『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第十三話「居候の怪異、あるいは家庭の歪み」
一
六畳一間の安アパートの鉄扉は、建付けが悪く開閉のたびに錆びた悲鳴を上げる。勤務を終えた榊結衣が、ビニール袋に入った明治エッセルスーパーカップの冷たさを手のひらに感じながら鍵穴にキーを差し込んだとき、内側から鍵がかかっていないことに気づいた。ノブを回すと、部屋の空気はいつもと異なっていた。カビと安物の洗剤の匂いに混じり、微かに焦げたような、そしてどこか甘ったるい、人間ではない生き物が放つ特有の「異血」の残臭が漂っている。
薄暗い室内へ一歩足を踏み入れる。万年床の煎餅布団が奇妙に膨らんでおり、そこから不自然なほど白い毛並み――白髪の少女の頭頂部が覗いていた。少女は布団にくるまったまま、結衣の帰宅を待つ風でもなく、ただ小さく顎を動かしている。
結衣がドライな視線を室内へ走らせると、小型冷蔵庫の扉が微かに開いたままになっていた。昨日、銀星会の構成員から貰ったチップの一部で購入しておいたお徳用のバニラアイスのファミリーパックが、コタツの上に無造作に放り出されている。中身はすでに空だった。
「人のアイスを勝手に食べるのは泥棒です。泥棒は警察に捕まりますし、とても良くないことだと思います」
結衣の口調は、学校の担任が規則違反を指摘するときのように平坦で、抑揚がなかった。
布団が跳ね上がり、そこから現れた少女――那留は、口元に白いクリームをなすりつけたまま、結衣を凝視した。その瞳の奥には、結衣と同じ、細い金色の輪が歪にきらめいている。
「うるさいわね……! 私だって、こんな安物の、牛乳の薄い油の塊なんかで満足したくて食べてるわけじゃないのよ! でも、喉が焼けるの。内臓が、ずっと熱くて、何かを詰め込まないと、自分が消えてしまいそうなのよ!」
那留の剥き出しの敵意と、それに相反する切迫した飢餓の叫び。それはかつて結衣が雑居ビルの地下室で、自らの変貌に怯えながら感じていた、内臓を素手で嬲られるような狂気そのものの残影だった。那留の細い指先が、シーツを引っ掻き、爪が繊維を引き裂く。彼女の全身から漏れ出る人外の呪力は、六畳の空間の空気を物理的に歪ませ、窓ガラスを微かに振動させていた。
結衣は、手に持っていたコンビニの袋をそっと床に置いた。怒るでもなく、同情するでもない。彼女の思考は常に、自身の日常をいかに滞りなく維持するかという一点において、極めて事務的に機能している。
「……人間を丸ごと喰うのは、後片付けがとても面倒です。お洋服も骨も、綺麗に消すのは疲れます。だから、私の仕事を手伝ってください。ご飯なら、お店にたくさん送られてきますから」
「え……?」
拍子抜けしたような那留の声を無視し、結衣は溶けかけた新しいアイスの蓋を剥がし、木のスプーンを突き立てた。
二
午後十一時半。新宿の雑居ビル地下、かつて風俗店の待合室だった場所は、今や銀星会の手によって「極上の聖域」へと改装されていた。カビ臭さは消え、空気清浄機が静かな駆動音を立てている。
ソファーの対面に座らされているのは、銀星会の若頭・鬼頭が「間引き」のために連れてきた、組織の規律を破った不良構成員の男だった。男は五体投地のように床に額を擦り付け、ガタガタと歯の根を合わずに震えている。結衣の後ろには、状況を飲み込めないまま、飢えで目を血走らせた那留が立っていた。
「那留さん。あそこにいる人の頭から、紫色のモヤモヤが出ています。あれを、少しずつ吸うんです。全部吸うと、その人は動かなくなって、片付けが大変になりますから」
結衣の事務的な指示が終わるより早く、那留の限界を迎えていた理性が消し飛んだ。
「あ……ああ……!」
那留は獣のような俊敏さで床を蹴り、這いつくばる男の背中に跨った。突如として、部屋の空気が一変する。それは、これまで結衣が保ってきた「ドライな作業」の領域を遥かに逸脱した、人外の獣たちが放つ生々しい情欲の匂いだった。
那留の白い指先が、男の肉厚な首筋に、割れた磁器のような鋭さで食い込む。ここからの光景は、まさに肉の深淵を覗き込むような、蠱惑的で、おぞましくも美しい狂宴へと変貌していく。那留の喉から、くぐもった、しかし濡れた吐息が漏れる。彼女の細い肢体は、男が発する凄絶な恐怖の情念を肌で感じ取った瞬間、まるで熟れすぎた果実が弾けるように、淫らな歓喜に震え始めた。
「ん……、あ、うあ……っ」
少女の唇が、男のうなじの皮膚に吸い付く。その瞬間、彼女の口腔から覗く牙は、半透明の黄金色に変色し、男の肉を、そして霊的な髄を直接愛撫するように深く、深く刺し貫いた。
男の体内から溢れ出す、煮詰まった悪意と生命の奔流。それは那留の乾ききった喉を、熱い蜜となって滑り落ちていく。
「はぁ……、ん、んう……っ、美味しい……、すごい、これ……ッ!」
那留の背中が、弓なりに大きくのけ反る。彼女の白髪は、男の汗と自らの淫らな唾液で額に張り付き、金色の瞳は完全に焦点の定まらない快楽の深みへと融解していた。皮膚の下で、無数の白い糸がうねりを上げ、男の恐怖を、絶望を、その根こそぎ貪り尽くそうと、吸入の速度を爆発的に上げていく。
男は絶叫することすら許されず、ただ那留の肢体がもたらす、死を孕んだ極上の愛撫の前に、ドロドロの肉塊へと変えられていくような錯覚に囚われていた。那留の腰の動きは、捕食というよりは、血肉を媒介にした濃厚な交わりのそれであり、部屋全体が、彼女の放つ甘ったるい、そして肉感的な熱気に満たされていく。
三
「……ダメです。加減をしてくださいと言いました」
那留が男の魂を完全に吸い尽くし、ただの抜け殻(死体)に変えようとしたその刹那、結衣の冷徹な声が響いた。
しかし、快楽の絶頂にある那留の耳に、その言葉は届かない。
「うるさい……! 邪魔しないで、これは私のものよ……っ!」
那留は男の首を掴んだまま、結衣に向けて、もう一方の爪を鋭く振り下ろした。人外の膂力が放つ風圧が、改装されたばかりの壁のクロスを数メートルにわたって引き裂く。
だが、次の瞬間、那留の視界は、天地が逆転するほどの衝撃と共に床へと叩きつけられていた。
「が、は……っ!?」
何が起きたのか、那留の脳は理解できなかった。
結衣は、ただ一歩、踏み込んだだけだった。那留の超高速の爪撃を、避けることすらせず、その軌道を素手で正面から「掴み、軌道を変えた」のだ。
結衣の手のひらが、那留の顔面を正面から覆う。
ミシミシ、と那留の頑強な頭蓋骨が、人間の少女の手のひらによって、まるで見えざる万力に挟まれたかのように軋みを上げる。
「あ……、あ、あ……」
那留の全身から、一瞬にして力が抜けた。
そこにあるのは、圧倒的な、次元の異なる「格」の差だった。
那留もまた、久世の実験を生き延びた、世界に数人もいないはずの「成功例」の一人であり、戦術兵器並みの破壊力を持っているという自負があった。国家の術師を呪殺し、街の妖魔を喰らう力があった。
しかし、目の前にいる榊結衣という怪物の前では、それらすべての力が、幼児の戯れ言のように霧散していく。
結衣の瞳の奥の金色の輪は、輝きを増すこともなく、ただ夜の湖のように静かに凪いでいた。そこには戦意も、怒りも、誇りすらもない。ただ「邪魔な障害物をどかす」という、純粋な質量の移動としての暴力がそこにあった。
那留は、自らの身体の下で蠢く白い糸が結衣の皮膚の下の「黒い糸」の気配を察知した瞬間、魂の根底から震え上がった。数万、数十万の本数の黒い棘が、いつでも自分の細胞を、遺伝子ごと擦り潰して家畜の肉に変えられるという絶対的な事実が、言葉を介さずに脳髄へ直接送り込まれてくる。
手の届かない相手。戦う、逃げる、あるいは命を乞うという選択肢すら、同じ平面に立っていなければ成立しない。那留にとって、現在の結衣は、天災そのものだった。富士山が噴火するのを個人の暴力で止められないように、目の前の少女が手を握り込めば、自分という存在は次の瞬間にこの世から完全に抹消される。その絶望的な無力感が、那留の鋼のプライドを、一瞬にして乾いた砂のように崩壊させた。
「ひ……、ひい、あ……」
那留の目から、恐怖のあまり熱い涙が溢れ、結衣の手のひらを濡らす。結衣は、那留の顔を床に固定したまま、いつもの平坦な、道徳の教科書のようなお説教を始めた。
「家畜は、計画的に使わなければいけません。一度に全部食べたら、明日からのご飯がなくなります。店長さんも困りますし、何より、死体を片付けるのは本当に面倒なんです。わかりましたか」
「は、はい……っ、わかり、ました……っ、ごめんなさい……!」
大妖怪すらひれ伏せさせた魔王の「規律」が、那留の生存本能の最深部に、消えない楔となって打ち込まれた瞬間だった。
四
翌々日の朝、六畳一間のアパートには、カサカサと不器用に箒を動かす音が響いていた。
「……そこ、まだカビの匂いが残っています。もっと真面目に掃いてください」
結衣はコタツに入り、テレビのニュース番組をぼんやりと眺めながら、背後の白髪の少女に指示を出していた。
那留は、エプロン姿で涙目を浮かべながら、必死に床を雑巾で拭いている。あの日以来、彼女は完全に結衣の放つ圧倒的なカリスマと、捕食時の冷徹な格の違いに脳を焼かれ、自ら進んで「妹分」――という名の、無給の家政婦として奉仕する身へと収まっていた。
「わ、わかってるわよ……! ちゃんとやってるじゃない!」
口答えをしながらも、那留の手元は震えている。結衣がチラリと視線を向けるだけで、彼女の皮膚の下の白い糸が恐怖で萎縮するのがわかる。
結衣は、木のスプーンでスーパーカップのバニラ味を静かに削り、口に運んだ。部屋は少し狭くなったし、アイスの減るスピードも早くなった。しかし、那留が家事の大部分を肩代わりしてくれるおかげで、結衣が「普通の人間の少女」を演じるための負担は、確実に減少していた。
世界がどれほど壊れようと、新しく闖入してきた同族の怪異がどれほど部屋を騒がせようと。榊結衣の胃の腑は凪いでおり、彼女の望む身の丈に合った平穏は、この六畳の歪んだ日常の中で、今度こそ完全に、誰の目にも留まらずに守られ続けていくのだった。
(『屍花は夜に咲く』第13話「居候の怪異、あるいは家庭の歪み」了)Noveliaとは?
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