冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 第28話
手紙の文字が、まだ目の裏に残っていた。
*俺には、それを確かめる資格がない。*
昨夜、俊哉の手の温かさを感じながら眠りについた。それは本当のことだ。でも朝になって、その温かさが消えた後に残ったのは、あの一文だった。
白銀鋼一は、なぜ確かめに来なかったのか。
レジデンス・プラティーヌ白金の32階。朝の光が、広いリビングの床に長い影を作っている。瑠奈はソファに腰を下ろして、両手でコーヒーカップを包んでいた。蒸気がゆっくりと立ち上り、顔の前で散っていく。
(お母さんは、知ってたのかな)
桐原芳恵。56歳。赤羽の古い家で一人暮らし。惣菜店でパートをして、娘の結婚を遠くから心配している、普通の母親。
でも昨夜、あの便箋に書いてあった名前は確かにそれだった。鋼一の手紙の宛名。星形の痣に言及した一節。そして「生まれてきた子が、それを受け継いでいたとしたら」という一文。
(受け継いでいたとしたら、って——それって)
考えかけて、止めた。今すぐ答えを出す必要はない。昨夜、俊哉にそう言われたわけではないけれど、二人の間の空気がそう言っていた気がした。急がなくていい、と。
廊下から、足音が聞こえた。
俊哉がリビングに入ってきた。黒いスーツをすでに着込み、ネクタイを整えている。いつもより少しだけ早い時間だが、表情はいつもの冷静さに戻っている。ただ、昨夜の手紙のことを二人とも知っているという事実が、空気の中にひっそりと漂っていた。
「[gentle]コーヒー、まだあるか」
「[gentle]あります。淹れますね」
立ち上がろうとした瑠奈を、俊哉が手で止めた。自分でキッチンへ向かい、棚からカップを取る。その仕草が、こんなに自然になったのはいつからだろう、と瑠奈は思った。契約書を交わした頃、俊哉はこのキッチンに立つことすらなかった。
俊哉がカップを持ってソファに戻り、瑠奈の隣に腰を下ろした。テーブルの上には、昨夜の便箋がまだある。二つ折りにして置いてある、古い紙。
しばらく、二人は黙ってコーヒーを飲んだ。
その沈黙は、気まずいものではなかった。言葉を選んでいるのでも、何かを隠しているのでもなく、ただ同じ重さのものを二人で持っているような、そういう静けさだった。
「[serious]……母親に、聞いてみるか」
瑠奈はカップを膝の上に下ろした。
「[gentle]……そうですね。聞かなきゃいけないとは、思ってます」
「怖いか」
正直に、と思った。昨夜、「嫌じゃない」と言えた自分が、今日もいる。
「[gentle]怖いです。でも……知りたいとも思ってます。うちのお母さんがどんなことを抱えてきたのか、ちゃんと知りたい」
俊哉がわずかにうなずいた。
「[serious]俺も一緒に行く」
「え」
思わず声が出た。俊哉が赤羽に来る。あの古い家に、この人が。想像しようとして、うまくできなかった。
「[serious]お前一人では荷が重い。それに、父の手紙のことは俺も当事者だ」
淡々とした言い方だった。でも、それが俊哉のやり方だということを、瑠奈はもう知っている。感情的な言葉より、こういう静かな言葉の方が、この人の本音に近い。
(一緒に来てくれる)
胸の奥で、じわりと何かが温かくなった。昨夜の手の感触が蘇る。
「[gentle]……ありがとうございます」
「礼はいい」
それだけ言って、俊哉はコーヒーを一口飲んだ。窓の外、白金台の朝の空が青く広がっている。雲一つない、きれいな晴れだった。
——その日の午前中、瑠奈は丸瀬食品の営業事務部に顔を出した。
有給を使うことを上司に伝えるためだったが、千紗がすぐに気づいた。隣の席から、じっとこちらを見ている。
「[serious]なんか、顔が違う」
「え、そうですか」
「違う。昨日より……なんか、落ち着いてる。でも、悩んでる感じもある。どっちなの」
「[laughing]……両方です、たぶん」
千紗が苦笑いした。「正直すぎるんだよね、瑠奈って」と小声で言う。その声がいつもの千紗で、瑠奈は少しだけほっとした。
有給届を提出して、オフィスを出た。
——昼過ぎ。瑠奈は赤羽にいた。
JR赤羽駅の東口を出て、商店街「すずらん通り」に入る。全長三百メートルほどの通りに、見慣れた店が並んでいる。惣菜店「おかず横丁」の前を通ると、白いエプロン姿の母が客に袋を渡しているのが見えた。
声をかけようとして、少し待った。母が手が空くのを待ってから、近づく。
「[surprised]瑠奈? 今日、仕事は」
「[gentle]休みとりました。ちょっと、話したいことがあって」
母が一瞬だけ目を細めた。娘の顔を読もうとする、昔からの癖だ。
「……分かった。お昼、まんぷく亭行く?」
定食屋「まんぷく亭」。父の親友だった大河内さんの店。日替わり定食七百五十円。瑠奈が一人でこっそり来る場所。
二人で並んでカウンターに座り、日替わりを頼んだ。大河内さんが「久しぶりだな、瑠奈ちゃん」と言いながら味噌汁を出してくれた。その声が、この場所の空気が、瑠奈の肩から少し力を抜いてくれた。
料理が来てから、少しだけ食べてから、瑠奈は口を開いた。
「[serious]お母さん、聞いていい?……白銀鋼一って、知ってる?」
箸が、止まった。
母の手が、テーブルの上で静止した。一秒。二秒。それから、ゆっくりと母は顔を上げた。
その目を見た瞬間、瑠奈は全部を理解した。
知っていた。ずっと、知っていた。
「……どこで」
「[gentle]手紙が、残っていました。お母さんに宛てた手紙が」
母は静かに目を伏せた。長い沈黙だった。大河内さんがそっとカウンターの奥に引いてくれた。気を利かせてくれた、ということが分かった。
「[sad]……ごめんね、瑠奈」
「謝らないでください」
思ったより、はっきりした声が出た。
「[gentle]怒ってるわけじゃないんです。ただ……知りたかった。お母さんが何を抱えてきたのか。私がこの痣を持って生まれたことに、どんな意味があるのかを」
母がゆっくりと顔を上げた。目が、少し赤くなっていた。
「[sad]……昔、好きな人がいた。大学の時の話よ。でも、その人には家があって……家の事情があって。別れなきゃいけなかった」
「その人が」
「[sad]……うん。でも、あなたが生まれた時には、もう連絡できる状況じゃなかったから。あなたのことは、私一人で育てようって決めた。父さんが来てくれたから、本当によかったけど」
父。桐原家の父——瑠奈が高校生の時に病気で亡くなった人。優しくて、冗談が好きで、赤羽のこの商店街を一緒に歩いた人。あの人は、そういう事情を知った上で、母と一緒になってくれたのか。
(父さんって、すごい人だったんだな)
それを思ったら、なぜか涙が出そうになった。泣かないようにして、味噌汁を一口飲んだ。
「[gentle]……俊哉さんが、一緒に来てくれるって言ってます」
「え」
「鋼一さんの息子さんです。私の……夫」
母が、少しだけ固まった。それからゆっくりと、複雑な表情で目を細めた。悲しいのか、驚いているのか、それとも安心しているのか、全部が混ざったような顔だった。
「[gentle]……そう」
「会えますか、お母さん。俊哉さんと。ちゃんと、三人で話したいんです」
母は少しの間、黙っていた。窓の外、すずらん通りに昼の人通りが続いている。近所のおばさんが通り過ぎた。いつもの、普通の赤羽の午後。
「[gentle]……分かった。来てもらいなさい」
静かな、でもはっきりした返事だった。
瑠奈は小さくうなずいた。胸の奥にあった緊張が、少しだけほどけた気がした。全部が解決したわけじゃない。鋼一が来なかった理由も、暁星会との関係も、謎の電話の男が言っていた「目をつけられていた」という言葉の意味も、何一つ分かっていない。
でも今日は、一歩だけ進んだ。
帰り際、大河内さんが「またおいで」と言ってくれた。いつもと同じ言葉。それだけで、十分だった。
——夜。レジデンス・プラティーヌ白金。
俊哉に、今日のことを話した。母が認めたこと。会ってもいいと言ったこと。
俊哉は黙って聞いていた。話し終わった後、少しだけ窓の外を見た。東京タワーの橙色の光が、いつものように灯っている。
「[serious]……そうか」
それだけ言って、俊哉は瑠奈の方を向いた。
「よくやった」
短い言葉だった。でも、俊哉が「よくやった」と言うことは、あまりない。瑠奈はその言葉を、静かに胸の中に受け取った。
ソファに並んで座って、二人は少しの間、何も言わなかった。テーブルの上に、昨夜の便箋がまだある。古い紙。薄いインク。でも、その文字に込められたものは、何十年も経った今もここにある。
瑠奈はそっと、俊哉の手の甲に自分の手を重ねた。昨夜と逆だった。今夜は、自分から触れた。
俊哉は驚いた様子もなく、ただ、その手を軽く返してきた。
窓の外では、東京の夜が広がっている。この街のどこかに、まだ答えを持っている人がいる。謎の電話の声が言った言葉の意味を知っている人が。でも今夜は、それでいい。
(ここに、いていい)
初めて、そう思えた気がした。白金台のこの部屋が、疎外感ではなく——自分の場所として、少しだけ感じられた、そんな夜だった。