冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 社交界デビューと、さりげない優しさ
契約から一週間。
あの日、メールを送った時の震える指の感覚は、もう遠い記憶になっていた。いや、違う。瑠奈はレジデンス・プラティーヌ白金のゲストルームで着替えながら、その感覚をまだはっきり覚えていた。
ドレスだ。
初めて身に纏う、深紅のイブニングドレス。肩から胸元にかけて大きく開き、腰のところで絞られた、見事な曲線を強調する仕立て。丈は床に届くほど長く、ワインレッドの生地が光に当たるたびに艶めく。プロのヘアメイクが三時間かけて仕上げた髪は、赤羽のアパートにいた自分の頭とは思えないほど優雅だった。
鏡に映った自分を見つめた。
黒くストレートのロングヘアは、半分をアップにしてシニヨンにまとめられ、残りはふわりと肩にかかっている。メイクは濃くもなく薄くもなく、深みのある茶色の瞳をより大きく見せている。左耳には、小さなダイヤモンドのピアス。
「あなたはあなたのままでいい」
俊哉の言葉がまだ耳に残っている。でもそれはテラスで、夜景の中での言葉。今、自分は彼の妻として、財界の上流階級の目に晒されようとしている。
自分のままでいられるわけがない。
リビングに出ると、俊哉が待っていた。
黒のタキシード。白いシャツ。バーガンディーのネクタイ。完璧に調和した装い。彼はソファに腰掛けていたが、瑠奈が現れた瞬間、立ち上がった。
その瞳が、一瞬だけ、瑠奈を見た。
わずかに眉が上がる。その表情の変化は一瞬で消えたが、瑠奈は確かに見た。驚きの色が。
「…似合っています」
それだけだった。でも、声のトーンが違う。いつもの冷たさが薄れ、ほんの少し、別のものが混ざっていた気がした。
「ありがとうございます」
瑠奈は答える。その声も小さかった。左の鎖骨の下、星型の痕がある場所に、無意識に手を当ててしまう。緊張していた。
俊哉が腕を差し出した。
「時間です」
それだけ。でも、瑠奈は恐る恐るその腕を取った。俊哉の体温が伝わる。温かい。思わず、顔が赤くなった。
ホテル・グランヴェール東京のエントランスは、既に豪奢な準備で満ちていた。
赤いカーペットが敷き詰められ、両脇には白いフラワーアレンジメント。ベルボーイとコンシェルジュが白い手袋で来客をもてなしている。黒いタキシードを着た男たちと、色とりどりのドレスを纏った女たちが、次々と館内へ消えていく。
それは別世界だった。
赤羽の商店街とは、別の星。丸瀬食品の事務所とは、全く別の次元。金のかかった女たちの笑い声、男たちの低い声、香水の複雑な香り。全てが、瑠奈の常識の外にあった。
俊哉に腕を組まれたまま、エスカレーターで3階へ上がる。
大宴会場「翠光の間」。
ドアが開いた瞬間、瑠奈の息が止まった。
シャンデリアが無数に煌めき、ルーフまである吹き抜けの天井から光が降り注ぐ。白いテーブルクロスが敷かれたテーブルの上には、折り詰められた金色のナプキン。ウェイターが白いプレートを運ぶ。フルーテンポの音楽が小さく流れている。
財界・政界の要人約200名が、集い、笑い、会話をしている。
女性たちの視線が、瑠奈に向けられた。
「…あの方が」
「白銀様の新しい奥様?」
「どこの家の方かしら…」
囁き声が聞こえた。完全に、ではなく。でも確かに聞こえた。瑠奈の心臓が早鐘を打つ。
自分はここにいるべき人間ではない。その確信が、ずしりと胸を圧した。
「大丈夫です」
俊哉の声が、耳打ちのように聞こえた。瑠奈を見ていない。前を向いたままで、ただそう言った。
「私の隣にいてください」
その言葉が、瑠奈の胸を揺さぶった。
俊哉は、テーブルを回った。重要人物への挨拶回りだ。瑠奈は彼の腕を取ったまま、各テーブルを周る。大手銀行の会長、政界の有力者、大型不動産会社の社長。そして、その配偶者たち。
瑠奈は微笑み、挨拶をした。
「本日はお疲れ様です」
どこかで見たセリフのように、自動的に出てくる言葉。自分の声とは思えない。
その時だった。
「社長、ご挨拶回りをお忘れなく」
冷たい声が、瑠奈たちを止めた。
氷室沙耶が、完璧に仕立てられた紺のドレスで現れた。髪は長い栗色のストレートをアップにしてまとめ、くるりと丸めて彼女の首筋に落としている。メイクも完璧。ダイヤモンドのネックレスが、首元で光っている。
そして何より、その瞳の色が違う。
灰色に近いグレーの瞳が、瑠奈を見下ろしていた。その視線には、明確な敵意が含まれている。嫌悪ではなく、挑戦だ。
「沙耶。ありがとう」
俊哉の返答は事務的だった。感情がない。でも、瑠奈にはその冷淡さが、沙耶を遠ざけるものに感じられた。
「この方がご新妻…ですね。初めてお目にかかります」
沙耶は瑠奈に向き直った。微笑みを浮かべている。だが、その笑顔は歯を見せただけで、眼差しは笑っていない。
「こちらこそ」
瑠奈は答えた。声が小さかった。
沙耶は、意図的にゆっくりと瑠奈を上から下まで見た。完全な値踏みだ。その視線が、瑠奈の全身を舐めるように通る。
「お綺麗ですね」
セリフは褒める言葉だ。でも、音色は違う。それは嫌味だった。
「左耳のピアスも…素敵ですわ」
そう言って、沙耶は身軽に身を翻した。
「社長は次のテーブルへ。会長がお待ちですよ」
そしてまた、彼女は消えた。
パーティーは進む。
瑠奈は微笑みを絶やさず、誰かの夫の手を握り、誰かの妻と社交辞令を交わした。でも、心はどんどん沈んでいく。
(場違い。私は、本当に場違いなんだ)
そう思うたびに、左の鎖骨の下の痕に手を当てた。無意識の癖だった。
俊哉は相変わらず無表情で、次々と人間関係を処理していく。でも、瑠奈に対してだけは、時々腕に力を入れた。それが、彼の何かが、瑠奈に向けられているのだと、彼女は感じていた。
2時間が経った。
パーティーのピークは過ぎ、人々の動きが緩やかになり始めた。瑠奈の足は疲れていた。初めてのヒールで、かかとに豆ができていた。
その時だった。
「来てください」
俊哉がそう呟いた。そして、瑠奈の手を引いた。
テラスへ。
宴会場から離れた、開放的なテラス。東京の夜景が、そこに広がっていた。六本木のビル群が光り、遠くにレインボーブリッジが色めいている。
瑠奈と俊哉は、二人きりになった。
冷たい夜風が、瑠奈の髪を揺らした。
「無理をしないでください」
俊哉がそう言った。瑠奈を見ていない。夜景を眺めたままだ。
「あなたはあなたのままでいい。それで十分です」
その言葉を聞いた時、瑠奈の心臓が、何かを掴んだような感覚を覚えた。
「でも…私」
「契約だからです。あなたが妻として振る舞わなければならないのは、そのため。ですが、中身まで変わる必要はない」
俊哉はようやく、瑠奈を見た。
その瞳には、いつもの冷たさはなく、別のものが映っていた。何だろう。瑠奈には、それが何なのか、名前が付けられなかった。
「あなたは、あなたのままでいい」
もう一度、同じ言葉を繰り返した。
その瞬間、瑠奈の目から、涙が溢れた。
無意識だった。何を泣いているのか、自分でも分からない。でも、涙は止まらなかった。
俊哉は何も言わなかった。ただ、そっと瑠奈の肩に手を置いた。その温かさが、瑠奈をさらに泣かせた。
(この人は…)
社長ではなく。契約相手ではなく。冷たい男ではなく。
誰なのだろう。
パーティーを終えて、レジデンス・プラティーヌ白金に戻ったのは、夜中の0時を過ぎていた。
ドレスを脱ぎ、普段着に着替えた瑠奈は、リビングに出た。
俊哉もそこにいた。ハーフパンツとTシャツ姿で、ソファに座っている。上着を脱いだ姿は、どこか脆い。
「お疲れ様でした」
そう言うと、俊哉は瑠奈を見た。その瞳には、何かの感情が灯っていた。
「あなたもです」
そう答えて、俊哉はまた、夜景を眺めた。
テラスでの沈黙と同じ。不安ではない沈黙。穏やかな沈黙。瑠奈はそれが心地よく感じ始めていた。
「今日は…ありがとうございました」
改めて、そう言った。
俊哉は「…契約ですから」と呟いた。だが、その表情は柔らかかった。
瑠奈は微笑んだ。初めて、この白金台のマンションで、心からの微笑みだった。
「おやすみなさい」
そう言って、ゲストルームへ戻った。
一人になったリビングで、俊哉は瑠奈がテラスで見せた涙を思い出した。その涙が、何を意味するのか。契約なのに、なぜそんなことが気になるのか。
(契約か…)
小さく呟いて、俊哉はワイングラスを傾けた。翌日、瑠奈は会社に向かった。
いつもと変わらない朝。でも、体の中に流れているものは、昨日と違っていた。
赤羽の商店街を通り、丸瀬食品の本社へ。4階の営業事務部に着くと、親友の宮園千紗が勢いよく椅子から立った。
「瑠奈!昨日どこにいた!?」
瑠奈は、微笑んだ。
この世界では、昨日のことは秘密のままでいいのだ。守秘義務契約。だから、真実は誰にも言えない。
でも、心の奥底で、瑠奈は思っていた。
(あの人は…本当は)
昨晩のテラスでの俊哉の表情が、瑠奈の心に映っていた。その表情がどんな意味を持つのか、瑠奈はまだ知らなかった。
ただ、わかっていたのは、自分の心が、少しずつ、その冷たい男に近づいていることだけだ。