冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 濡れ衣の罠と沈黙の標的
白銀タワー38階。朝の光が反射ガラスに映り込み、企業戦士たちの足音が廊下に響いていた。
その一角の役員フロア。白銀 統一郎は、ひっそりと秘書を呼び出していた。静寂に包まれた応接間。テーブルの上に広げられていたのは、一冊のファイル。そこには、二年前の取引データが整理されていた。特に、丸瀬食品からの書類の中で、たった一つの異常を指摘した記録。それは、桐原 瑠奈の手によるものだった。
「この数字だ」
統一郎は、赤線で強調された欄を指で撫でた。その瞳には、冷たい光が宿っていた。
「数年前の案件ですが...」
秘書が返答を試みた。
「ああ。そして誰がこれを指摘した?」
「丸瀬食品の営業事務の女性で...」
統一郎は微かに笑った。その笑みは温和に見えたが、その奥には獲物を見つめた狩人の眼差しが隠れていた。
「完璧だ。これなら、内部告発者としての疑いをかけるに足る。誰が見ても、自分たちの不正に気づいた人間にしか見えない。俊哉の妻が、白銀グループの闇を暴露した——そう見せかけることができる」
その言葉は、淡々としていたが、その重さは計り知れなかった。統一郎の狙いは明確だった。瑠奈を内部告発者に仕立て上げることで、俊哉の改革派の勢いを削ぐ。グループ内での権力バランスを、自分たちの有利に傾ける。
「役員会で、この資料を提出するぞ。順序が大切だ。最初に瑠奈に関する調査報告をし、その後でこの過去のデータを示す。因果関係が明確に見える形でな」
秘書は頷いた。だが、その頷きの中には、わずかな躊躇も隠れていた。
一方、その朝の同時刻。丸瀬食品の営業事務部では、いつもと同じ朝礼が行われていた。
机の数は16台。その中の二番目のデスクに、桐原 瑠奈は座っていた。黒いストレートロングヘアを後ろで一つに結った姿。白いシャツに紺のスカート。いつもの仕事着。だが、その瞳には、最近、何かが違う光が宿り始めていた。
「るーちゃん、ちょっと...」
隣の席から、宮園 千紗の声がした。淡いヘーゼルブラウンの瞳が、瑠奈に向けられている。その顔色が、わずかに青白い。
「どうしました?」
その返答は、いつもの控えめなトーン。相手の反応を伺うような、そんな語尾だ。
「ねえ、あんた...白銀グループの内部告発者って、聞いた?」
その一言で、瑠奈の顔色が変わった。わずかな硬直。左の鎖骨の下、星形の痕に無意識に手が当たった。
「え...?」
千紗はスマートフォンを瑠奈に見せた。ニュースサイト。「白銀グループの不正会計疑惑——内部告発者は誰なのか」という記事。その記事の奥底には、別の情報が隠れていた。
「ね。この記事の最後。『告発者は白銀グループ内の地位が高い人物である可能性がある』って書いてあるんだよ。だから...」
千紗は、瑠奈の顔をじっと見た。その瞳には、心配と疑念が混ざっていた。
「あんた、何か知ってるんでしょ?」
その問いに、瑠奈は答えられなかった。答えようとしても、言葉が喉に詰まっていた。実は、何も知っていない。だが、知らず知らずのうちに、この渦の中に巻き込まれているのではないか。そんな不安が、瑠奈の心を圧迫していた。
「大丈夫です。俊哉さんが対処してるから...」
その言葉の後、瑠奈は千紗から視線を逸らした。
午後。白銀タワー38階。秘書室。
氷室 沙耶は、一人、書類を精査していた。長い光沢のある栗色のストレートヘアが、キーボードの上に流れている。その瞳は、冷徹に、一枚一枚の記録をチェックしていた。
そこには、瑠奈の過去の業務記録が整理されていた。取引記録、メール履歴、承認印。その全てが、沙耶の視線の下に晒されていた。
(瑠奈さんが、この数字の矛盾に気づいていたのか...)
沙耶の脳裏に、複雑な感情が渦巻いていた。
白銀を困らせたい。その衝動と、白銀を守りたい。その衝動が、沙耶の中で激しく衝突していた。
首筋の小さなアザの痕に、無意識に指が触れた。その痕は、昔の傷。過去の悔恨。
(白銀を困らせてやろう)
そう思う自分と、
(そんなことはできない)
そう思う自分が、沙耶の内側で戦っていた。
夕刻。社長室。
白銀 俊哉は、書類の山に囲まれていた。その顔色は、いつになく厳しかった。
その時、ドアが静かに開いた。統一郎が入ってきた。その表情には、いつもの温和な笑みが浮かんでいた。だが、その瞳は冷徹そのものだった。
「俊哉」
その呼び掛けは、親族としての呼び方。だが、その声には、権力者としての重みが乗せられていた。
「叔父上」
俊哉は、顔を上げた。その瞳が統一郎を捉える。警戒。そして、何かを察知している色。
「役員会で、重要な議題を提出する予定だ。内部告発問題の進展についてね。調査が進んでおる」
その言葉は、淡々としていた。だが、その奥には、明確な脅威が隠れていた。
「何を企んでいるのか」
その質問は、直球だった。社長としての権限。血族としての直感。その両方が、俊哉の言葉に込められていた。
「企むなんて。ただ真実を明らかにするだけだ。君の妻が、この問題にどう関わっているか。調査結果が出た」
その瞬間、俊哉の全身が、氷のように冷えた。
(瑠奈...)
その名前だけが、俊哉の頭の中で鳴り響いていた。
統一郎が去った後、俊哉は沙耶を呼び出した。秘書室。俊哉の表情は、いつになく鋭かった。
「瑠奈に関する調査。誰が指示した」
その質問に、沙耶は答えざるを得なかった。
「統一郎副会長からです」
その一言で、俊哉は拳を握りしめた。
深夜。レジデンス・プラティーヌ白金。32階。
リビングの窓から、東京の夜景が一望できた。スカイツリーとタワーが、無表情に輝いている。
玄関ドアが開いた。瑠奈が帰宅した。その足取りは、いつもより重かった。
リビングに入ると、俊哉がソファに座っているのが見えた。その表情は、最も厳しいものだった。そこには、愛しさも優しさもなかった。あるのは、警告だけだった。
「瑠奈」
その声は低かった。その低さが、瑠奈に深い不安をもたらした。
「はい...」
返答は、か細いものになっていた。
「明日から、会社での言動に細心の注意を払ってくれ。何を聞かれても、不用意に答えるな。わかるか」
その指示は、命令に近かった。
「私、何かしてしまったんですか...?」
その問いの声は、震えていた。
「君は何も悪くない。ただ...巻き込まれている」
その言葉の後、俊哉は顔を向け直した。その瞳が瑠奈を捉えた。その瞳の中には、決意が宿っていた。同時に、迷いも見える。
「俺が...守る」
その一言は、小さなものだったが、その重さは絶大だった。
だが、その言葉に続く説明はなかった。俊哉は、もう何も言わなかった。ただ、瑠奈を見つめていた。その視線は、深く、複雑で、何かが渦巻いている。
瑠奈は、その視線から目を逸らすことができなかった。
(この人は...何から私を守ろうとしてるんだろう)
その問いが、瑠奈の心の奥底で、静かに音もなく響き始めていた。
リビングの窓の外で、東京の夜景は相変わらず、冷たく輝いていた。知らないところで、複雑に絡み合う権力の糸。その糸が、瑠奈の首に、静かに締まり始めていることを、彼女はまだ知らなかった。
だが、俊哉は知っていた。そして、その絡み合う糸から、瑠奈を解放するために、俊哉は何をしようとしているのか。その答えは、まだ、暗黒の中に隠れていた。