冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 豪華なマンション、冷たい距離
翌日の朝、瑠奈はレジデンス・プラティーヌ白金のエントランスロビーに立っていた。
ガラスのドアを通して、真っ青な空が見える。朝陽が白い壁に反射し、ロビー全体が淡い金色に染まっている。ここは赤羽の暗い6畳間とは全く別の世界だ。
「お嬢さん、でしたね」
声をかけてきたのは、管理人の堂島辰巳だった。58歳。元ホテルマンだという経歴が、その立ち姿と物腰から滲み出している。紺色のスーツに白手袋。完璧に整えられた髪。微笑みは職業的でありながら、どこか温かみがある。
「白銀様がお待ちしておりました。32階へご案内いたします」
瑠奈は黙って頷いた。声を出す勇気がなかった。
堂島が引く手荷物は、瑠奈が昨夜用意した小さなスーツケース1つだけ。もう1つは業者が別のトラックで運んできているはずだ。全部で3000万円分の人生が、この空間に詰め込まれている。
専用エレベーターに乗り込む。内部は前回と同じ。鏡張りの壁、大理石の床、無音に近い稼働音。ボタンをタッチすると、数字が上昇していく。
10階。20階。30階――
32階で停止した。
ドアが開く。
目の前に広がる景色に、瑠奈の息が止まった。
220平方メートル。天井高3.5メートル。全面ガラス張りの窓から、東京タワーとスカイツリーが一望できる。光の中に浮かぶ二つのタワー。その手前には、港区全体の街並みが縮図のように広がっている。
「素晴らしいでしょう」
堂島の声が、遠くから聞こえた気がした。
瑠奈は何も答えられない。リビングの白いソファ、黒い家具、艶やかなフローリング。全てが新しく、清潔で、自分の居場所ではない気がしていた。
「こちらがマスターベッドルームです」
堂島が奥を指した。広い廊下の先に、複数のドアが見える。
「白銀様はあちらでございます。こちらがゲストルーム。お嬢さんのお部屋です」
堂島が示したドアは、廊下の反対側にあった。マスターベッドルームとは、廊下を挟んで真反対の位置だ。
(やっぱり...)
瑠奈は心の中で呟いた。契約だから当然だ。別の部屋を与えられるのは、ごく自然なことだ。それなのに、胸が締め付けられるような感覚がある。
「こちらです」
ゲストルームは、8畳ほどの明るい部屋だった。ベッド、机、クローゼット。シンプルで、だからこそ何の個性もない空間。瑠奈はスーツケースを開いて、少ない私物を整理し始めた。
夕方、俊哉が帰宅した。
リビングで夕食を用意していた瑠奈は、玄関のドアが開く音を聞いて、反射的に立ち上がった。
「お帰りなさい」
そう言ったのは、相手の顔も見ないままだった。
「ああ」
俊哉は短く返すと、スーツのジャケットを脱ぎ始めた。無表情だ。瑠奈を見ていない。
瑠奈は恐る恐る声をかけた。
「あの...夕食、作りましたけど」
テーブルには、和食の一汁三菜が並んでいる。白米、味噌汁、焼き魚、野菜の煮物。赤羽の母が教えてくれたレシピで、昨夜のうちに下ごしらえして、今日は温めるだけで済ませた。
俊哉は、その食卓をちらと見た。わずかに眉が上がる。意外そうな表情だ。
でも、次の言葉は冷たかった。
「不要です。私は外で済ませます」
そう言うと、俊哉はそのまま奥へ消えていった。シャワーの音が、廊下を通して聞こえた。
瑠奈は、テーブルに向かって座った。そして、一人で食事をした。
白い御飯の粒が、ひとつ、ふたつ、喉を通る。何の味もしない。
(契約だから...)
瑠奈は自分に言い聞かせた。
(これで正しい。約束した通り。何も間違っていない)
食器を洗った。風呂に入った。ゲストルームに戻って、ベッドに横たわった。
天井の照明が、やさしく光っている。赤羽のアパートでは見たことがない照明だ。スマートライトといって、色や明るさを自由に変えられるらしい。
瑠奈は何も触らず、ただ光を眺めていた。
深夜2時。
トイレに起きた瑠奈は、廊下に出ると、リビングから微かな光が漏れているのに気づいた。誰かいるのか。俊哉か。
そっと歩み寄る。リビングのドアは開いていた。
俊哉がソファに座っていた。
ハーフパンツにTシャツという、家着姿だ。窓の外の夜景を背に、手にはワイングラス。赤ワインが、グラスの中で暗く光っている。
こちらに気づいていない。無表情で、ただ窓を眺めている。肩の力が抜けていて、社長という肩書きが嘘のように見える。
瑠奈は身動きできなくなった。
(あの人...いつもあんなふうに一人で...)
声をかけるべきか。でも何を言えばいいのか分からない。邪魔をしてはいけない。こっそり部屋に戻ろう。
そう思いながら、瑠奈は後ずさりした。
足が、廊下の角の家具にぶつかった。
小さな音。でも、静寂の中ではっきりと響いた。
「...誰だ」
俊哉が振り向いた。瑠奈の姿を認識した。その瞳が、警戒から何かに変わった。
瑠奈は条件反射のように、左の鎖骨の下、星形の痕がある場所に手を当ててしまった。
「す、すみません...トイレに」
言い訳のようなセリフ。俊哉は何も言わず、ただ瑠奈を見ていた。
その視線が、赤羽の下町で受けた視線とは全く違う。社長としての冷淡さではなく、人間としての何かが、ほんの一瞬だけ、瑠奈に向けられた気がした。
「...早く戻ってください」
俊哉はそう言って、また窓に向き直った。
瑠奈は部屋に戻った。ベッドに横たわっても、眠れなかった。
リビングでワインを飲む俊哉の横顔。無表情だが、その奥に何かが燻っているような、そんな雰囲気。
(あの人...誰に支えられてるんだろう...)
翌朝、瑠奈は早起きした。
時計は午前6時。外はまだ薄暗い。でも瑠奈の心は、決意で満たされていた。
キッチンで朝食の準備を始めた。米を研ぎ、味噌汁の出汁をとる。焼き魚、玉子焼き、漬物。シンプルな和食だ。
テーブルに並べて、瑠奈は息を止めた。
7時を過ぎた。俊哉は出勤の準備を始めた。リビングに現れると、テーブルを見つめた。その表情は一瞬、驚きに染まった。
「...いただきます」
短い言葉だ。でも、瑠奈にはそれが全てに聞こえた。
俊哉は椅子に座り、無言で食事を始めた。白米をすくい、焼き魚をかじり、味噌汁を飲む。その全てが、瑠奈の目に映った。
(食べてくれている...)
瑠奈は、対面する椅子に座った。俊哉に話しかけることはできない。ただ、彼が食べるのを見守った。
食事を終えた俊哉は、席を立った。玄関に向かう。扉を開く寸前、振り返る。
「...ありがとう」
その言葉は、社長の口から出たものとは思えなかった。本当に、人間の声だった。
「いえ...」
そう答える瑠奈に、俊哉はもう顔を向けていない。玄関を出ていった。
瑠奈は一人、リビングに佇んだ。窓の外では、東京が目覚めていく。朝日がタワーを照らし、街並みが色づいていく。
(少しだけ...距離が縮まったのかな...)
そう思った瑠奈の胸には、小さな温かさが宿っていた。それが何なのか、彼女はまだ名前をつけられずにいた。