冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 秘書の過去と執着の理由
夜の白銀タワー38階。秘書室の間接照明が、静かに機能していた。
氷室 沙耶は、一人机の前に座っていた。21時を過ぎた時刻。他の従業員たちはとうの昔に退社している。だが、彼女はまだここにいた。書類の整理。明日の会議資料の準備。そして――引き出しの奥から取り出した、一冊の古い従業員手帳。
そこに書かれていた社名は「三井物産株式会社」。
「氷室沙耶」と印刷されたその社員証。5年前のもの。顔写真に映っているのは、今より少し幼い自分の顔だった。その瞳には、まだ希望があった。
沙耶は、その社員証をじっと見つめた。何度も何度も、その写真を眺めるように。
(あの頃は...)
やがて、沙耶の意識は過去へと沈んでいった。
――五年前。商社の秘書室。花柄のカーテン越しに、東京の夜景が見える。28階の窓から。当時24歳の沙耶は、その職場で必死に働いていた。営業部長の秘書として。その上司は――田中。50代の男。既婚者。
「氷室、資料を整理しておいてくれ」
それが始まりだった。仕事の指示。最初は何の変哲もない。だが、やがてそれは変わっていった。肩への触れ方が長くなり。褒め言葉の後に体を引き寄せ。終電の時間に、わざわざ二人きりになる場面を作り。
「君は本当に優秀だな」
その言葉と共に、手が沙耶の腰に触れた。
当時の沙耶は、拒否できなかった。この職場で出世するには。これくらいのことに耐える必要があると、そう思い込んでいた。
(我慢すれば...いつか認められるはず)
そう信じていた。だが、現実はそんなに甘くはなかった。
やがて、沙耶は人事部に訴えることを決断した。セクハラの相談。その勇気は、本当に必要だった。だが――返ってきたのは、想像を超える仕打ちだった。
「氷室さん。あなたの証言だけでは...」
人事部の女性の言葉は、曖昧だった。田中は「事実無根」と主張した。そして、会社全体の空気が変わった。沙耶は「問題のある従業員」というレッテルを貼られた。陰口。避けられ方。あからさまな嫌がらせ。
三ヶ月後、沙耶は退職を余儀なくされた。
「申し訳ない。でも、この職場には...君の居場所がないみたいだ」
それが、人事部長からの最後の言葉だった。
――現在に戻る。白銀タワーの秘書室。沙耶は、その古い社員証をそっと引き出しの奥にしまった。
(もう、あんなことは...)
でも、その言葉さえも、自分自身を欺くものだった。
あの後、絶望の中にいた沙耶に、唯一の光をもたらした男がいた。それが白銀 俊哉だった。
三年前。ハローワークで見つけた求人。白銀グループの秘書募集。面接の日、沙耶は履歴書の空白期間について、覚悟を決めて説明した。
「あの...前の職場では、いろいろ...」
その言葉を最後まで聞かず、面接官――白銀 俊哉は、沙耶の目をまっすぐに見つめた。冷たく見える瞳。だが、その奥には何かが映っていた。
「過去は問わない。君の実力を見たい」
たった一言。だがそれは、沙耶の人生を救う言葉だった。
採用試験に合格した沙耶は、白銀グループの秘書として働き始めた。そして、三年が経った。その間、俊哉は沙耶の努力を見てくれた。報告書の質、スケジュール管理の精度、顧客対応の完璧さ。全てを評価してくれた。
「君がいなければ、このグループは回らない」
そう言ってくれたのは、俊哉だけだった。
(この人だけが...)
やがて、沙耶の中に何かが芽生え始めていた。それは感謝から始まり。尊敬へ変わり。そして、いつしか別の感情へと変わっていった。
愛情。
いや、もっと複雑なものだった。救ってくれた人への絶対的な依存。その人の傍にいたいという執着。その人に必要とされたいという渇望。
深夜の社長室。
現在の時刻は23時を過ぎていた。沙耶は、コーヒーを淹れ、そっと社長室へ向かった。
「社長、お疲れさまです」
机に向かっていた俊哉は、その声で顔を上げた。その視線は、書類から沙耶へ移る。
「まだ居たのか。無理をするな」
その言葉は、優しかった。だが同時に、距離を感じさせるものでもあった。
沙耶は、テーブルにコーヒーを置いた。その動きは丁寧で、完璧だった。秘書として訓練された動き。だが、その動きの中には、別の意図も隠されていた。
「私はあなたがいる限り、ここにいます。その女性よりもずっと...あなたのそばにいたいんです」
その言葉は、表面的には職業的な献身だった。だが、その奥底には、もっと深い感情が込められていた。
俊哉は、その言葉を聞いた。そして、沙耶の顔を見た。その瞳には、確かに何かが映っていた。
(いけない)
俊哉の心の中で、何かが警告を鳴らした。この女性は、自分を頼りすぎている。依存しすぎている。それは、健全ではない。
「沙耶、君は優秀な秘書だ。だが、それ以上でも以下でもない。勘違いはしないでくれ」
その言葉は、冷たかった。氷のように冷たく。沙耶の心に、深い傷を刻むほどに冷たかった。
沙耶の手が、一瞬、震えた。その震えは、すぐに収められた。プロとしての自制心。だが、その自制の下に流れるものは、激しい感情だった。
「...失礼いたしました」
そう言って、沙耶は社長室を後にした。その後ろ姿は、相変わらず完璧だった。だが、その完璧さの裏には、確実に何かが壊れていく音が聞こえていた。
白銀タワーの地下駐車場。薄暗いコンクリートの空間に、高級セダンが静かに停まっていた。沙耶の車だった。その運転席に、沙耶は身を沈めていた。
エンジンはかけず。ハンドルに額を押し当て。肩が、静かに上下する。
涙が、ハンドルの上に落ちた。その塩辛い雫が、深夜の静寂を破る。
「私は...何なの」
その呟きは、誰にも聞こえない。ただ、閉じ込められた車内に、静かに響くだけだった。
(すべてを失ったあの時から...)
やがて、沙耶の涙は止まった。だが、その瞳の中に映ったのは、別の感情だった。
絶望から。怒りへ。
そして、嫉妬へ。
「あの女...」
沙耶の手が、スマートフォンを握った。SNS。そこに映っていたのは、時々写真が投稿される、ある女性だった。
桐原 瑠奈。
白銀グループの現在の社長夫人。平凡な顔。取り立てて美しいわけでもない。だが、その女性が、白銀の隣に立っている。社長の妻として。その地位で。公式な行事で。家族として。
「あなたさえいなければ...」
その言葉は、本当の心の声だった。
やがて、沙耶はスマートフォンを操作した。メッセージアプリ。ある人物からのメッセージを開く。
『瑠奈さんについて、もう少し情報が欲しい』
それは、白銀 統一郎からのメッセージだった。副会長――白銀グループの経営陣の一人で、社長である俊哉とは別の派閥を率いる人物。グループ内の権力闘争の中心的存在であり、俊哉と常に対立関係にある男だ。
その人物から、定期的に情報を求められていた。白銀の妻のこと。その行動。その人間関係。そして、その秘密。
沙耶は、その仕事をこなしていた。理由は、単純だった。統一郎に情報を売ることで、わずかなお金を得ていたのではない。別の理由があった。
(白銀を困らせたい)
いや、もっと正確に言えば。
(あの女を...困らせたい)
そんな感情が、沙耶の心の奥底に沈んでいた。
スマートフォンの画面に、返信を入力する。その指は、冷たかった。
『分かりました』
たった三文字。だが、その三文字が、次の段階への扉を開くことになるのだった。