『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第一話「始まりの日、あるいは終了」
一
湿ったコンクリートの匂いと、安価な合成洗剤の香料が混ざり合う路地裏。錆びついた非常階段の隙間から、濁った雨水が絶え間なく滴り落ちていた。
榊結衣は、その雫がアスファルトの窪みに小さな波紋を広げ、すぐに消えていく様をただ見つめていた。十七歳の彼女にとって、世界はその程度の明度と色彩しか持っていなかった。
物心ついた頃から、家の中は常にアルコールの臭気と、母親の金切り声で満たされていた。言葉の代わりに飛んでくる平手打ちや、投げつけられるガラス瓶は、結衣にとって重力や気圧と同じ「あらかじめそこにある不条理」だった。学校の教室でも、彼女の席の周りだけが真空であるかのように、誰も声をかけてはこなかった。
彼女が望んでいたのは、贅沢でも劇的な救いでもない。ただ、誰の目にも留まらず、息を潜め、明日の朝を静かに迎えられるだけの平穏だった。冬の陽だまりのような、ささやかで、誰も傷つけない時間が欲しかった。
しかし、運命という名の機構は、彼女のささやかな願いを容易に噛み潰した。
耐えかねて家を飛び出した夜、駅前で声をかけてきた男の笑顔は、冷え切った指先に差し出された使い捨てカイロのように温かく見えた。連れて行かれた事務所で書かされた書類の束が、何を意味するのかを知る由もなかった。
「これで君も自立できる」
男の言葉の裏にあったのは、精巧に偽造された債務契約書と、彼女の肉体を換金するためのシステムだった。逃げ道を塞がれた結衣は、名前のない雑居ビルの地下へと押し込まれた。そこは、蛍光灯の雑音が絶えず鼓膜を揺らす、違法風俗の待合室だった。
最初の数週間、結衣の身体は拒絶の悲鳴を上げ続けた。執拗な暴力、食事を抜かれる飢餓感、そして思考を鈍らせるために強制される粗悪な薬物。だが、人間の精神は奇妙な適応力を持っている。
結衣は、自分の意識を肉体から数メートルほど引き離し、天井の隅から自らを見下ろす術を覚えた。殴られているのは自分に似た人形であり、汚されているのはただの容れ物に過ぎない。
「大丈夫、これをやり過ごせば、いつかは静かになる」
そう自分に言い聞かせ、痛みを機能的な事象として処理した。ただ穏やかに生きていたいという願いは、いつしか「ただ死なずにそこにいる」という生存本能の最低ラインにまで削ぎ落とされていた。
二
その夜、部屋に漂っていたのは、いつもの安物の香水と煙草の煙ではなく、消毒液に近い無機質な臭気だった。
現れた客は、その空間に全くそぐわない男だった。仕立ての良い濃紺のスーツを纏い、年齢は二十代後半にも、四十代前半にも見えた。彫刻のように整った顔立ちには、欲望も、加虐心も、およそ人間らしい感情が一切見当たらない。ガラス玉のような瞳が、結衣の痩せ細った肢体を冷淡に値踏みしていた。
男は結衣に触れようとはしなかった。内ポケットから細長い金属製のケースを取り出し、中から一本の透明なアンプルと注射器を取り出した。液体は、月光を反射する水のように澄んでいた。
「少し眠くなるだけだ」
男の声は、医療機器の動作音のように平坦だった。
拒絶する言葉を紡ぐだけの気力は、結衣には残っていなかった。ただ、冷たい針が二の腕の皮膚を貫く感覚だけが、妙に鮮明に伝わってきた。
数秒の後、結衣の世界は暗転ではなく、烈火のなかに叩き落とされた。
「あ、――ぐがぁっっ、」
喉の奥から、自らのものとは思えない絶叫がせり上がった。
眠くなるなどという言葉は、致命的な嘘だった。血管の中に沸騰した鉛を流し込まれたような、凄絶な熱量が四肢を駆け巡る。骨の髄が内側から爆発を繰り返すように軋み、内臓が雑巾のように雑に捻り上げられる。
結衣はベッドから床へ転げ落ち、汚れた絨毯に爪を立てた。指先が割れ、血が滲むが、その痛みすら掠れるほどの激痛が全身を支配している。胃液と、肺から逆流した血混じりの嘔吐物が床を汚した。眼球の裏側が焼け付くように熱く、視界は真っ赤に染まっていく。
「被験体No.72……適合率、低いな」
男は、のたうち回る結衣を見下ろしたまま、一歩も動かなかった。手帳を取り出し、万年筆で淡々と文字を刻んでいる。その筆跡には一切の乱れがなかった。
結衣の身体は、限界を超えて弓なりに反り返った。血管が皮膚の表面に黒い樹形図のように浮き上がり、破裂した毛細血管から滲んだ血が、全身を赤く染めていく。
なぜ、自分ばかりがこんな目に遭うのか。ただ、静かに暮らしたかっただけなのに。世界はどこまで自分を擦り潰せば気が済むのだろうか。
やがて、激しい痙攣の果てに、結衣の肉体から一切の力が抜けた。
潰れた肺が最後の空気を吐き出し、二度と膨らむことはなかった。心臓の狂おしい鼓動が、不意に、完全に停止する。
男は静かに近づき、結衣の首筋に二本の指を当てた。数秒の沈黙の後、指を離す。
「……失敗か」
男の口調には、落胆も憐れみもなかった。ただ、実験器具が破損したときのような、淡々とした事実の確認だった。男は器具を素早く片付けると、鍵もかけずに部屋から去っていった。
残されたのは、血と涙、吐瀉物と尿に塗れた少女の死体だけだった。壁の掛け時計が、チクタクと無機質な音を刻み続ける。その部屋の空気は、完全に死に絶えていた。
三
深夜二時十三分。
外を走る深夜トラックの振動が、微かに部屋の窓ガラスを震わせた。
ぴくり、と結衣の右手の薬指が動いた。
それは死後硬直による反射ではなかった。
ドクン、と、停止していた心臓が、一度だけ力強く脈動した。それを合図に、部屋の中に満ちていた死臭が、一瞬にして霧散する。
破裂していた血管が、内側から縫い合わされるように急速に結合していく。潰れていた肺胞が、飢えた獣のように外気を吸い込み、驚異的な速度で酸素を全身に送り届けた。絨毯に擦れて折れていた肋骨が、パキパキと不気味な音を立てて正しい位置へと収まっていく。
皮膚の下を、無数の黒い糸のようなものが蠢いていた。それは肉を破壊しながら、同時に、より強固な何かへと再構成していく作業だった。結衣の意識の底で、何かが弾けた。
ゆっくりと、結衣は瞼を持ち上げた。
映し出された天井の景色は、先ほどまでとは全く異なっていた。暗闇であるはずの部屋の隅々が、まるでお湯の中に落としたインクのように、奇妙な色彩を帯びて鮮明に見える。
彼女の瞳の奥、虹彩の境界線には、人間には存在しない、細い金色の輪が静かに浮かび上がっていた。
四
翌朝、結衣はいつものように待合室のソファに座っていた。
昨夜の出来事は、ひどく質の悪い悪夢のようだった。床の汚れは、店のスタッフが文句を言いながら雑巾で拭き取ったが、結衣自身には傷一つ残っていなかった。
「おい、結衣。さっさと部屋に入れ」
店長の粗暴な声に、結衣は「はい」と短く応えて立ち上がった。
身体が、異様に軽かった。まるで重力が半分になったかのような錯覚を覚える。
入ってきた客は、酒臭い息を吐きながら、挨拶代わりに結衣の頬を強く叩いた。いつもなら、脳を揺らすような衝撃と、鋭い痛みが走るはずだった。
しかし、結衣が感じたのは、「皮膚に硬い物体が接触した」という乾いた事実だけだった。痛みはほとんどない。客が彼女の首を絞め、肉体に爪を立てても、結衣の心は驚くほど冷徹だった。
(あ、痛くない)
客の顔を見つめながら、結衣はどこか他人事のように考えていた。首の皮膚が裂け、微かに血が滲んだとしても、客が背中を向けた瞬間に、その傷は静かに塞がっていく。
「まあ……こういうこともあるのかもしれない」
結衣はそれ以上の思考を放棄した。壊れ果てた彼女の精神は、この異常事態すらも、「生き延びるための新しいルール」として、無理やり日常の枠組みへと押し込めてしまった。ただ穏やかに、波風を立てずに過ごせるなら、身体がどう変わろうと知ったことではなかった。
だが、世界は彼女をその停滞に留めてはくれなかった。
夜が更けるにつれ、街の景色が変貌を始めていた。雑居ビルの隙間、ネオンサインの影、行き交う人々の足元。そこには、これまで見えなかった「歪み」がのたうっていた。
サラリーマンの格好をした男の背中から、粘着質の黒い触手が伸びてアスファルトを這っている。女子高生の顔の隙間から、無数の細い目がこちらを凝視している。
古来、人間が「妖」あるいは「外法」と呼んで遠ざけてきた存在。彼らは、現代の過密都市のノイズに紛れ、確かにそこに息づいていた。
そして彼らは一様に、結衣の姿を見ると、怯えたように道を開けるのだった。
五
高級ホテルの最上階。遮光カーテンが引かれた一室で、久世玲二はタブレットに表示された監視カメラの映像を凝視していた。
画面に映っているのは、昨夜、自分が確実に「廃棄」したはずの少女、榊結衣の姿だった。彼女は何事もなかったかのように、昼の街を歩いている。
「……あり得ない。あれが、生きているというのか」
玲二の手に持った万年筆が、パキリと音を立てて折れた。インクが指先を汚すが、彼は気にも留めない。
あの薬は、組織が数百年かけて再現した、人外の因子を強制的に覚醒させる「異血」のプロトタイプだ。過去七十回以上の実験において、適合しなかった人間は例外なく、細胞レベルで崩壊して死に至った。結衣もまた、心停止を確認したはずだった。
「適合失敗ではなく、……完全な融合、か」
玲二のガラスのような瞳に、初めて狂熱に似た光が宿る。
その頃、結衣は薄暗い路地裏を歩いていた。
背後から、明確な悪意を持った「影」が近づいてくるのを感じる。それは人間の形を崩した、飢えた怪物だった。
以前の結衣なら、恐怖に身をすくませていただろう。しかし今、彼女の胸に湧き上がってきたのは、冷たい捕食衝動だった。
(邪魔を、しないで)
私はただ、静かに生きていたいだけなのに。
結衣は足を止め、ゆっくりと振り返る。その金色の瞳が、夜の闇の中で、残酷なほど美しく輝き始めていた。
彼女を虐げ、擦り潰そうとしたこの世界そのものが、すでに巨大な怪物に喰われつつあること。そして、その戦いの中心に自分が引きずり込まれていくことを、結衣はまだ、何も知らなかった。
(『屍花は夜に咲く』・第一話 了)Noveliaとは?
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