冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 契約書の重さと、知らない未来
赤羽の商店街「すずらん通り」は、夕暮れ時に薄紫色に染まる。
桐原瑠奈が仕事帰りにこの通りを歩くのは、もう習慣だった。26歳。黒くストレートのロングヘアを後ろで一つにまとめ、左耳の後ろには小さな白いヘアピン。地味なベージュのブラウスに紺のスカート。事務職のOLらしい、そそっかしさのない装いだ。肩には力が入りがちで、細い手首は、ずっと事務作業をしてきたせいか、指先が少し荒れていた。
「あ、瑠奈ちゃん」
惣菜屋「おかず横丁」の前を通りかかると、母親が買い物カゴを下げて出てきた。芳恵。56歳。瑠奈と同じような黒髪だが、顔には疲れの跡が深い。
「お疲れ様。今日も遅かった?」
「ああ、ちょっと受発注が溜まってて」
母は心配そうに娘の顔を見た。「無理するなよ。丸瀬だって小さい会社じゃないか」
瑠奈は控えめに微笑んだ。「大丈夫です。明日も頑張ります」
そう言って、母の手から視線を逸らす。心配させたくなかった。弟の学費のことも、母の医療費のことも、瑠奈はずっと一人で計算していた。
「そっか。じゃあ晩ご飯、作っておくからな」
「ありがとうございます」
母と別れた瑠奈は、定食屋「まんぷく亭」に向かった。狭い店。テーブルは4つだけ。毎日同じ顔ぶれの常連が、同じような時間に現れる場所だ。
「いらっしゃい。今日も一人か」
店主の大河内源太。63歳。瑠奈の父の親友だった。父が高校生の時に亡くなったので、瑠奈は父の顔をほとんど覚えていない。でも源太は時々、父の話をしてくれた。
「はい。お願いします」
カウンターの端に座ると、源太が日替わり定食を持ってきた。豚の生姜焼き。750円。ご飯は大盛りが無料だ。瑠奈はいつも普通盛りで、そのお金を貯金に回していた。
「たまには誰かと食べるようにしろよ。26だろ?」
「そうですね」
そう言うが、瑠奈に誰かと食事をする相手はいなかった。会社の同僚の宮園千紗とは仲がいいが、彼女は営業で毎日のように取引先に出かけていた。恋人?そんなものは、瑠奈の人生にはない。
真面目に働く。家族を支える。迷惑をかけない。その三つだけで十分だと、瑠奈は思っていた。
帰宅したのは夜の8時過ぎだった。北区赤羽の築30年のアパート。2階建てで、瑠奈の部屋は102号室。6畳のワンルームに、ベッドと机とテレビが詰め込まれている。月の家賃は4万5000円。給料の14%。余った金を母と弟に送っていた。
郵便受けを確認する。
通常の手紙、電気代の請求、それと――
ひときわ高級な封筒。白い洋紙に、細い銀色の装飾。封筒の左上には、小さく「白銀グループ法務部」と印刷されていた。
ドアを閉じ、瑠奈は部屋の椅子に座った。そしてその封筒をゆっくりと開いた。
中身は、厳格な書式で印刷された一通の文書だった。
「婚姻契約提案書」
そう書かれていた。
瑠奈は何度も読み返した。何か間違いがあるのではないか。別の人への手紙が誤配されたのではないか。でもそこには確かに、瑠奈の名前が書かれていた。
契約期間:2年
契約報酬:総額3,000万円(月額125万円相当)
守秘義務:婚姻中、私的な事柄について第三者への開示を禁止
貞操義務:婚姻期間中の浮気行為を禁止
社交界同伴義務:白銀グループ関連の社交行事への参加義務
契約満了時:円満離婚
回答期限:48時間以内
スマートフォンを手に取った。指先が冷たかった。「白銀グループ」を検索する。
ニュースサイトがヒットした。
【白銀グループ、連結売上1兆2000億円超える】
【白銀グループ新代表・白銀俊哉(29歳)、経営改革を宣言】
画像には、黒い瞳をした冷徹な男の顔が映っていた。俊哉。白銀グループの現在の代表取締役社長。2年前に、先代の父が急逝したことで、若くして経営トップに上り詰めた人物だ。
瑠奈は記事を読み続けた。新しい代表の改革路線。グループ内の派閥対立。経営戦略。政治家との繋がり。暁星会という、財界上層部の秘密組織についての言及も見つかった。
(私みたいな普通のOLが、なぜこんな大企業から…)
心臓が高鳴った。いや、違う。鼓動が速くなった。手がかすかに震えている。
なぜ自分なのか。白銀グループと丸瀬食品は確かに取引関係にあるが、瑠奈は営業ではなく事務職だ。俊哉が瑠奈を知っているはずはない。
なのに。
3,000万円という数字が、瑠奈の頭から離れなかった。
母の医療費は年間200万円。弟の大学学費は年間150万円。つまり毎年350万円かかっている。9年分。いや、瑠奈自身も老後資金が必要だ。現在の給料では……
(ダメだ。こんなこと考えちゃダメ)
瑠奈は頭を振った。でも心は、すでに計算を始めていた。
契約書をもう一度読む。最後のページには、回答方法が書かれていた。指定されたメールアドレスに、「承諾します」または「辞退します」と返信すること。以上。理由を聞かれることはないとも書かれていた。
深夜、瑠奈は眠れなかった。
ベッドの上で、枕を抱きしめながら、天井を睨んでいた。左の鎖骨の下、星型の痕がある。幼い頃に熱湯をこぼしてできた火傷だ。緊張すると無意識に、その場所に手を当ててしまう癖がある。今も、そうしていた。
(これは…正しい選択なの?)
スマートフォンをもう一度手にした。契約書の画像を見つめた。どこに署名すればいいのだろう。実際に紙に署名するのか、それともデジタル署名なのか。そういうことすら、確認の手紙には書かれていなかった。
母に相談すべきか。でも、母の苦労を見ている瑠奈は、簡単に「相談する」ことができなかった。母はすでに十分に苦しんでいる。子供のために、毎日パートに出ている。
弟に話すか。弟は今、いい大学に行っている。将来のためにと、親が「奨学金は借りるな」と言い張ったから、瑠奈と母が支えている。弟はそのことを、どこまで理解しているのか。
(独りで決めよう)
そう思った。真面目で責任感が強い瑠奈は、いつもそう思う。迷惑をかけてはいけない。誰かの負担になってはいけない。だから、困ったことも、悩みも、一人で抱え込んでしまう。
夜明けが近づいた。窓の外は、まだ暗い。でも確実に、朝が来ようとしていた。
瑠奈は決めた。
震える手で、スマートフォンのメーラーを開いた。
宛先:法務部指定アドレス
件名:婚姻契約提案書 回答
本文:「承諾します」
その二行を書いて、瑠奈は息を止めた。
送信ボタンが、画面に光っている。
指が、ボタンに向かった。
(これで…)
「タッ」
ボタンが押された瞬間、瑠奈の心臓は一度、強く跳ねた。
「…私の人生は、変わる」
送信完了の表示が出た。
時刻は午前6時27分。窓の外には、赤羽の朝焼けが広がっていた。下町の商店街も、少しずつ目覚め始めている。いつもと変わらない朝だった。でも、瑠奈のいる世界は、確実に違う場所へ移動していたのだ。
それが良いことなのか、悪いことなのか。瑠奈はまだ、判断することができなかった。
ただ、母の笑顔と、弟の将来を思い浮かべて、涙がこぼれた。
不安と、覚悟が、入り混じった表情で。
新しい一日が、始まろうとしていた。