冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 紳士の仮面
白銀タワーの38階。重厚な会議室の中で、月例役員会議が開催されていた。
大きな黒檀のテーブルを囲むように、15名の役員が座っている。朝の陽光が窓を通して入り込み、その流れが会議室の冷徹な空気をさらに強調していた。テーブルの端に置かれたコーヒーカップから、かすかに湯気が立ち上っている。
白銀 俊哉は、テーブルの最奥に座っていた。黒いスーツに白いシャツ。口元の小さなほくろが、無表情な顔の中で唯一の柔らかさを持っている。その視線は、目の前に広げられたA4用紙の数字を追っていた。
それだけだ。
会議が始まってから、まだ5分。だが、既に違和感が室内に満ちていた。
「それでは、本日のアジェンダから進めさせていただきます」
進行役の企画部長が、淡々と言葉を続けていた。その瞬間、会議室のドアが静かに開いた。
遅れて入ってきた人物。52歳。白銀 統一郎だ。
その姿が目に入った瞬間、会議室の空気が僅かに変わった。目には見えない何か。それは、水面に落とされた一粒の雨のように、波紋を広げ始めた。
統一郎は、俊哉の真正面に座った。ちょうど、テーブルの反対側。その距離は3メートル。だが、その距離は単なる物理的な空間ではなく、派閥と権力の距離でもあった。
「申し訳ない。少し用件があってね」
統一郎の声は柔らかかった。その声には、謝罪の色も見えない。むしろ、余裕さえ漂っていた。その瞳は、俊哉を見つめている。その瞳の奥には、何かが隠されているような、そんな色があった。
俊哉は、その視線を受け流した。新聞をめくるような仕草で、用紙の次のページに目を向けた。その無関心さが、逆に場を支配していた。
「では、早速ですが、今期の新規事業投資案について、取締役から説明していただきたい」
企画部長がそう言った。その瞬間、俊哉が身を起こした。立ち上がるわけではなく、椅子の背もたれから少し身を離す程度の動き。だが、その動きだけで、俊哉が主導権を握っていることが明確になった。
「今期の投資規模は総額35億。IT企業への出資が中心となります」
俊哉の声は、淡々としていた。感情の波がない。ただ、事実を述べているだけ。その声が、逆に説得力を持っていた。
だが、その瞬間だった。
統一郎派に属する財務部長が、ペンを置いた。その音が会議室に響く。一瞬の沈黙。その沈黙の重さが、議論の火種を作り始めた。
「社長。それは、少々リスクが大きすぎないでしょうか」
財務部長の声には、疑問ではなく異議が込められていた。その異議の奥底には、統一郎からの指示があることは誰の目にも明らかだった。
俊哉は、その異議を聞き、数字のシートを掲げた。
「IT業界の成長率は年率15%。我が社の現在の利益率を考えると、この投資は必ず回収される。データはここにある」
その説明は、正確だった。完璧さえあった。だが、異議は止まなかった。次々と、統一郎派に属する役員たちが、疑問を投げかけ始めた。
「成長率といっても、市場の変動は予測できません」
「我が社の専門分野ではないのでは?」
「もう少し、慎重に進めるべき案件ではないか」
その異議の流れは、計算されたものだった。一人が口火を切れば、後は流れが自動的に作られていく。その流れの中で、俊哉の提案は次第に形を失い始めていた。
それでも、俊哉は反論を続けた。数字を示し、根拠を述べた。だが、その論理的な反論さえも、感情的な異議の前には、かき消されていくようだった。
その時だった。
統一郎が、そっと手を挙げた。その仕草で、会議室は静かになった。その力。その支配力。俊哉は、その様子を見つめながら、自分とこの叔父の力の差を感じていた。
「皆の意見も一理ある」
統一郎の声は、依然として穏やかだった。その柔らかさが、逆に危険さを増していた。
「ただ、俊哉君の情熱も分かる。だからね、提案としては、もう少し慎重に、段階を踏んで進めてはどうかね。今すぐではなく、半年後、一年後を見据えた形で」
統一郎の提案は、理性的に聞こえた。だが、その実態は、計画の先延ばしだった。そしてそれは、俊哉の求心力を削ぐ効果を持っていた。
会議は続いた。だが、俊哉が主導権を取ることはなかった。
会議終了は、昼を過ぎていた。
廊下に出た俊哉は、深い呼吸をした。その呼吸は、疲労よりも、怒りに満ちていた。だが、その怒りは表面には出ない。社長という立場が、それを許さなかった。
そこに、足音が聞こえた。
宮園 千紗だ。
その姿が視界に入った瞬間、千紗は立ち止まった。彼女の淡いヘーゼルブラウンの瞳が、白銀タワーの廊下という場所に似合わない、輝きを持っていた。
「あ、あの……」
千紗は、少し躊躇いながら声をかけた。その声には、何か重要な情報を伝えようという意思が込められていた。
「丸瀬食品の宮園さんですね」
突然、低い声が聞こえた。
背後からの声。その声の主は、白銀 統一郎だ。統一郎は、廊下の隅から現れた。その姿は、偶然であるとは思えない計算されたタイミングだった。
統一郎の視線が、千紗に向けられた。その瞳には、探るような色が宿っていた。
「お嬢さん、お仕事がお忙しいのに、わざわざ社長室まで?」
統一郎の言葉は、一見丁寧だった。敬語で、礼儀正しい。だが、その奥底には、何かを探ろうとする意思が隠されていた。
千紗は、その質問に、少し身を引いた。彼女の社交的な笑顔さえもが、この廊下の冷たさの前では色褪せていた。
「あ、いえ。瑠奈のこと……瑠奈さんのこと、用事が……」
千紗の言葉は途切れ途切れだった。その様子は、統一郎の視線に圧倒されていることを物語っていた。
統一郎は、それを見て、ゆっくり微笑んだ。その笑顔は紳士的だった。だが、その笑顔の奥に宿る何かが、千紗の胸に引っかかったのか、彼女の背中が緊張で硬くなった。
「瑠奈さんですか。そうだね、素敵な方だね。社長の奥さんになられるなんて」
統一郎の言葉は、褒めるようだった。だが、その言葉の重さは、褒めるレベルを超えていた。それは、何かを確認するための言葉。何かを探るための言葉だった。
千紗は、その言葉を受けて、頷いた。だが、その頷きは、かすかなものだった。
その場面を、俊哉は廊下の奥から見ていた。その瞳は、統一郎と千紗の会話を捉えていた。だが、その瞳の奥に宿るものは、怒りだけではなく、別のものも混ざっていた。それは、警戒だった。
─ ─ ─
その同じ時刻。
北区・赤羽。
桐原 瑠奈は、駅を降りていた。
改札を出た瞬間に、懐かしい空気が身を包んだ。街の匂い。人混みの雑踏。小さな店々が立ち並ぶ通り。すべてが、瑠奈の心の奥底に刻み込まれた、懐かしい世界だった。
(やっぱり、赤羽だ)
瑠奈は、その思いを心の奥底に秘めた。白金台のマンション。白銀タワーのオフィス。そこでの冷たい空気。それらすべてから、瑠奈は今、一瞬でも距離を取ろうとしていた。
商店街を歩く。すずらん通り。その全長300メートルの通りには、かつての瑠奈の思い出が詰まっていた。
定食屋「まんぷく亭」の看板が見えた。だが、瑠奈は、今日はそこに向かうつもりはなかった。向かう先は、一軒の古い一戸建て。その家の玄関に、瑠奈は立ち止まった。
深呼吸をする。その呼吸は、心の準備だった。
玄関の戸を押す。
「あ、瑠奈!」
声がした。その声は、瑠奈の心を一瞬で母親の元へ連れ戻した。
桐原 芳恵だ。56歳。白髪混じりのショートボブ。その顔には、娘を見つめる温かさと、同時に何かの複雑さが混じっていた。
母親は、玄関で娘を抱きしめた。その抱擁は、長く続いた。
「瑠奈……結婚したって聞いて、驚いたわよ」
母親の声には、喜びと、同時に何かの不安も隠されていた。
二人は、居間に座った。お茶が出された。温かいお茶。その香りが、瑠奈の心を少しだけ落ち着かせた。
「相手の方は……」
母親が、恐る恐る聞いた。
「会社の……社長です」
瑠奈の答えは、簡潔だった。その簡潔さが、かえって何かを隠しているように感じられた。
母親は、その返答を聞いて、少し目を見開いた。だが、その驚きはすぐに、別の表情に変わった。それは、心配だった。母親の瞳が、娘の顔を見つめた。その視線は、深かった。
「社長さん? お金持ちなんでしょ?」
その質問に、瑠奈は頷いた。だが、その頷きは、小さなものだった。
母親は、暫く瑠奈を見つめていた。その瞳には、過去の思い出が映っていたのか、何かが揺らいでいるように見えた。
「あんた……」
母親は、ゆっくりと言葉を継いだ。その言葉は、重いものになっていた。
「私みたいにならないでね」
その言葉。
その瞬間、瑠奈の心に、違和感が走った。
(どういうこと……?)
瑠奈は、その言葉の意味を探ろうとした。だが、母親の顔は、そっぽを向いていた。その横顔に映っていたのは、悲しみだった。
母親は、テーブルの上で、手指を握り合わせていた。その動作は、何かの葛藤を表していた。左手の薬指に、細い傷跡がある。若い頃のスポーツ中の怪我の名残。瑠奈は、その傷跡を見つめていた。
「昔、私は陸上選手だったの。全国大会にも出た。あんなにね、全力で走って、全力で跳んで……」
母親の声は、遠い思い出を語っているようだった。
「でも、怪我でね。それが終わった。そしたら……」
母親は、言葉を止めた。
「普通に生きることしか考えなくなった。あなたのお父さんとも、そういう感じで。何も野心なく、何も期待せず。ただ……」
その先の言葉は、母親の口からは出ず、暗黙のうちに瑠奈に伝わった。母親は、娘に何かを警告しようとしていたのだ。
「あんたは違って。あんたには、まだ道がある。お金も出来たし。だからね、何かに支配されないで。何かのために、自分を失わないで」
母親の言葉は、愛情と警告が混ざっていた。
瑠奈は、その言葉を受けた。その瞬間、胸の中で何かが痛くなった。それは、母親の心配。そしてそれは、同時に、瑠奈が今直面している葛藤そのものでもあった。
(この結婚……本当に正しいのか)
その問いが、瑠奈の心の中で、音もなく響き始めていた。
夕方になった。
瑠奈は、駅へ向かう途中、母親と別れた。母親の家を出る時、その背後から聞こえた呟きがあった。
「困ったら、いつでも帰ってきてね」
その言葉が、瑠奈の心に残った。
白金台へ向かう電車の中で、瑠奈は窓の外を見つめていた。東京の風景が、次々と流れていく。赤羽の懐かしさから、白金台の冷たさへ。その移動の中で、瑠奈は何かが変わっていくのを感じていた。
レジデンス・プラティーヌ白金に戻った時、すでに夜が深かった。
32階の部屋に入ると、リビングは静かだった。だが、書斎のドアが少し開いていて、その奥から微かに光が漏れていた。
瑠奈は、その光を見つめた。その奥にいるのは、白銀 俊哉。
(会議は……どうだったんだろう)
そう思いながら、瑠奈は自分の部屋へ向かった。だが、その心の奥底には、母親の言葉が重くのしかかっていた。
その夜、瑠奈は眠ることができなかった。窓の外の東京の夜景を見つめながら、瑠奈は自分が今どこにいるのか、わからなくなっていた。赤羽の懐かしさと、白金台の未来。その二つの世界の間で、瑠奈は揺れ動いていた。
そして、その揺れ動きの中で、もう一つの問いが生まれていた。
(この人のことを……どう思ってるんだろう)
白銀 俊哉。その男の顔が、瑠奈の脳裏に浮かんだ。
左の鎖骨の下、星形の痕に手が当たった。その無意識の癖が、瑠奈の心の不安定さを物語っていた。
その夜の時間が、ただゆっくりと流れていった。次の日の朝、瑠奈は相変わらずの複雑な表情で、朝食の準備をしていた。だが、書斎のドアが開き、俊哉の姿が現れた瞬間、彼女の心は再び揺れ始めていた。