冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 雨の商店街と差し出された傘
朝日が差し込むレジデンス・プラティーヌ白金の32階。透き通ったガラスを通して、東京の街並みが静寂に包まれていた。
桐原 瑠奈は、スーツケースを引いていた。
荷物はそれほど多くない。白金台のマンションに来てから買った服や、小物類をざっと詰め込んだだけだ。本来ならば、もっと慎重に、丁寧に準備するはずだった。だが、昨夜の言葉がずっと耳に残っていて、手は止まることなく動き続けていた。
「待ってくれ。話し合おう」
リビングから聞こえた俊哉の声。その声は、普段の冷静さを失っていた。だが瑠奈は返答しなかった。もう何も言う言葉はない。いや、言葉はある。だがそれを口にしたら、崩れてしまう気がした。
「もう話すことはありません」
左の鎖骨の下、星形の痕に無意識に手が当たった。その仕草が全てを物語っていた。決意。そして、もう引き返さないという固い意思。
エレベーターに乗った時、後ろ姿で玄関に立つ俊哉の姿は見なかった。見たら、きっと足が止まってしまう。だから瑠奈は、前を向き続けた。
赤羽駅に着いたのは、午前10時過ぎだった。
ホームから階段を下りる。改札を通る。その一つ一つの動作が、どこか現実感がないように感じられた。自分がここにいるのか、それとも誰かの人生を傍観しているのか。そんなぼんやりとした感覚が、瑠奈を包み込んでいた。
駅前の通りに出ると、空が曇っていることに気づいた。
雲が厚く垂れ込めている。いつ雨が降ってもおかしくない空。瑠奈は傘を持っていなかった。持つことを忘れていたのではなく、それすら気にならなかったのだ。
すずらん通り商店街に向かう道すがら、瑠奈の心の中に静かな雨が降っていた。
商店街は昼間なのに薄暗かった。雲の影響もあるが、何よりもこの場所に瑠奈を迎え入れる光がないように感じられた。
定食屋「まんぷく亭」。惣菜店「おかず横丁」。酒屋。八百屋。全部が懐かしく、全部が遠い。幼い頃から何度も通った商店街なのに、今この瞬間だけは、別の世界の景色に見えた。
「瑠奈ちゃん?"
定食屋の店主・大河内源太の声が聞こえた。だが瑠奈は足を止めなかった。向き直ることが怖かった。
「大丈夫です」
声だけ出して、歩き続ける。その足取りは重かった。スーツケースの車輪が石畳を打つ音。その音が、やけに大きく聞こえた。
そこへ——雨が降り始めた。
ぽつぽつとした音。やがてそれは、ざあざあという音に変わっていく。空から水が注ぎ込まれるような、そんな激しさで。
瑠奈は歩き続けた。傘もなく。雨に濡れることさえ、気にしなかった。
涙と雨が混ざり合う。どちらが涙で、どちらが雨なのか、分からなくなっていた。ただ頬が、濡れていた。胸が、痛かった。
(私、どうしてこんなことになってるんだろう)
その呟きさえも、雨音に消されていく。
その時だった。
背後から、足音が聞こえた。
瑠奈は振り返った。
黒いコートを羽織った人影。その顔が、雨の向こう側からはっきりと見えた時、瑠奈の息が止まった。
「——俊哉さん?"
白銀 俊哉だった。
初めて見た。彼女の故郷であるこの商店街に、上流社会の人間を体現するような男が立っていた。黒いコートは高級そうで、靴も完璧に磨かれている。この薄暗い商店街では、明らかに場違いな存在だった。
だが、その表情は——異様だった。
俊哉は何も言わなかった。ただ、自分が持っていた傘を瑠奈に差し出した。
無言。その無言が、全てを語っていた。
「どうして...ここに」
瑠奈の声は震えていた。
傘を見つめる。受け取ることを躊躇う。そのコートから滴る雨。傘を手放した俊哉は、何も身を守るものを持たない。
「私に優しくしないでください」
涙声になっていた。
「そうされると...また期待してしまうから。信じてしまうから。でも、結局...」
言葉が途絶えた。瑠奈の肩が、静かに上下している。
俊哉は、その言葉を聞いていた。その瞳が、瑠奈を捉えていた。
「期待してくれ」
低い声。だがその声には、確かな強さが宿っていた。
「俺は、お前を失いたくない」
その一言で、瑠奈の世界が揺れた。
商店街の人々が、遠巻きに二人を見守っていた。大河内源太。惣菜店で働く瑠奈の母の同僚。通りがかった近所の人々。全員が、その光景を目撃していた。
だが、瑠奈はそれに気づいていなかった。
ただ、俊哉の言葉だけが、雨音の中で響いていた。
「役員会で統一郎が何を言おうと。グループ内でどんなことが起ころうと、俺はお前を信じる」
「告発者だなんて、一秒たりとも本気で思ったことはない。ただ——守り方を間違えた。お前を傷つける形で守ろうとした」
「それが、俺の間違いだった」
俊哉の手が、傘の柄をしっかりと握っていた。その手は、濡れていた。冷たい雨に濡れながら、それでもしっかりと瑠奈に傘を差し出す。
瑠奈はゆっくりと、その傘を受け取った。
「なぜ...もっと早く言ってくれなかったんですか」
涙が止まらない。
「言葉が見つからなかった」
「だから——ここまで来た。お前の故郷まで追いかけてきた。それが、俺にできる唯一の答えだ」
雨音だけが響く。その静寂の中で、二人は向き合っていた。
瑠奈は傘の中に身を入れた。その時、初めて俊哉が自分からは雨に打たれていることに気づいた。肩も濡れている。髪も濡れている。
(この人は...)
そう思った瞬間、瑠奈の心の中に、小さな光が灯った。
「私...まだあなたのことよく分かりません。本当に信じていいのか、怖いです」
それが、瑠奈の本心だった。
「時間をかけよう」
「契約じゃない。本当の関係を作ろう」
その言葉と共に、俊哉は手を差し出した。
瑠奈はその手を見つめた。雨に濡れた手。温かさが感じられそうな手。
ゆっくりと、瑠奈は自分の手を重ねた。
商店街の人々の視線が、再び二人に集中していた。だが、瑠奈はもうそれを気にしていなかった。
雨は相変わらず降り続いていた。だが、瑠奈の心の中では、薄日が差し込み始めていた。