冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 冷徹な御曹司と、氷の秘書
契約承諾から三日。
白銀タワーのエントランスロビーは、瑠奈が想像していたどの空間よりも圧倒的だった。
地上38階・地下3階。大理石張りの床が鏡のように光を反射し、高さ12メートルの吹き抜けが、まるで宮殿のような威厳を放っている。天井からは、デザイナーズ照明が幾何学的に配置され、季節を感じさせない均一な明かりが降り注いでいた。
ガラスの自動ドアをくぐった瞬間、瑠奈の呼吸が浅くなった。
(あ、ここに来ちゃった...)
心臓の奥で、何かがかすかに脈打つ。赤羽の暗い6畳間とは、別の世界だ。
警備員に声をかけられた。紺色の制服を着た中年男性。名札に「守護システム」と書かれている。
「ご用件はいかがされましたか」
「あ、白銀グループへ...」
瑠奈は引き渡されたICカードを差し出す。手が少しだけ震えている。相手はそれを読み込み、スマートフォンで何かを確認した。
「かしこまりました。38階へご案内いたします。専用エレベーターはこちらです」
エレベーターホールは、二台のエレベーターに分かれていた。一台は、営業フロアへ向かう標準的なもの。もう一台は、銀色のドアに「Executive Only」と書かれている。
警備員は後者へ瑠奈を導いた。
エレベーターに乗り込むと、内部はやはり高級感に満ちていた。大理石、鏡張りの壁、無音に近い稼働音。ボタンは数個だけ。38階を示すボタンをタッチすると、エレベーターは無言で上昇を始めた。
自分の顔が鏡に映る。
ベージュのブラウス。紺のスカート。就職活動の時に買った靴。髪は後ろで一つにまとめ、白いヘアピンで留めている。普通だ。丸瀬食品の事務所では誰からも特に注目されない、完全に普通の格好だ。
だけど。
ここでは。
(私、場違い...)
そう思うのを止められない。左の鎖骨の下、星形の痕がある。幼い頃に熱湯をこぼしてできた火傷だ。無意識に、その場所に手を当ててしまう。
数字が上がっていく。10階、20階、30階——
エレベーターが停止した。38階。
ドアが開く。
そこは別世界だった。
高級絨毯が敷き詰められた廊下。両脇の壁には、油絵のような大型の絵画が飾られている。窓からは、東京湾が一望できる。スカイツリーとレインボーブリッジが同時に視界に入る。
瑠奈は足が止まった。
「こちらへ」
秘書らしき女性が現れた。秘書室の扉から出てきた。長い栗色のストレートヘア。細長い瞳はグレー。首筋には小さなアザの痕。170センチはある身長に、完璧に合わせられた黒いスーツ。
氷室沙耶だ。瑠奈は、その名前を記憶していた。白銀グループのニュース記事に、「代表秘書・氷室沙耶」と記載されていたから。
沙耶の視線が、上から下まで、瑠奈を一瞥した。その視線は値踏みするようで、冷たかった。
「社長がお待ちです」
セリフは丁寧だが、語尾に挑発のようなものが含まれている。瑠奈は緊張で唾を飲み込んだ。
社長室の前に着いた。黒い木製の重い扉。沙耶がノックし、返事を待たずに開く。
「桐原瑠奈様です」
そして、瑠奈は見た。
白銀俊哉。
黒くすっきりした短髪。鋭く冷たい栗色の瞳。27、8には見えない、引き締まった顔立ち。ダークネイビーのスーツは、高級仕立てだとすぐにわかる。シャツは淡いブルー。ネクタイはバーガンディ。全てが完璧に調和していた。
口元に、小さなほくろがある。
約80平方メートルの社長室。窓一面に東京湾が広がり、その中央で、彼は席に着いていた。
(本当にいるんだ...)
瑠奈の心臓が、一度、強く跳ねた。
俊哉は何の感情も表さず、瑠奈を見た。その視線は、まるで書類を確認するのと同じ無関心さで貫く。
「かけてください」
セリフは淡々としている。要点を絞った、短い言葉だ。瑠奈は、そっと椅子に座った。
沙耶は、俊哉の隣に立つ。そのポジションは、護衛というより、所有者のようだ。
俊哉は机の上の書類を広げた。契約書だ。瑠奈は、それが何か、すぐに理解した。
「改めて確認します。桐原瑠奈、26歳、現在丸瀬食品に勤務」
それは、質問ではなく、確認だった。瑠奈は小さく頷いた。
「婚姻期間、2年。報酬総額、3,000万円。月額125万円相当です」
俊哉は、書類に視線を落とし、続ける。
「守秘義務。婚姻中、私的な事柄について第三者への開示は禁止。違反した場合、違約金が発生します」
「わかりました」
「貞操義務。婚姻期間中の浮気行為は禁止」
沙耶が、微かに笑った。その笑みは、嘲笑に近い。瑠奈の肌が、ざわざわする。
「社交界同伴義務。白銀グループ関連の社交行事に同伴していただきます」
「はい...」
瑠奈の声は、さらに小さくなった。
俊哉が、瑠奈を見た。初めて、直接その視線が向けられた。
「あなたは、私の妻として振る舞ってもらいます。それ以上でも以下でもない。理解していますね」
冷たい。その言葉は、氷のような冷たさだ。
(これ、本当にやってるんだ...)
瑠奈の息が、一度止まった。何か言い返したい。でも、言葉は出ない。だって。
こんな環境に来たことがない。こんな男を見たことがない。こんな女を見たことがない。
「あの、質問があります...」
そう言ったのは、瑠奈自身にも驚きだった。
沙耶の眉が、ほんの少し上がった。
「なぜ...私が選ばれたのか、教えてくれませんか」
エレベーター内の鏡で見た、自分の顔。完全に普通のOL。容姿も、学歴も、背景も。白銀グループのような超一流企業の代表がなぜ、こんな女を。
俊哉は、微動だにしなかった。
「それは、契約に含まれていません」
その一言で、瑠奈の質問は切り捨てられた。
沙耶が、冷たく笑う。
「あなたはただ、契約通りに動いてくれればいいんです。理由を知る必要はありません」
その言葉は、毒を含んでいた。瑠奈は、胸が締め付けられるのを感じた。
(この女は、俊哉のことが...)
そう気づいた瞬間、瑠奈は、ある種の不安を感じた。沙耶の視線には、単なる職業的な感情ではなく、明確な敵意が含まれている。
俊哉は、書類をめくる。
「明日から、同居を開始します。レジデンス・プラティーヌ白金、32階です。荷物は業者が運びます。今夜中に自分の持ち物を整理して、引き渡してください」
「はい...」
瑠奈は、ここでサインを求められた。契約書にペンを置き、自分の名前を書く。その筆跡は、いつもより小さく、揺らいでいた。
サインが終わった瞬間、俊哉が立ち上がった。
「では、契約成立です」
そう言って、俊哉が瑠奈に手を差し出した。
その手は、冷たかった。本当に冷たかった。体温が感じられない、そんな手だ。
握手を交わす。俊哉の瞳が、瑠奈の瞳をまっすぐ見据える。そこに感情はなく、ただ契約者としての確認があるだけだ。
「よろしく、瑠奈さん」
名前を呼ばれた瞬間、瑠奈の心臓が跳ねた。
それは、単なる社交辞令かもしれない。でも、彼が自分の名前を呼んだ。その事実だけが、瑠奈の心を揺さぶった。
「よろしくお願いします...」
瑠奈は、震える手を引き込めた。
エレベーターで降りる間、瑠奈は涙をこらえた。
エレベーターの鏡に映った自分の顔は、白くなっていた。
(私、本当にやっていけるのかな...)
白銀タワーを出ると、六本木の街並みが広がっていた。夜の21時。ネオンサインが煌々と光っている。赤羽の下町とはまるで違う、華やかで、冷たい街。
瑠奈は、その中で一人、佇んでいた。
明日から。
白金台の高級マンション。そこが、自分の居場所になるのか。
三日前に「承諾します」とメールを送った瑠奈は、もう後戻りできない。