『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第七話「連鎖する家畜、あるいは最強の失墜」
一
それは、目に見えないドミノ倒しのような、あるいは極めて効率的なネズミ講のような連鎖だった。
或る日の深夜において、国家公認の対妖魔特務機関「九局」の精鋭部隊が、榊結衣の理不尽な「道徳のお説教」によって肉体と精神を徹底的にへし折られ、無害な一般人として社会へ放逐された。その結果、関東一帯の霊的防衛網には、ぽっかりと致命的な「空白地帯」が発生することとなった。
この事態に、色めき立ったのは周辺地域――神奈川、千葉、埼玉などの奥地に潜伏していた、中位から高位の獰猛な妖魔(あやかし)たちだった。彼らはこれを「人間側の防衛線の崩壊であり、東京の縄張りを広げる千載一遇の好機」と完全に勘違いし、一斉に新宿の街へ向けて侵攻を開始したのである。
「ギギ……ッ、東京の闇を喰らい尽くせ……!」
「人間の情念が、あそこに一極集中している……!」
異形たちは夜の闇に紛れ、夥しい数の触手や爪を翻して東京へと攻め込んできた。
しかし、彼らがその先に待ち受けている存在の本質を知る由もなかった。
結衣にとっては、それはただの「最近、夜道でぶつかってくる質の悪い不審者の数がやたらと増えて、ものすごく面倒くさい」というだけの、極めて地味で不快な事象に過ぎなかった。
彼女は退勤途中の路地裏で、あるいは出勤前のパトロール中に、正面から躍りかかってくる数メートル級の異形たちを、いつものように感情の欠落した瞳で見つめ、機械的な動作でその首を掴み取っていった。
(……全部食べちゃうのは、後片付けが大変だから。あなたたちも、お仕事しなさい)
結衣は襲いかかる妖魔たちの核を掴み、その妖力の九割を「お残しはしない」の精神で、限界ギリギリまで吸い尽くした。
闇の奥で、結衣の喉が、熱い愛液を飲み干すように、ゴクリと官能的な音を立てて波打つ。限界まで搾り取られる妖魔の肉体は、恐怖と、人外の圧倒的な抱擁による至高の快感にガクガクと激しく痙攣した。結衣の皮膚の下で蠢く黒い糸が、彼らの存在そのものを内側から甘美に蹂躙し、絶対的な主(あるじ)の烙印を脳髄に刻みつけていく。吸い上げられるエネルギーの濁流に、結衣の胸の先端は過敏に突っ張り、ふう、と熱い吐息が零れた。喰らう側と喰らわれる側の、おぞましくも甘美な人外の交わりが、路地裏の影で何度も、何度も繰り返された。
牙を抜かれ、結衣の「規律」という名の絶対的な枷をハメられた妖魔たちは、東京を支配するどころか、その日のうちに「人間の負の感情を集めて結衣に貢ぐための、忠実な猟犬(家畜)」へと調伏されていった。
東京へ攻め込んできた地方の有力な妖魔たちが、結衣の前で次々と無害な羊に変えられ、逆に自分の故郷の山々や街へと戻り、そこでさらに新しい仲間たちに「魔王の恐怖」を感染させていく。
この爆発的な家畜化の連鎖は、瞬く間に日本国内を席巻していった。
そして一ヶ月もしないうちに、日本の闇の生態系は完全に一変した。
もともと俗世間の支配や他者への干渉に一切興味がなく、山の奥深くで大人しく隠居しているごく少数の「無害な隠者」のような妖を除き、日本国内に存在するほぼ全ての妖魔が、気づけば榊結衣の足元に平伏し、せっせと人間の嫉妬や怨嗟を集める下僕と化していたのである。
二
当の「魔王」である結衣の現状は、至って平和そのものだった。
日本中の闇(負の感情)が、自動的に彼女のいる雑居ビルの周辺へ霧のように集まってくる完璧なシステムが完成したため、彼女の胃の腑はかつてないほどに完璧に満たされていた。
以前のような、内臓を火あぶりにされるような狂おしい飢餓感に襲われることはもうない。血色の悪かった彼女の肌は、最近では少しばかり健康的な白さを取り戻し、髪の毛も心なしか艶を帯びている。
「結衣、お前最近本当に肌ツヤいいな。なんか、高級なエステにでも通い始めたか? お前が入る個室、最近じゃ霊能者の客が『ここは日本で一番神聖なパワースポットだ』とか言って、拝みながらチップ置いていくぞ」
地下の待合室で、店長が感心したようにタバコの煙を吹き出しながら声をかけてくる。
結衣は「そうですか」と短く応え、支給された冷たいバニラアイスのカップを木のスプーンで静かに口に運んだ。
(……最近、自分からパトロールに行かなくても、毎日ご飯が降ってくるから、すごく楽)
結衣は内心で、この素晴らしいライフハックの完成に深く満足していた。
定時に退勤し、誰にも邪魔されずにアパートに帰り、安アパートの部屋でアイスを食べて眠る。彼女の望む「身の丈に合ったミニマムな平穏」は、完全に達成されたはずだった。
しかし、日本の闇の生態系がこれほど急激に、かつ完璧に一元化されたことは、眠れる「真の怪物」を呼び覚ますノイズとなってしまった。
その日、俗世間に一切の興味を持たず、数百年もの間、日本の霊的な境界の奥深くで果てしない眠りについていた、古の「最強」の存在が目を覚ました。
それは、神格すら超越した大妖怪であり、かつて数々の英雄や術師たちが束になっても傷一つつけられなかった、天災そのものの具現化――通称『白面(はくめん)』と呼ばれる、絶大な暴力を宿した存在だった。
白面は、権力にも、人間の矮小な情念にも興味はなかった。しかし、自分が眠っている間に、日本全土の闇が一つの意志によって完全に統べられ、巨大な「家畜の檻」に変えられている異常な事実に、純粋な好奇心と、微かな不快感を覚えた。
「よかろう。世界を裏側から一枚の規律で塗り替えたという、未知の魔王……。その器、この我が直に見極めてくれようぞ」
空間の次元をその爪で容易く引き裂き、圧倒的な神気と暴虐のオーラを纏った「最強」は、俗世のノイズに満ちた新宿の街へと、静かに降臨したのだった。
三
午前三時半。退勤した結衣が、いつもの寂れた路地裏へと足を踏み入れた瞬間だった。
ドォン、と大気が重力そのものを増したかのように、激しく地鳴りを立てて震えた。
周囲のビル風がピタリと止まり、アスファルトの裂け目から、この世のものとは思えないほど純白で、しかし禍々しい、圧倒的な密度の呪力が噴き出す。
路地裏の影に潜んでいた結衣の家畜(妖魔)たちが、その絶対的な上位存在の気配を察知し、恐怖のあまり一切の身動きを奪われて硬直した。
空間がメキメキと音を立てて歪み、そこから現れたのは、布切れ一枚を纏った、この世のものとは思えないほど美しい、しかし瞳の奥に狂暴な捕食者の輝きを宿した男の姿――「最強」の白面だった。
「ククク……、お前が噂の『魔王』か。随分と貧弱で、小娘の器ではないか」
白面は傲然と微笑み、結衣に向けて一歩を踏み出した。彼が動くだけで、周囲のコンクリートがその圧力で粉々に砕け散り、砂塵となって舞い上がる。それは、これまでの裏社会の人間や下級の妖とは、明らかに「暴力の次元」が異なる、真の最強の証明だった。
「我が名は白面。この国の闇の頂点に立つ者だ。小娘、我が眠っている間に調子に乗ったようだが……その傲慢な規律ごと、ここで我が噛み砕いて――」
まさに、天災が顕現したかのような圧倒的な宣戦布告。
しかし、対峙する結衣の内心は、相変わらず世界の前提から激しくズレていた。
(……あ、また夜道に変な人が出てきた。なんか、すっごく光ってて、声が大きくてうるさい。早く帰ってアイスの残りを食べたいのに……)
結衣にとって、目の前の「最強」は、大妖怪でも天災でもなかった。ただの「夜道で大声を出す、すこぶる迷惑で、後片付けが面倒くさそうな不審者」だった。
しかし、「お残しは、ダメ」という彼女の内なる鉄の規律が、彼女の肢体を無慈悲に動かした。面倒だが、この不審者もいつも通りに処理して、懇々と説教をしなければ、明日の平穏な睡眠は手に入らない。結衣は小さく溜め息をつくと、静かに、一歩前へ踏み出した。
「最強」が、その圧倒的な爪を振り下ろそうとした、まさにその刹那だった。
四
――ズドン。
何が起きたのか、静止していた家畜の妖魔たちにも、そして「最強」である白面自身にすら、全く理解できなかった。
気づいたときには、白面の美しい顔面は、路地裏の汚れたコンクリートの地面へと、文字通り「完全に埋没」していた。
結衣が、ただただ圧倒的な人外の速度と質量をもって、彼の顔面を掴み、そのまま床へと叩きつけたのだ。白面が纏っていた絶対的な神気も、空間を切り裂く術式も、結衣の「ただ硬く、ただ速い」という原始的で圧倒的な暴力の前には、何の防御壁にもならなかった。
自慢の呪力は結衣の指先から一瞬で九割がた吸い尽くされ、白面の肉体は完全に脱力して地べたに這いつくばった。
まさに、即落ち2コマ。
「最強」から「無様な敗北者」への転落は、わずか一瞬で完了した。
「……あの、夜道で急に大声を出すのは、良くないと思います」
頭の上から降ってきたのは、やはり、中学生の道徳の教科書を棒読みしたかのような、平坦で理不尽な「お説教」だった。
結衣はペタンと地べたにしゃがみ込み、顔面を泥に染めた白面を見下ろしている。
「近所迷惑ですし、ビルが壊れたら、誰が直すんですか。乱暴なことをしても、誰も褒めてくれません。争いは何も生まないって、学校の先生も言っていました。だから、ちゃんとお家に帰って、普通に生きてください」
白面の脳髄の中で、何百年もの間培われてきた「最強のプライド」と倫理観が、その圧倒的な実力差と、目の前の怪物の「あまりにも低次元で、しかし絶対的な正論」のギャップによって、跡形もなく粉々に擦り潰されていった。
恐怖。畏怖。困惑。
しかし、その絶望の底から、白面の胸中に湧き上がったのは、これまで経験した事のない、対妖魔機関の隊員たちをも狂わせた、異常なまでの「感動」と「恋情」だった。
(ああ……、これほどの暴力を持ちながら、この者はなんと気高く、純粋な規律を説くのだ……! この泥塗れの現世に、これほど無垢で、圧倒的な聖女が存在したというのか……!)
ボロボロになった白面は、泥水の中からカッと目を見開き、結衣の両手を掴み損ねながら、叫んだ。
「素晴らしい……! お前こそが我が真の主、いや、我が妻に相応しい! 頼む、小娘……我が妻になってくれ! 共にこの国を――」
天を衝くような、渾身の求婚(プロポーズ)。
だが、結衣は、その狂信的な瞳を前に、眉一つ動かさずにピシャリと言い放った。
「……あの、お断りします。私は、普通に一人で生きたいので。あと、お店の邪魔をすることと、ここで起きたことを誰かに言うのは禁止です。約束、守ってくださいね」
結衣の瞳の金色の輪が冷たくきらめいた瞬間、白面の魂の深淵に「秘密厳守」と「干渉不可」の鉄の規律が深く刻み込まれた。
求婚を秒で断られた最強の大妖怪は、ガーンと目に見えるほどのショックを受けながらも、結衣の言葉(洗脳)を絶対の法として刻み込まれ、フラふらと立ち上がった。
数日後。
遠隔の魔術回線で、この「最強の即落ちと、その後の異常な精神調伏」を目撃していた久世玲二は、ついに自室で泡を吹いて卒倒していた。
「あの『白面』すら……一撃で屠り、お説教という名の精神汚染で求婚させ、挙句にフッて手下に変えた……。あの女は、もう魔王なんてレベルじゃない。世界の神にでもなる気か……!」
一方、地下の薄暗い待合室。
「守り神」として店長からさらに特別待遇を受けるようになった結衣の個室の前に、不自然なほどスタイルの良い、絶世の美女の姿(人間の姿に化けた白面)があった。
彼は結衣への狂信的な愛と規律を胸に、今では完全に「お店の常連(お得意様)」と化し、毎晩のように巨額のチップを置いて結衣をご指名している。
結衣は、高級なチョコレートを常連(白面)から貰い、それを小さく齧りながら、スマートフォンの画面を眺めていた。
世界がどれほど彼女を恐れ、崇めようとも、彼女の望みは変わらない。今日も美味しいご飯が食べられて、明日も静かに眠れる。その平穏があれば、それでよかった。
(『屍花は夜に咲く』・第七話「連鎖する家畜、あるいは最強の失墜」 了)Noveliaとは?
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