『屍花は夜に咲く』
榊結衣、十七歳。彼女の願いは、ただ誰にも傷つけられることなく、静かに明日を迎えることだけだった。しかし、家庭内暴力と学校での孤立に蝕まれた日常は、人身売買組織の罠によって完全に踏み躙られ、その身は違法風俗の地下へと売り渡される。暴力と薬物、終わることのない搾取の中で、結衣の心は自らを守るために感情を切り離し、「生きる」ことすら惰性的な本能へと変質していった。
そんな彼女の前に現れた一人の男は、謎の薬剤を結衣へ投与する。それは人ならざる因子を強制的に覚醒させる禁断の実験であり、適合できなかった者は例外なく死に至るはずのものだった。激烈な苦痛の果てに結衣の心臓は停止し、男は実験失敗を確認してその場を去る。しかし深夜、完全に死んだはずの少女は、誰にも知られることなく再び息を吹き返した。
蘇生した結衣の身体は、傷を瞬時に癒やし、痛みすら感じない異質な肉体へと変貌していた。さらに彼女の瞳には、人間には見えない異形の存在が映り始める。現代都市の闇には、古くから人知れず息づいてきた妖異や怪物たちが潜み、人間社会の裏側では、人外を巡る巨大な勢力が静かに暗躍していた。そして、その怪物たちでさえ
『屍花は夜に咲く』 - 『屍花は夜に咲く』第四話「飽食の狂宴、あるいは無垢なる残骸」
一
六月の終わり、梅雨の湿気は雑居ビルの地下へ容赦なく沈殿していた。
換気扇のダクトからは、錆の混じった水滴が断続的に滴り、プラスチックのバケツを叩く乾いた音が部屋に響いている。
榊結衣はパイプ椅子に深く腰掛け、自分の平らな下腹部をじっと見つめていた。衣服の上からでも分かるほど、彼女の肉体は内側から微かに震えている。前回の「吸気(感情捕食)」からわずか二日。街の悪意や妖をいくら貪っても、人外の因子が求める本質的な渇きは、すでに表面的な欺瞞を許さないほどに狂い始めていた。
ああ、お腹が空いた。それは内臓を直接、熱い舌で愛撫され、じりじりと焼き焦がされるような、おぞましくも甘美な狂おしさであった。下腹部の底、子宮のさらに奥深くで、人としての理性をドロドロに溶かす淫らな熱量がとぐろを巻き、結衣の細い身体を激しく震わせる。喉の粘膜は、愛液のようにじっとりと湿った極上の生命(いのち)を求めて艶めかしく収縮を繰り返し、吐息のたびに、硬く突っ張った胸の先端が衣服の繊維に擦れて過敏な歓声を上げる。脳髄が、思考が、蕩けるような官能的渇きに完全に支配され、結衣は濡れた瞳で、己を極限まで満たしてくれる「濃厚な獲物」の気配を欲情するように索めていた。それは、魂を直接、淫らに貪り尽くしたいという、人外の獣が放つ極上の情欲そのものであった。
そこへ、店長が引きつった笑みを浮かべて現れた。
裏社会の超大物であり、数々の女性を精神的・肉体的に破壊してきた快楽殺人鬼の資産家――通称「富永」が、莫大な金を積んで結衣を指名したのだ。
富永は部屋に入るなり、内側から鍵を二重に閉めた。その手つきには、慣れた者だけが持つ淀みのない静けさがあった。彼は仕立ての良い高級なスーツのジャケットを脱ぎ、丁寧にハンガーへと掛ける。その下から現れたのは、異様なほどに白い、肉付きの薄い腕だった。
「君が噂の、すべてを搾り取る女の子か。なるほど、瞳に光がない。実に素晴らしい容れ物だ」
富永の声は、低く、どこか聖職者を思わせるほどに落ち着いていた。しかし、そのガラス玉のような双眸の奥には、ねっとりとした加虐の狂熱が濁濁と渦巻いている。彼は持参した黒い革製のトランクをベッドの上に置き、静かに解錠した。
中から現れたのは、医療用のシリンジと、琥珀色の怪しい液体が満ちたアンプル。そして、鈍い光を放つチタン製の拘束具や、用途の分からない細い金属製の器具の数々だった。
「まずは、その生意気な自意識を少し眠らせよう」
富永は躊躇うことなく結衣の腕を掴み、細い針を突き刺した。
瞬間、結衣の脳内を、強烈な目眩が襲った。視界が急速に歪み、世界の境界線が融解していく。合成薬物の急速な浸透により、結衣の膝は一瞬にして崩れ、床へとへたり込みそうになる。
富永はその様子を愉しげに観察しながら、慣れた手つきで結衣の身体を抱き上げ、ベッドの中央へと放り出した。
「おや、もう足元がふらついているね。可哀想に。でも、これからが本番だよ」
彼はベッドの四隅に設置された頑強な金具に、トランクから取り出したレザー製のベルトを連結させていく。ふらつき、まともな抵抗ができない結衣の手首、そして足首が、冷たい金属と硬い革によって容赦なく固定されていく。カチリ、カチリと、自由を奪う機械的な音が無機質に室内に響き渡った。
完全に大の字の形でベッドに縫い付けられた結衣を見下ろし、富永は満足げに、しかし狂気を孕んだ吐息を漏らした。彼にとって、この「無力化の儀式」こそが、至高の歓愉へのプロローグに他ならなかった。
二
富永の興奮は、結衣が拘束されてから一気に加速した。
彼の呼吸は荒くなり、端正だった顔立ちは、サディスティックな歓喜によって醜悪に歪み始めている。彼はトランクから、先端が細く尖った銀色のプローブを取り出した。
「この薬はね、痛覚を数十倍に跳ね上げる。指先で触れるだけで、君は悲鳴を上げることになる。さあ、私を愉しませておくれ」
富永は結衣の衣服を容赦なく切り裂き、露わになった白い肌に、冷徹な手つきで器具を這わせた。
細い金属の先端が、結衣の鎖骨、肋骨の隙間、そして過敏に波打つ脇腹へと突き立てられる。彼は結衣が恐怖に顔を歪め、命乞いをする瞬間を待ち望んでいた。肉体を蹂躙し、その精神が絶望の淵でパキリと折れる音を聴くことだけが、彼の歪みきった性欲を満たす唯一の手段だった。
しかし、結衣の反応は彼の予想を裏切るものだった。
薬物の効果で世界は歪んでいたが、結衣の瞳の奥に浮かぶ金色の輪は、むしろ一層の輝きを増していた。痛覚を跳ね上げるはずの薬品も、鋭利な器具による蹂躙も、人外のレベルで感覚が変質している結衣にとっては、「少し強い圧迫」程度にしか感じられない。
(……あぁ、この人、すごくいい匂いがする)
結衣の鼻腔を突いたのは、男の肉体から立ち上る、底知れない「異常性欲と加虐の狂気」の香りだった。それは、これまでに出会ったどの悪党よりも濃厚で、腐り落ちた果実のように蕩けるほど甘美な、極上の「御馳走」の芳香だった。
飢餓によって内臓を焼かれていた結衣の肉体が、歓喜に震え始める。喉の奥から、愛液のような唾液が溢れ出し、彼女は無意識のうちに唇を舌で湿らせた。
「なぜ泣かない? なぜ怯えない……! 私を見ろ、絶望しろ!」
富永は結衣の無表情に激昂し、さらに器具を深く突き立て、言葉攻めを激化させる。しかし、その剥き出しの敵意と支配欲こそが、結衣にとっての極上のスープだった。
我慢の限界だった。もう、一秒だって待てない。
パツン、と、異次元の怪力が室内に炸裂した。
結衣の手首を固定していたチタン製の拘束具が、信じられない力によって根本から引き千切られたのだ。ネジが飛び、革ベルトが弾け飛ぶ。富永が驚愕に目を見開いた瞬間には、結衣の細い両腕が、すでに彼の首筋へと真後ろから回されていた。
重力を無視したような動きで、結衣は富永の細い肉体をベッドへと激しく組み敷いた。立場は一瞬にして逆転した。
「が、は……っ!? な、んだ、この力は……!」
富永の驚愕の悲鳴を、結衣は自らの割れた唇で乱暴に塞いだ。吸血鬼のように牙を立てるのではない。狂おしいほどの熱情を込め、男の口元へ、そして剥き出しになった首筋へと執拗に深い口吻(こうふん)を交わしていく。
男の脳髄から溢れ出る、ドロドロに煮詰まった異常性欲と加虐の狂気が、目に見えない濃密な愛液となって結衣の喉奥へと流れ込んでくる。結衣はその精神の澱を、ストローのように貪欲に、力強く吸い尽くした。
触れ合う肌から、獲物の熱い血液の脈動が結衣の鼓膜を甘美に濡らす。エネルギーを飲み込むたびに、結衣の喉は歓喜の小刻みな震えを上げ、その肢体は至至の快感にのけ反った。男の存在そのものから純度の高い狂気が彼女の内臓へと直接吸い込まれ、全身の細胞が濡れた歓声を上げて目覚めていく。喰らう側と喰らわれる側が、ドロドロに溶け合って一体となるような、おぞましくも圧倒的に蠱惑的な、人外の交わりがそこにあった。
富永の瞳から、次第に狂気の光が消失していく。激しい痙攣の果てに、すべてを吸い尽くされた彼は、恐怖すら消え去った、聖人のような純白の笑顔を浮かべた。完全な幼児退行を引き起こし、無害な赤子へと浄化された男は、ベッドの上に力なく崩れ落ちた。
三
静寂が、深夜の個室を完全に支配していた。
ベッドの上には、すべての狂気と自我を吸い尽くされ、抜け殻となった富永が横たわっている。その顔には、先ほどまでの醜悪な加虐心は微塵もなく、まるで生まれたての赤子のような、無垢で純白な微笑が張り付いていた。
床には、彼が結衣を甚ぶるために持ち込んだ、冷たい光を放つチタン製の拘束具や、用途の分からぬ鋭利な銀色の器具が乱雑に散らばっている。そして、それらの隙間を埋めるように、厚みのある封筒から溢れ出た莫大な紙幣の束――店長すら見たこともないような巨額のチップが、無機質に転がっていた。
結衣はベッドの端に腰掛け、顎に手を当てて、その白紙になった男をじっと見つめていた。
彼女の虹彩の境界線で妖しく明滅していた金色の輪は、深い充足感とともに、今は静かに凪いでいる。あれほど彼女の内臓をじりじりと焼き焦がしていた、人外の凶暴な飢餓感は嘘のように消え去っていた。細胞のひとつひとつが極上のエネルギーで満たされ、皮膚の下を蠢いていた黒い糸たちも、満足したように眠りについている。
(……美味しい。今までで、一番)
結衣は小さく、自分の唇を指先でなぞった。
男の脳髄から搾り取った「異常性欲と加虐の狂気」は、思い出すだけで喉の奥が微かに濡れるほど、芳醇で甘美な御馳走だった。これほど純度の高い「負の遺産」を持つ人間は、そうそういるものではない。
いつもの結衣であれば、ここで合理的かつ冷徹に、痕跡を消すために男を丸ごと「完全捕食」していただろう。衣服の繊維一本、血の一滴すら残さずに咀嚼し、ブラックホールのような胃袋へ収めてしまえば、すべては最初からなかったことになる。警察の捜査も、裏社会の追跡も、完全に煙に巻くことができる。
しかし、結衣の学のない、けれど本能に直結した平坦な思考回路に、ふと新しい選択肢が浮かび上がった。
(待って。……この人を、今ここで全部食べちゃったら、それでおしまい?)
結衣は首を微かに傾げ、ベッドの上の男を観察した。
どれだけ大量に食べても、自分の肉体は数日もすればまた狂おしい飢えを訴え始める。それは、これまでの数日間で嫌というほど思い知らされた残酷な現実だった。その度に、新しい獲物を探し、命がけの戦闘や、気の遠くなるような隠蔽工作(後片付け)を繰り返すのは、徹底して平穏を望む結衣にとって、あまりにも「面倒くさい」ことだった。
(この店には、何度も通ってくれる常連さんがいる。店長はそれを、お得意様って呼んでいた)
そう、人間をその場で屠って消費し尽くすのは、極めて効率が悪い。
もしもこの男を殺さずに「飼い馴らす」ことができれば。この男が内側で勝手に生み出す、あの蕩けるように美味な狂気を、定期的に自分の元へ運んでこさせることができるのではないだろうか。まるで、乳牛から新鮮なミルクを搾り取るように。あるいは、果樹園の木から実を収穫するように。
(生かしておけば、またこの美味しい狂気が生まれる。お腹が空いたときに、私のために狂ってくれる。……その方が、ずっといい)
結衣の瞳の奥で、金色の輪が冷徹な知性を帯びて、再びきらりと明滅した。
彼女にとって、目の前の超大物は、すでに恐るべき殺人鬼でも、尊大な資産家でもなかった。ただの、効率の良い「自家発電式の最高級の餌箱」に過ぎなかった。
四
結衣はベッドに歩み寄り、幼児退行した富永の胸元を、その細い指先でぐっと強く押さえつけた。
男は拒絶するでもなく、ただ「ふう」と無垢な吐息を漏らし、結衣の冷淡な金色の瞳を、母親を慕う迷子のような目で見つめ返してくる。その魂の深淵に、結衣は自らの人外の意志を、深く、楔のように打ち込むことにした。
「ねえ、聞いて。あなたに、一つだけ大事なルールをあげる」
結衣の声は、深夜の地下室の空気に溶けるほど、平坦で、しかし絶対的な質量を持っていた。
「これから、またその頭の中が気持ち悪くなって、変なことをしたくて我慢できなくなったら……必ず、ここに来て。他の誰でもなくて、私のところへ来るの。分かった?」
富永の身体が、本能的な恐怖と圧倒的な快感の残滓で、ピクリと小さく痙攣した。彼の脳の、白紙にされた領域の一番深い場所に、結衣の言葉が「逆らえない生存本能」として刻み込まれていく。彼が再び狂気に染まり、加虐衝動を肥大化させるたび、彼の肉体は結衣の元へ歩を進めずにはいられないよう、精神の根底を組み替えられたのだ。
「それから、もう一つ。ここで起きたことは、絶対に誰にも言っちゃダメ。お店の外に出たら、あなたはいつも通りの、偉い人のままでいなさい。私を困らせるようなことは、何もしないで」
結衣はそう言い含めると、男の首に絡みついていた腕を、静かに引き剥がした。
男はしばらくぼんやりとしていたが、結衣の「外へ出なさい」という無言の圧力に促されるように、ゆっくりと起き上がった。その動作には、先ほどまでの無力な赤子の様子はなく、結衣から与えられた「いつも通りの偉い人」という命令に従うための、機械的な理性が宿り始めていた。
富永は乱れた衣服を、操り人形のような不自然な手つきで整えると、床に散らばっていた異常な器具の数々を、自分の黒い革トランクへと静かに収めていった。彼の瞳はまだ虚ろだったが、結衣が課した「秘密厳守」と「命令への絶対服従」という枷だけは、彼の細胞レベルにまで完全に浸透していた。
「……じゃあ、気をつけて帰ってね。またお腹が空いたら、呼ぶから」
結衣がドアの二重鍵を静かに開けると、富永は一度だけ、主への忠誠を示すように深く頭を垂れ、足音もなく夜の廊下へと消えていった。
部屋に残された結衣は、ベッドの上に転がっている大量の紙幣の束(大金)を見つめ、小さく首を傾げた。
結果として、彼女は裏社会を震撼させてきた最悪のシリアルキラーを、自らの「家畜」として完全に従属させ、その精神を都合よく洗脳してしまったのだ。しかし、結衣にそんな大層な自覚は微塵もない。彼女にあるのは、「これで後片付けの手間が省けた」という、極めて地味で家事的な安堵感だけだった。
翌々日の夜、高級ホテルの最上階。
裏社会の術師・久世玲二は、手元のタブレットに表示された、ある「信じがたい報告書」を前に、全身の血が凍りつくような戦慄を覚えていた。
忽然と姿を消したはずの巨頭・富永が、何事もなかったかのように社会へ復帰していたのだ。しかし、組織の密偵が探った彼の様子は、これまでとは明らかに異なっていた。あの大法不敵で残虐極まりなかった男が、驚くほど静かに、かつ規則正しく資産を動かし、裏社会での不穏な動きを完全にピタリと停止させている。まるで、内側の牙をすべて抜かれ、誰かの命令を忠実に実行するためだけの「完璧な傀儡」に作り替えられたかのように。
「あり得ない……。あの富永の、底知れぬ狂気と異常性欲の精神を、わずか一晩で完全に調伏し、自分の忠実な犬に変えたというのか……!」
久世の手の中の万年筆が、パキリと鋭い音を立てて折れた。インクが指先を汚すが、彼はそれすら気づかない。
彼の脳内で、榊結衣という少女は、単なる融合適合者を超え、裏社会の権力者たちを次々と精神支配し、影から世界を意のままに操ろうとする「最悪の魔王」として、完全に神格化されつつあった。
一方、地下の薄暗い待合室。
結衣は自分の平らなお腹をぽんぽんと叩きながら、スマートフォンの画面を見つめていた。
周囲の思惑がどれほど肥大化し、世界の裏側がどれほど彼女を恐れようとも、彼女の望みは相変わらず、重力や気圧と同じくらい普遍的で、ささやかなものだった。
(あの変態さん、次はいつ頃、お腹を空かせて戻ってくるかな……)
迫り来る次の飢餓の予感に、結衣は小さく溜め息をつきながら、地下の澱んだ空気の中、ただ静かに息を潜めていた。
(『屍花は夜に咲く』・第四話「飽食の狂宴、あるいは無垢なる残骸」 了)
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