冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 距離が縮まる夜
午前2時を過ぎた時刻。レジデンス・プラティーヌ白金の玄関ドアが、静かに開いた。
白銀 俊哉は、疲労を顔に滲ませながら帰宅した。白銀タワーでの長時間会議。それも、内部派閥と対立する統一郎派の提案に対する反論の場だった。午後1時から始まった会議は、気がつけば夜中を越えていた。
書斎に直行するつもりだった。いつものパターン。帰宅して、すぐに仕事。だが、リビングの灯りが微かについていることに気づいた。
(瑠奈が?)
そう思いながら、俊哉はリビングへ足を向けた。
ソファの上で、桐原 瑠奈は眠っていた。
左手はソファの肘掛けに、右手は自分の腹の上に置かれ、完全に無防備な寝姿。黒いストレートのロングヘアが、ソファの背もたれにさらりと流れている。その髪の毛の一束が、寝息に合わせてふわりと揺れていた。テーブルの上には、冷めた紅茶が置かれている。
(俺の帰りを待っていたのか)
俊哉は、その光景を見つめた。瑠奈の顔は、平時の緊張から解放されていた。上流社会の場で見せる、相手を伺う控えめな表情ではない。普通の女性。ただの女性。そのありのままの姿が、何故か俊哉の胸に違和感をもたらしていた。
(契約だ。あくまで契約だ)
俊哉は、自分に言い聞かせた。この結婚は、グループの安定化と、若き社長の求心力を高めるための戦略的な選択。瑠奈は、その計算の一部に過ぎない。そのはずだった。
だが、その瞬間だった。
瑠奈がふっと身じろぎした。眠りが浅いのか、まぶたが開きかけた。完全に目覚めたわけではなく、半分まどろんだ状態。だが、その瞳が俊哉を捉えた。
二人の視線が、至近距離で絡み合った。
リビングの間接照明に照らされた瑠奈の瞳は、茶色の瞳の奥に光を宿していた。寝起きの、ぼんやりとした意識。そこに、俊哉を見つめた時、その瞳がすっと焦点を結んだ。
「あ...」
瑠奈は、小さく声を上げた。完全に目覚めていないような、かすかな音。そのまま、身を起こそうとした。だが、その動きは遅かった。
俊哉は、そっと毛布を取りに行った。ソファの傍に置かれた薄い毛布を手に取る。瑠奈にかけてやろうとして、身を屈めた。
瑠奈の顔が、俊哉の顔に、信じられないほど近づいた。距離は、10センチもない。瑠奈の呼吸が、俊哉に伝わってくる。その呼吸は、完全に覚醒した後のものだった。瞳も、今は完全に俊哉を見つめている。
「起こしてしまったか」
俊哉は、そう呟いた。その声は低く、掠れていた。疲れからではなく、別の理由で。
「いえ、私が勝手に...」
瑠奈が言いかけた。その時、俊哉の手が瑠奈の頬に触れた。
その動きは、自分の意思ではなく、別のものに突き動かされたかのような。冷たいはずの秋の夜気の中で、瑠奈の頬は温かい。その温かさを感じた瞬間、俊哉は何かが自分の中で崩れ始めるのを感じた。
「冷たい」
小さく囁いた。瑠奈の頬に、まだ触れたままで。その手は、そっと温めるように、掌を添えた。その瞬間、瑠奈の呼吸が止まった。いや、止まるのではなく、浅くなった。
左の鎖骨の下、星型の痕。瑠奈が無意識に手を当てる癖のある場所。俊哉は、その痕が何を意味するのかは知らない。だが、その痕が瑠奈の体にあることだけは、確かに記憶していた。
「俊哉さん...」
瑠奈は、その名前を呼んだ。その声は、か細かった。呼吸と一緒に出たような。その呼び名に、俊哉の理性が揺らいだ。
(いけない)
そう思った。だが、その瞬間、瑠奈の瞳が潤んだ。その潤みが、俊哉の目の前で、輝いていた。いや、潤んでいるだけではなく、何かが込み上げてくるのが分かった。
瑠奈は、無意識に俊哉の手に、自分の手を重ねた。
冷たい手と、温かい手が重なる。その感触は、俊哉に何かを訴えかけていた。いや、訴えかけではなく、願いのようなもの。
俊哉は、瑠奈に近づいた。そのまま、唇が触れる寸前まで。
その距離で、二人は止まった。
(契約だ)
その一言が、俊哉の脳裏をかすめた。この女性は、契約で結ばれた妻だ。感情ではなく、金で結ばれた関係。それ以上でも、それ以下でもない。
だが、現実は違っていた。
俊哉は、瑠奈の頬から手を引いた。その動作は、まるで焦熱から逃げるようだった。
「おやすみ」
そう言って、俊哉は立ち上がった。その背は、完全に瑠奈に向いていない。書斎へ向かう足取りは、いつもより速かった。
一人残されたリビングで、瑠奈は、ソファの上で身を固くした。
左の鎖骨の下に、手が当たった。そこにある星型の痕。その痕に、指の爪が食い込む。
高鳴る鼓動。それを抑えることができない。胸の奥で何かが激しく脈打つ。
(契約...)
瑠奈は、その言葉を、何度も繰り返した。だが、その言葉も、もはや意味を持たないように思えた。
(契約なのに...どうして...)
その問いの答えは、瑠奈にはまだ見つかっていなかった。
翌朝。ダイニングで、二人は顔を合わせた。
テーブルを挟んで、俊哉は新聞を読んでいた。いつもと同じ格好。いつもと同じ仕草。白いシャツに黒いスーツ。口元の小さなほくろ。すべてが、いつもと同じに見えた。
「おはようございます」
瑠奈が、形式的な挨拶を口にした。その声は、小さかった。相手の反応を伺うような、いつもの控えめな音色。
「おはよう」
俊哉は、新聞に目をやったままだった。その返事は、簡潔だった。あまりにも、事務的だった。
瑠奈は、朝食を準備した。玉子焼き、味噌汁、白米、焼き海苔。それらを白い食器に盛り付ける。その手の動きは、いつもより丁寧だった。
テーブルに置く。俊哉は、新聞を置いた。そして、黙ったまま、その食事を口にし始めた。
二人の間に、重い沈黙が流れていた。
視線は、一度も合わない。
コーヒーを淹れる瑠奈の手が、微かに震えていた。昨晩のことが、幻だったのか。それとも、現実だったのか。その区別がついていないまま、瑠奈は機械的に動いていた。
「今日は早めに帰る」
俊哉は、突然そう言った。その声は、いつもの無表情な声だった。だが、その言葉の重さは計り知れなかった。
瑠奈は、顔を上げた。その瞳には、期待と不安が混ざっていた。だが、俊哉はもう玄関へ向かっていた。ドアが閉まる音が、リビングに響いた。
一人取り残された瑠奈は、その後姿を見送ることしかできなかった。
「これで...いいのかな」
小さく呟く。その言葉は、誰にも聞こえない。ただ、白金台の冷たい空気に吸い込まれていくだけだった。
リビングの窓から見える東京の景色は、いつもと変わらず、冷たく輝いていた。