冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 壁ドン、鎖骨、そして修羅場
白銀タワー20階の廊下は、朝の陽光に満ちていた。
桐原 瑠奈は、その廊下を歩いていた。白いシャツに紺のスカート。髪は後ろで一つに結ばれ、小さな白のヘアピンが光っている。いつもの仕事着だ。だが、廊下を歩く足取りは重かった。
(来るべきではなかった...)
そう思いながらも、瑠奈は前へ進まずにはいられなかった。昨夜、俊哉から受けた警告。「明日から、会社での言動に細心の注意を払ってくれ」という、静かだが確固とした指示。その意味を、瑠奈は理解していた。自分が何らかの疑いをかけられているということ。でも何の疑いなのか、まだ正確には分かっていない。
すれ違う社員たちの視線が、瑠奈の身体に吸い寄せられた。
計算部門の女性社員が、瑠奈の姿を見ると目を逸らす。営業部の男性は、瑠奈から距離を置いて歩く。視線だけでなく、物理的な距離。それが露骨だった。
(何か...変わった)
先週までは、こんなことはなかった。むしろ、社員たちは瑠奈を「社長夫人」として扱い、何か奇異な視線こそ向けていたが、距離を置くことはなかった。それが、今では——
廊下の奥から、小声が聞こえた。
「あの人が...」
言葉は途切れた。だが、その「あの人」というのが自分を指しているのは、瑠奈に明らかに分かった。左の鎖骨の下、星形の痕に、無意識に手が当たる。緊張のサイン。
20階のオフィスに到着した時、瑠奈の心は既に疲弊していた。受け取ったメッセージの中に、千紗からのラインが混ざっていた。
『るーちゃん大丈夫...?』
その一文だけで、千紗も状況を察しているのが分かった。だが、瑠奈は返信することができなかった。何を書いていいのか分からなかった。
(誰にも...相談できない)
その考えが、瑠奈の心にのしかかった。守秘義務。契約結婚のことは、誰にも言えない。だから、何が起きているのか説明することもできない。ただ、疑いをかけられ、距離を置かれ、何もできずに立ち尽くすだけだ。
午後2時。瑠奈は俊哉との打ち合わせのため、再び白銀タワーへ向かった。今度は、38階だ。
エレベーターは混んでいた。営業部のグループが乗っていて、瑠奈が乗ると、彼らの間に微妙な沈黙が落ちた。視線が、同時に瑠奈から逸れた。
(やはり...)
瑠奈は、エレベーターの隅に身を寄せた。できるだけ目立たないように。できるだけ呼吸をしないように。
20階を過ぎた時、エレベーターが停まった。営業部の面々が降りる。その際、一人の女性社員が瑠奈とぶつかりそうになった。本来なら、「すみません」という言葉が交わされるはずだった。だが、女性社員は瑠奈の身体を避けるように、わざと大きく迂回して降りて行った。
その態度が——傷つけた。
エレベーターはさらに上へ。階数を示す表示が増えていく。だが、瑠奈の気持ちは、逆方向へ落ちていった。
28階。エレベーターが再び停まった。
ドアが開く。そこに、白銀 俊哉が立っていた。黒いスーツ、白いシャツ、口元の小さなほくろ。その視線が、瑠奈を一瞬で捉えた。
俊哉は何も言わなかった。ただ瑠奈の顔を見て、その眉が微かに曇った。彼女の表情を読み取ったのだ。疲労。不安。そして、孤立感。
「来てくれ」
短い言葉。だがその声は、確かに瑠奈に届いた。俊哉は、彼女の腕を軽く掴み、エレベーターの隅へと引き寄せた。そして、緊急停止ボタンを押した。
カン、という音。エレベーターが動きを止める。
天井の灯りだけが、二人の空間を照らしていた。他に誰もいない。密室。
「さっきの廊下での様子。気にするな」
その言葉は、指示というより懇願に近かった。
「でも...みんなが...」
声は小さかった。相手の反応を伺うような、控えめな語尾。
「俺が、何とかする」
その一言の後、俊哉は瑠奈の背へと身を寄せた。彼女を、自分の体で壁へと押さえるように。
そしてその次の瞬間——俊哉の腕が、瑠奈の背後の壁に、片手がついた。
壁ドン。
瑠奈の心臓が、激しく鼓動を始めた。俊哉の身体が、これまでにないほど近い。その距離は、もう20センチもなかった。
「誰にも、お前を傷つけさせない」
低い声。そこには、社長としての冷静さは欠片もなかった。代わりに映っていたのは、別の感情。所有欲か。保護欲か。瑠奈には分からなかった。
瑠奈の胸が、高鳴った。至近距離で向き合う俊哉の顔。その瞳を見つめる。冷たく見える瞳の奥に、何かが渦巻いている。
(この人は...何を考えてるんだろう)
その問いが、瑠奈の脳内に渦巻いていた瞬間——俊哉の視線が、わずかに下へ移動した。
瑠奈の襟元。ブラウスが開いており、その奥が見えている。そこに、小さな星形の痣が在った。左の鎖骨の下。幼い頃の火傷跡。
その痣を、俊哉は見つめた。一瞬だけ。だが、その一瞬で何かが揺らいだのが、瑠奈に感じられた。
俊哉の手が、瑠奈の頬に向かった。
「どうかしましたか...」
その問いの声は、震えていた。
「いや...」
その言葉の後、俊哉は視線を逸らした。だが、その逸らし方が、完全ではなかった。心なし、瑠奈の首筋に視線が残っている。
その時——
カン。
エレベーターが、動き始めた。誰かが外から、ボタンを押したのだ。
緊張が、瑠奈の全身を走った。俊哉はすぐに身を離した。距離を広げた。社長としての無表情が、その顔に戻ってくる。
ドアが開く。
そこに立っていたのは——氷室 沙耶。長い光沢のある栗色のストレートヘア。鋭いグレーの瞳。その瞳が、エレベーター内の二人を捉えた。
沙耶の表情が、一瞬で凍りついた。瑠奈はエレベーターの奥に、俊哉は壁の側に。二人の距離は、完全に消えていた。それも、ほんの数秒前まで。その痕跡が、空気に残っていた。
「お二人とも、お忙しそうですね」
その声は、氷のようだった。表面的には丁寧な敬語。だが、その奥に隠された感情は——嫉妬。そして、計算高い意図。
「次の会議の準備だ。すぐ社長室へ戻る」
その返答は、完璧だった。何の感情も込められていない。社長としてのプロフェッショナルな対応。
「かしこまりました」
だが、沙耶の視線は、瑠奈に向けられていた。その視線の中には、明確な警告があった。
俊哉はエレベーターを降りた。沙耶も後を追った。だが、その瞬間の目配せで——沙耶は瑠奈に言った。何の言葉も発しないまま。
(お前には、社長の時間を独占する権利はない。その地位は、一時的なものだ)
そう言われた気がした。
エレベーターのドアが、静かに閉じられた。
瑠奈は一人、38階から1階へ下っていく。その間、ずっと——俊哉の手が壁についた瞬間のことを思い出していた。至近距離で向き合った顔。低く告げられた言葉。「誰にも、お前を傷つけさせない」。
そして、その言葉の直後に見つめられた、自分の鎖骨の痣。
(あの人は...私の何を知ってるんだろう)
それは、瑠奈の心の奥底で、静かに——しかし確実に、不安を深める問いとなっていった。