社会の闇ルートで取引される時価数億円のダイヤの原石をテーブルの上にぶちまけた。
周囲の深夜の客(トラックの運転手や、深夜徘徊の若者たち)は、突然ファミレスで始まった数億円規模の怪しい取引と、白面から漏れ出る人外の神気に恐怖し、悲鳴を上げて一斉に店から逃げ出した。
キッチンの奥から飛び出してきた店長は、目の前のダイヤの山と、白面の放つ圧倒的な「頂点の暴力」に脳の血管が千切れそうになりながら、白目を剥いて卒倒した。
結衣はハンディ端末をポケットにしまい、ペタンと白面の前にしゃがみ込んだ。
「……あの、お説教の時にも言いましたけど。お店の中で大声を出すのは、良くないと思います。近所迷惑ですし、店長さんがびっくりして倒れました。大人の言うことは、ちゃんと聞いてください」
「は、はいぃぃ……っ! お説教、いただきましたあぁぁ……!」
大妖怪は、ファミレスの床で悶絶しながら、至高の法悦に酔いしれた。結衣は深くため息をつき、その日のうちにファミレスの制服を返却した。
その翌日、結衣は「人と全く関わらない」という極限の選択肢として、郊外の大型軽配送センターの、深夜の荷物仕分けのアルバイトに登録した。ここなら、黙々と段ボールをコンベアに乗せるだけだ。誰とも話す必要はないし、自分の顔を見られることもない。
しかし、結衣がベルトコンベアの前に立ち、最初の段ボールを両手で持ち上げた、その瞬間だった。
「あ……、ああ……!」
隣のレーンで仕分けをしていた、冴えない中年男性の同僚スタッフが、突然、結衣の姿を見てその場に崩れ落ちた。
彼はほんの微かな霊感を持っているだけの一般人だったが、結衣の皮膚の下で蠢く「無数の黒い糸」と、彼女の瞳の奥で妖しくきらめく「金色の輪」――すなわち、この世の全ての闇を統べる神格のオーラを、本能レベルで感知してしまったのだ。
「神、神様だ……。ついに、ついに本物の神が、このクソみたいな配送センターに降臨された……!」
男性スタッフは、仕分け用の台車を放り出し、結衣の足元に縋り付いた。
「神様! あなたのような尊いお方が、なぜ、このようなアマゾンの段ボールを運んでおられるのですか! 滅相もない、そんな汚れた紙箱に触れてはなりません! 私が、私があなた様の代わりに、このセンターのすべての荷物を運びます!」
「……いえ、これは私の仕事なので、自分でやります」
「ダメです! あなたはそこに、ただ、ただ気高く立っていてくださればいい! さあ、皆の者! 手を止めろ! 神様がお立ちになられているぞ!」
男の熱狂的な叫びに、周囲の夜間スタッフたちも、結衣の放つ圧倒的な「支配のカリスマ」に脳を浸食され、次々と仕分け作業を放棄して結衣の前に跪き始めた。
「おお……、なんという尊い美少女……」
「神様、どうか我が家庭の不和をお救いください……っ」
気づけば、配送センターの広大なフロア全体が、結衣を本尊として崇める謎の宗教団体の儀式会場のようになっていた。フォークリフトは停止し、コンベアの上には段ボールが山積みにされ、夜勤のチーフまでもが「神よ、私に次の指示を……!」と涙を流してひれ伏している。
結衣は、手に持った段ボールを見つめたまま、ただ、静かに立ち尽くしていた。
(……どうして、みんな普通に仕事をさせてくれないんだろう)
ただ、普通に働いて、普通にアイスを買いたいだけなのに。彼女がどれほど望んでも、その「普通」の枠組みは、彼女自身の存在の重みによって、触れた瞬間に粉々に砕け散ってしまう。
結衣は段ボールをそっと床に置くと、誰にも気づかれないように、静かにセンターの裏口から立ち去った。
五
深夜二時半。誰もいない、静まり返った児童公園。
結衣は、ブランコの横にあるベンチにぽつんと座り、夜空を見上げていた。手元には、配送センターを飛び出す途中にコンビニで買った、少し溶けかけたバニラアイスのカップがある。木のスプーンでそれをすくい、口に運ぶが、いつもより味が薄く感じられた。
街灯の鈍いオレンジ色の光が、彼女の小さな肩を寂しく照らしている。
(私には、もう、居場所がないのかな)
地下の、カビ臭いけれど安全だったあの店はもう戻らない。普通にアルバイトをしようとしても、世界が勝手に彼女を魔王として扱い、神として祭り上げ、日常を破壊していく。自分の頭の悪さ。この先、どうやって生きていけばいいのかという、具体的で泥臭い不安。
どれほど強大な力を手に入れようとも、彼女の内側にあるのは、ただ母親の暴力から逃げ出し、誰の目にも留まらずに息を潜めて生きていたいだけの、十七歳の怯えた少女のままであった。結衣が膝を抱え、深く顔を埋めようとした、その時だった。
「おや、お嬢ちゃん。こんな時間に、一人で何してるんだい」
カサ、カサ、と落ち葉を掃く竹箒の音とともに、掠れた、しかし穏やかな声が届いた。
結衣が顔を上げると、そこには、緑色のボロボロの作業着を着た、腰の曲がった年老いた女性の清掃員が立っていた。
女性の顔は、長い歳月の労働によって深く皺が刻まれていたが、その瞳には、夜道を行く者を咎めるような鋭さは微塵もなかった。結衣の皮膚の下の黒い糸も、瞳の奥の金色の輪も、この老女には全く見えていないようだった。彼女に見えているのは、ただ「深夜の公園で、寂しそうにアイスを食べている、小さな女の子」の姿だけ。
「……アイス、食べてます」
結衣は、いつもの無機質な声で答えた。
「そうかい。でも、夜風は冷えるからね。あんまり冷たいものばかり食べてると、お腹を壊しちまうよ」
老女は、自販機の方へ歩いていくと、ガチャンと音を立てて、一本の温かい缶コーヒーを買ってきた。それを、結衣の冷たくなった手のひらの上に、そっと乗せる。
「ほら、これでも飲みな。頑張りすぎると、すぐにガス欠になっちゃうからね。少し休みながらおやり」
じんわりと、温かい熱が、缶の金属を通して結衣の手のひらから全身へと伝わっていく。結衣は、その缶を見つめたまま、言葉を失っていた。もはや裏社会の人間も、国家の術師も、日本中の妖魔も、白面も、誰もが彼女を「怪物」として恐れ、あるいは「神」として崇めて居る。だが、この老女だけは、彼女に何の力もないことを前提として、ただの「頑張りすぎている子供」として、純粋な優しさを差し出してくれた。
それは、結衣が生まれて初めて触れた、本物の、温かい「普通」だった。
結衣は缶を両手でぎゅっと握りしめ、胸の奥から込み上げる、名もなき感情に喉を詰まらせながら、小さく囁いた。
「……ありがとうございます」
「いいんだよ。さあ、気をつけて帰るんだよ、お嬢ちゃん」
老女は優しく微笑むと、再び竹箒を手に取り、夜の公園の落ち葉をカサカサと静かに掃き始めた。結衣は、その背中をじっと見つめながら、温かい缶コーヒーをごくりと一口、飲み下した。
甘くて、少し苦い、普通の味がした。
六
公園を後にした結衣の瞳には、それまでの迷いや絶望は、跡形もなく消え去っていた。
彼女の脳裏に、極めてシンプルで、絶対的な『結論』が導き出されていた。
(……そうか。私が、普通の人間の中に混ざろうとするから、みんなが壊れてしまうんだ。だったら、私が「普通」でいられる仕組みを、力ずくで作ればいい)
彼女は、スマートフォンの連絡先を開き、一つの番号をタップした。
「……もしもし、店長ですか。お店のビルの改修工事、私がやります。だから、明日から、お店を開く準備をしてください」
『は、はあ!? 結衣、お前、何言って――』
結衣は電話を切り、次なる命令を、彼女の「家畜ネットワーク」の深淵へと放った。
その瞬間、日本の闇の総力が、榊結衣という一個人の「平穏」を守るためだけに、極秘裏に、かつ超高速度で稼働し始めた。
店で結衣に拷問の様な行為を強要した結果、彼女の傀儡となった政財界の超大物・富永が、その莫大な資金力と人脈を動かし、ビルの改修工事に必要なすべての法的書類と、行政への根回しを完璧に完了させた。警察の摘発情報は、上層部からの「超法規的圧力」によって、一瞬にして歴史の塵へと葬り去られた。
さらに、結衣に叩きのめされ降伏した最強の大妖怪・白面が、日本全国の有力な妖魔たち(今は全員、結衣の家畜)を総動員し、深夜の新宿に「幻影の建設部隊」を派遣した。
ドォン、ドォン、と深夜の雑居ビル周辺で、人間の目には見えない呪的な工事が音もなく進められていく。
耐震基準を遥かに超越した古代の結界術による補強。最新鋭の空気清浄システムを凌駕する、妖力を利用した「絶対防臭・防カビ空間」の構築。防火壁には、どんな火災でも絶対に燃えない「不磨の術式」が刻み込まれた。
夜が明ける頃には、ビルの地下は、以前の面影を絶妙に残しつつも、霊能者が「ここは神域の宮殿か」と卒倒するほどの、完璧に快適で、安全な「最強の聖域」へと生まれ変わっていた。
翌日の夕方、店長はピカピカになった地下の待合室で、あいた口が塞がらないまま立ち尽くしていた。
「おい、結衣……これ、本当にうちの店か? 行政の指導担当者が、さっき『これほど完璧なビルは見たことがない』って、涙を流して営業許可証を置いていったぞ……。お前、一体何者なんだ……」
結衣は、新しく設置された少し高級なソファに座り、スプーンでアイスを食べながら、平然と答えた。
「ただの、榊結衣です。店長、今日からまた、シフトに入れてください」
「ああ……! お前はやっぱり、うちの、いや、この街の女神様だ!」
店長は泣きながら、タバコに火をつけた。
こうして、結衣の「身の丈に合った平穏」は、世界を自らの足元に屈服させるという、極めて強引な手段によって、完璧に死守された。だが、結衣の日常には、もう一つだけ、小さな「変化」が加わっていた。
深夜二時。
静かな児童公園に、緑色の作業着を纏った、榊結衣の姿があった。
彼女は無表情のまま、不器用に竹箒を動かし、地面の落ち葉をカサカサと掃いている。
富永のペーパーカンパニーを通じて、結衣はあの公園の深夜清掃業務を「個人的に」買い取り、自分を「週に二回だけ入る、大人の事情で身元を明かせない、普通のアルバイト」としてねじ込んだのだ。
「おや、結衣ちゃん。今日も手際がいいねえ。助かるよ」
腰の曲がった清掃員の老女が、結衣の姿を見つけて優しく笑いかける。
「はい。ここ、掃き終わりました。ゴミ箱も、綺麗にしました」
「本当に偉い子だねえ。はい、これ。今日のご褒美だよ」
差し出されたのは、またしても、温かい缶コーヒーだった。結衣はそれを両手で受け取り、ベンチに並んで腰掛けた。
老女と並んで、夜空を見上げながら、温かい缶を口に運ぶ。
「最近、学校はどうだい。楽しいかい」
「……学校は、行ってないです。でも、今の仕事は、楽しいです。みんな、優しくしてくれますから」
「そうかい、そうかい。結衣ちゃんは良い子だからね。きっと、これからもっと、良いことがたくさんあるよ」
「……はい」
結衣の瞳の奥の金色の輪は、今、優しく、穏やかに凪いでいた。
世界が彼女をどれほど恐れ、魔王と呼ぼうとも、この小さな公園の片隅で、ただの一人の少女として缶コーヒーを飲む時間だけは、誰にも奪うことはできない。
魔王は、世界を自らの規律で縛り上げることで、自らのための「普通」を、完璧に守り抜いたのだった。
(『屍花は夜に咲く』・第八話「魔王の就職活動、あるいは日常の死守」 了)Noveliaとは?
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