冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 痣の意味、沈黙の答え
「あなたは、この痣のこと、知ってるんですか」
俊哉の目が、止まった。
リビングの空気がぴんと張り詰める。窓の外では東京タワーが橙色の光を放っているが、その光がどこか遠いもののように感じた。
一秒。二秒。三秒。
答えが来ない。
瑠奈は、自分の左手が震えていることに気づいた。鎖骨の下、星形の痣の上に置いた手が、小さく揺れている。
(やっぱり、知ってた)
沈黙そのものが、答えだった。「知らない」なら、すぐに否定できるはずだ。「何のこと?」と問い返せるはずだ。なのに俊哉は黙っている。その表情は、いつもの冷静さとは少し違う。どこか苦しそうに、口の端が小さく固まっている。
「俊哉さん」
今度は名前を呼んだ。
俊哉がわずかに動いた。瑠奈の方へ視線を戻す。
「[serious]……座ろう」
その一言だけ言って、ソファに腰を下ろした。瑠奈も、向かい合うように座る。テーブルの上には昨夜のワインのボトルがまだある。空になったそれが、なぜかひどく寂しそうに見えた。
俊哉は、しばらく手を膝の上で組んでいた。何かを考えるように。あるいは、どこから話し始めるかを決めるように。
「[serious]その痣に気づいたのは、最初に会った時だ」
「最初……?」
「[serious]丸瀬食品との取引の会議。君が資料を持ってきた時、首元から少しだけ見えた」
それは、瑠奈が俊哉と初めて同じ空間にいた日のことだ。白銀タワーの会議室。瑠奈は緊張で手が震えながら書類を並べた。あの日のことを、俊哉がこんなふうに覚えているとは思っていなかった。
「あの痣と同じ形を、俺は一度だけ見たことがある」
「……同じ形?」
俊哉は少しだけ目を細めた。
「[serious]父の、古い写真に写っていた女性だ」
瑠奈の手が止まった。
白銀鋼一。二年前に急逝した、白銀グループの前会長。俊哉の父。
「その方が……私と同じ痣を?」
「[serious]父が大学生の頃の写真だった。相手の女性は、鎖骨のあたりに星形の痣があった。父が何度もその写真を眺めていたのを、子どもの頃に見た記憶がある」
静かな声だった。感情を抑えているのか、それとも本当に淡々と話しているのか、判断がつかない。
「その女性が、誰なのか……分かるんですか」
俊哉は少しの間、言葉を探すように視線を床に落とした。
「[serious]父の日記が残っている。封がしてあって、俺はずっと開けていなかった。でも、君のその痣を見た時に——開けるべきか、迷った」
「どうして……迷ったんですか」
「[serious]開けたら、全部変わる気がしたから」
その言葉が、静かにリビングに落ちた。
全部変わる。それは、瑠奈との関係が変わるということか。それとも、白銀家そのものに関わることなのか。
瑠奈は、鎖骨の下に手を当てた。生まれた時からそこにある、星形の痣。母に聞いたことがある。「生まれつきだよ」と、それだけだった。深い話はなかった。それ以上、聞こうとしなかった。
「……私のお母さんに、聞いたことがあります。でも、よく分からなくて」
「そうか」
俊哉は静かに立ち上がった。寝室の方へ歩いていく。瑠奈は待った。リビングの時計が、小さく時を刻んでいる。
少しして、俊哉が戻ってきた。手に、古い封筒を持っている。薄い茶色の封筒。封が丁寧にされていて、表には何も書いていない。
「[serious]父の日記の、最後のページに挟んであった」
俊哉はソファに戻り、封筒をテーブルの上に置いた。二人の間に、それは静かに置かれた。
「開けていいか」
瑠奈は、封筒を見つめた。
怖かった。本当のことを知りたいという気持ちと、知らないままでいたいという気持ちが、同時に胸の中にある。知ったら、俊哉との関係がどうなるのか、分からない。でも——
(逃げたくない。もう)
昨夜、「一緒にいたい」と言った。あの言葉は本当だった。だから、怖くても向き合う。
「[gentle]……はい。開けてください」
俊哉は封筒を手に取り、丁寧に封を切った。中から、折りたたまれた紙が一枚出てきた。古い便せん。インクの色が少し褪せている。
俊哉が広げ、目を走らせた。
瑠奈は、俊哉の表情を見ていた。冷静な目が、文字を追っていく。その目が、一度止まった。
「[surprised]……桐原」
「え?」
「[serious]この手紙に書いてある名前が——桐原芳恵だ」
瑠奈の肺が、一瞬止まった。
桐原芳恵。それは、瑠奈の母の名前だった。
「……お母さん……?」
声が、かすれた。
俊哉は手紙を瑠奈の方に向けた。瑠奈は震える手でそれを受け取った。インクで書かれた文字が、目に飛び込んでくる。
——芳恵へ。
君のことは、ずっと忘れられなかった。あの痣のこと、今でも思い出す。生まれてきた子が、それを受け継いでいたとしたら——どうか、幸せでいてほしい。俺には、それを確かめる資格がない。だから、これだけを書く。
——鋼一より。
瑠奈は、文字を読みながら、自分が何を感じているのか分からなくなった。怖い。でも、泣きたいわけでもない。ただ、頭の中で何かが静かに組み替わっていく感覚があった。
(お母さんと、俊哉さんのお父さんが……)
「[serious]瑠奈」
俊哉が、名前を呼んだ。苗字ではなく、名前で。
瑠奈は顔を上げた。俊哉が、自分をまっすぐに見ている。その目に、いつもの冷静さとは別の何かがある。
「これが、本当のことだとしたら——」
俊哉はそこで一度、言葉を切った。
「[serious]俺が君を選んだのは、偶然じゃなかった。でも、それは君が嫌だと思うなら、俺は——」
「[gentle]……嫌じゃないです」
俊哉の言葉を、遮った。
自分でも驚いた。でも、嘘ではなかった。
「なんで、って聞かれたら、うまく答えられないんですけど」
手紙を膝の上に置いて、瑠奈は続けた。
「あなたのお父さんと、うちのお母さんに何があったのかは、まだよく分からなくて。でも……それで、あなたが私を選んだとしても、今ここにある気持ちは、本物だと思ってます」
声が、少し揺れた。でも、視線は俊哉から外さなかった。
「[gentle]……そう言えたこと、すごいな、私」
最後の一言は、自分に向けたつぶやきだった。
俊哉は、一拍おいてから、口の端をわずかに動かした。笑ったのか、それとも安堵したのか、境界線が分からないような表情だった。
「[gentle]……ああ」
それだけ言って、俊哉は瑠奈の手を取った。昨夜と同じ温かさ。でも、昨夜よりも少しだけ、力が強い気がした。
リビングに、しばらく静かな時間が流れた。東京タワーの橙色の光が、窓の外で変わらず灯っている。
瑠奈は俊哉の手の温かさを感じながら、膝の上の手紙を見た。薄い便せん。古いインク。そこには、まだ知らないことがたくさんある。お母さんのこと。鋼一のこと。この痣の意味。謎の電話の声が言っていた「目をつけられていた」という言葉の真相。
全部が、今すぐ分かるわけじゃない。
でも今夜は、この手の温かさだけで十分だと、瑠奈は思った。
——ただ、手紙の最後の文字を、もう一度だけ目でなぞった時、胸の奥に小さなとげが刺さるような感覚があった。
*俺には、それを確かめる資格がない。*
(白銀鋼一は、なぜ確かめに来なかったのか)
その疑問は、静かに、でも確実に、瑠奈の中に残った。