冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 母の影、娘の迷い
赤羽の駅を出た時、秋の夕暮れが街を染めていた。
桐原 瑠奈は駅前の商店街へ足を向けた。懐かしい景色。幼い頃から何度も通った道。すずらん通りの看板が、あいにくの薄暗さの中でもまだ見える。八百屋、肉屋、惣菜店。それらが所狭しと並んでいる。
その中の一軒——おかず横丁の前で、瑠奈は立ち止まった。
母親だ。
白髪混じりのショートボブに、紺の割烹着を着た女性が、店の中で何かを準備していた。桐原 芳恵。瑠奈の母だ。
店内には薄い灯りが灯っている。母親の動きは、素早く、慣れたものだ。唐揚げを盛りつけ、煮豆を詰める。その手の動きに、無駄がない。左手の薬指には細い傷跡があった。若い頃のスポーツ中の怪我の名残。瑠奈は、その傷跡を何度も見ていた。
「あ、るな」
母親が顔を上げた。淡い黒目の瞳が、瑠奈を捉える。その瞳には、母親としての親愛と、何か別の感情が混ざっていた。
「お疲れさま。今日の仕事は?」
母親は割烹着を脱ぎながら、瑠奈に歩み寄った。その姿は、いつもの日常的で、温かかった。だが、瑠奈の心には、重い空気が流れ込んでいた。
「大丈夫。でも、お母さんと話したいことがあって」
声は小さかった。相手の反応を伺うような、控えめな音色。左の鎖骨の下、星形の痕に無意識に手が当たる。緊張のサイン。
母親は、瑠奈の顔をじっと見つめた。その瞳の中に、何かが映る。娘が何かを抱えていることに、一瞬で気づいたのだ。
「そう。家で話しましょう」
二人は家に向かった。赤羽駅から徒歩12分。築35年の木造二階建ての家。瑠奈の実家だ。
ドアを開けると、懐かしい匂いが鼻をついた。古い木の香り。味噌の香り。母親の存在の香り。
居間のテーブルに、二人は向かい合って座った。母親は素早く夕食の準備を始めた。焼き魚、味噌汁、漬物、白米。それらは、いつもと変わらない、質素で温かい食事だった。
テーブルに置かれた食器。母親は、対面に座った。その瞳は、瑠奈をまっすぐに見つめている。
「あんた、本当に幸せなの?」
その一言が、瑠奈の胸を貫いた。
「……え?」
声が出た。その声は、か細かった。
「いつもの笑顔じゃないんだよ。あんた。何か、重いもの、かかえてる。そういう顔をしてる」
母親は、焼き魚の骨を外した。その動作は落ち着いていて、瑠奈に圧力を与えていなかった。だが、その問いの重さは、増すばかりだ。
瑠奈は、自分がどう返答すればいいのか、わからなかった。契約結婚だなんて言えない。守秘義務がある。でも、嘘もつきたくない。その板挟みの中で、瑠奈は黙り込んだ。
「大丈夫です。幸せです」
その言葉は、作られた言葉だった。営業スマイルのような、表面的な言葉。母親は、それを一瞬で見抜いた。
母親は、瑠奈をじっと見つめた。その瞳の奥に、何かが映っていた。不安。懸念。そして、娘に向かわせたかった何かが、上手く機能していないことへの、静かな後悔のような感情。
「あたしね」
母親は、急に話し始めた。その切り出し方は唐突で、瑠奈を驚かせた。
「昔、陸上選手だったんだよ。100メートル走でね。県大会で3位まで行ったんだ」
その言葉で、瑠奈は顔を上げた。母親の過去について、詳しく聞いたことはなかった。父親が病気だった頃、母親がどんな人生を歩んできたのか。その歴史を、瑠奈は知らなかった。
「全力で走った。全力で跳んだ。あの頃は、何もかもが可能だと思ってた。オリンピックにだって、いけるんじゃないかって」
母親は、焼き魚を口に運んだ。その動作の中に、遠い思い出への没頭が見られた。
「でも、19の時。膝の靭帯を断裂した。スポーツ中にね。リハビリしたよ。本当に、必死で。でも、戻らなかった。あの頃の自分には戻らなかった」
その言葉の中に、静かな絶望があった。瑠奈は、母親の話に引き込まれていた。
「それからは、何もしたくなかった。何も、追いかけたくなかった。だって、追いかけても、結局は何も残らないんだよ。怪我だけが、残った」
母親は、左手の薬指を見せた。その傷跡は、静かに光を受けていた。
「だから、あんたには。堅実に、人に迷惑かけずに、普通に生きてほしかった。そう思ってた。あんたが、あたしみたいに、何かを失うことのないようにって。あたしみたいに、空っぽになることのないようにって」
その言葉で、瑠奈の目に涙が溜まり始めた。
「でも、今のあんた。昔のあたしと同じ目をしてる。無理してる目。本当は、どうしたいのか、わかんないのに、無理やり、『これでいい』って言い聞かせてる、そういう目」
瑠奈は、そこで言葉を失った。その瞬間、母親の言葉が、自分の心の奥底に突き刺さったのを感じた。
母親の警告の意味を、瑠奈は理解した。母親は、娘に「堅実さ」を求めていたのではなく、「本当の自分」を失わないことを求めていたのだ。その二つは、相容れない関係性にあったのだ。
「あんたが何を隠してるのか、お母さんには、わからない。でも、困ったら、いつでも帰ってきてね。ここはね、あんたが何になろうとも、どうなろうとも、受け入れる場所だから」
その言葉で、瑠奈は堪えていた涙を落とした。
夜遅く、白金台へ向かう電車の中だった。
ベージュのシートに座った瑠奈は、窓の外を見つめていた。電車は高架線の上を走っていて、夜景が流れていく。赤羽の懐かしさから、白金台の冷たさへ。その移動の景色を、瑠奈は見つめながら、母親の言葉を反芻していた。
「無理してる目」
その言葉が、瑠奈の心を揺さぶっていた。
(私は、本当は何がしたいんだろう)
そう思いながら、窓に映る自分の顔を見つめた。その顔は、消沈していた。不安に満ちていた。だが同時に、何かが決まりかけているような、そんな凛とした表情も見える。
(契約だから。そう言い聞かせていた)
母親が言ったように、瑠奈は自分を無理やり納得させていたのだ。「これは契約なんだ。感情を持ってはいけない。割り切るんだ」と。
だが、現実は違っていた。
電車が駅に停まる。次の駅は白金台だ。瑠奈は立ち上がった。その時、決意が胸の中に生まれていた。
(私は……)
目をまっすぐに前に向ける。
(私の答えを見つける。逃げないで)
その言葉は、小さく呟かれた。だが、その声には、初めて本当の意志が宿っていた。迷いではなく、决意。不安ではなく、覚悟。
レジデンス・プラティーヌ白金の32階。
深夜0時を過ぎた時刻だった。玄関ドアが開く。瑠奈が帰宅した。リビングの照明は消されていたが、書斎の灯りが薄く漏れている。
リビングに足を踏み入れた瑠奈は、誰かの気配を感じた。
ソファに、白銀 俊哉が座っていた。
黒いスーツの上に、シャツを羽織った簡易的な姿。その顔は、仕事の疲労に満ちていた。だが、瑠奈の姿を見た瞬間、その表情が変わった。
「遅かったな。心配した」
その言葉に、瑠奈の心が揺れた。
「実家に行ってました。お母さんと、いろいろ……」
その先の言葉は、出てこなかった。俊哉は、瑠奈の顔をじっと見つめている。その瞳の中に、何かが映っていた。
瑠奈は、母親の言葉を思い出していた。「無理してる目」と、母親は言った。その「無理」が、この男との関係性の中で生まれているのか、それとも自分自身の中で生まれているのか。その区別がついていないままに、瑠奈は立ち尽くしていた。
「疲れてるだろう。休んでくれ」
その一言で、瑠奈は頷いた。だが、その動きは重かった。
寝室に向かおうとした時、瑠奈は一瞬、振り返った。だが、俊哉の顔は既に書斎の方を向いていた。
リビングに一人残された俊哉は、瑠奈が去った後、深く息をついた。その視線は、リビングの窓に向けられていた。東京の夜景。スカイツリーとタワー。それらが無表情に輝いている。
「統一郎の動きが……」
俊哉は、小さく呟いた。その呟きは、誰にも聞こえない。只、白金台の冷たい夜気に吸い込まれていくだけだった。
明日の朝、白銀グループ内の派閥抗争が、さらに激化するはずだった。統一郎派が、新たな動きを見せ始めていたのだ。だが、その時、俊哉の心には、瑠奈の姿が映っていた。
母親に会って、何を考えたのか。その表情を見ると、何かが変わろうとしている気がした。契約。その言葉だけで結ばれた二人。だが、その関係性が、今、何かを超えようとしているのではないか。
俊哉は、壁に額を押し当てた。
「俺も……答えが分からない」
その呟きは、声にならない叫びだった。
深夜の白金台は、静寂に包まれていた。その中で、二つの心が、同時に揺れ動いていた。