冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 友への告白
週末の午後、レジデンス・プラティーヌ白金のエントランスに、一人の女性が姿を現した。
栗色のミディアムヘア。淡いヘーゼルブラウンの瞳。軽やかな足取り。その輝きと動きは、白金台の冷たい空気に似合わない、温かさを持ち込んでいた。
宮園 千紗だ。
瑠奈は玄関で千紗を迎えた。心臓が速く鼓動していた。これまで、千紗をこのマンションに招いたことはない。赤羽での生活と、白金台での生活。その二つの世界を同じ空間に混ぜることへの不安。そして、どう説明するのか。その葛藤が、瑠奈の体に緊張を走らせていた。
「るーちゃん、ここどこ!?」
エントランスを見上げた千紗の瞳が、瞬く間に大きくなった。大理石張りの床。吹き抜けで見える天井。クリスタルのシャンデリア。そして、24時間常駐するコンシェルジュの存在。全てが、丸瀬食品の営業事務部から遠い世界だった。
「ちょっと事情があって...」
声が小さかった。相手の反応を伺うような、いつもの癖が出ていた。左の鎖骨の下、星形の痕に無意識に手が当たる。緊張のサイン。
エレベーターで32階へ上る。その間、千紗はずっと瑠奈を見つめていた。何かを察しているような、そんな視線だった。
ドアが開くと、二人は俊哉の住まいへと足を踏み入れた。
リビングの窓一面に広がる東京の景色。天井高3.5メートルの空間。東京タワーとスカイツリーが一望できる眺望。千紗は、その光景を目にして、言葉を失った。
「うわぁ...」
その反応が、瑠奈の心に何かを突き刺した。千紗の目から、瑠奈が今いるこの世界がどう見えているのか。それは瑠奈自身が感じていた違和感そのものだった。
「るーちゃん、これどういうこと!?」
千紗はソファに座った。瑠奈はコーヒーを淹れながら、その準備をしていた。温かいコーヒーの香りが、リビングに広がる。その香りは、赤羽のまんぷく亭で飲むコーヒーと同じ香りだった。でも、背景は全く違う。
瑠奈はテーブルに座った。千紗の前に、カップを置く。二人の間には、テーブルだけではなく、何か別のものが存在しているような気がした。
「ねえ、るーちゃん。正直に話して。何があったの?」
千紗の声は、いつもの軽さがなかった。本気の心配が込められていた。瑠奈は、その問いを受けて、深呼吸をした。
逃げてはいけない。千紗は、自分の最も大切な友人だ。赤羽時代から、高校時代から、今まで。変わらず傍にいてくれた唯一の人。
「実は...結婚したの」
その一言で、千紗は完全に固まった。カップを持つ手が、止まった。目が瑠奈に固定される。数秒間、完全な沈黙。
「えええええ!?」
千紗は勢いよく立ち上がった。コーヒーがテーブルに少し揺れる。
「いつ!? 相手は誰!? なんで教えてくれなかったの!?」
質問が矢継ぎ早に続く。瑠奈は、その全てに答える準備ができていなかった。どこまで話せるのか。守秘義務契約がある。契約結婚だなんて言えない。でも、嘘もつきたくない。
瑠奈は、視線を下に向けた。
「相手は...白銀俊哉さんって言う人で。会社の社長で...」
言葉が途切れた。その先をどう言えばいいのか。
「急に決まったの。複雑な事情があって...」
控えめな説明。相手の反応を伺うような、曖昧な言い方。千紗はそれを聞いて、瑠奈の顔をじっと見つめた。
そして、何かを察したように、ゆっくりとソファに座り直した。
「複雑な事情...」
千紗は呟いた。その呟きには、瑠奈に対する心配が満ちていた。
「るーちゃん。その人のことは...好き?」
その質問に、瑠奈の心臓は大きく動いた。
好き。その言葉。その概念。契約結婚という関係性の中で、好きも嫌いも存在しないはずだった。なのに...。瑠奈は、その問いに答えることができなかった。
「...わかりません」
正直な答え。でも、その答えは、瑠奈自身が何を感じているのか、さえ分かっていないことを示していた。
千紗はコーヒーを飲んだ。その動作は落ち着いていて、瑠奈に落ち着きを与えるようだった。
「るーちゃんが決めたことなら。応援するよ。でもね...」
千紗は瑠奈を見た。その瞳には、優しさと心配が混ざっていた。
「無理してるなら。いつでも言ってね。何があっても、私はるーちゃんの味方だから」
その言葉で、瑠奈の目に涙が溜まった。
(この人は...いつも)
瑠奈は思った。千紗は、自分の葛藤を、一瞬で見抜いていた。契約だからとか、秘密だからとか、そういった理由で話せないことを、千紗はそっと受け入れてくれていた。
瑠奈は涙を拭いた。
「ありがとう。千紗」
「謝らなくていい。友達だから」
その後、二人は昔話をした。
高校時代の陸上部での出来事。文化祭での失敗。父が病気だった時のこと。あの日、千紗が体育館の裏で瑠奈の涙を拭いてくれたこと。
全てが、今のこの瞬間に集約されている気がした。瑠奈と千紗の関係は、お金や社会的地位では測れない。ただの信頼と、愛情だけだった。
「あ、そっか。仕事の話。営業部の課長がさ、また変なこと言い始めてさ」
千紗は職場の愚痴を話し始めた。それは、瑠奈にとって、最高の贈り物だった。普通。日常。そういったものを、千紗は提供してくれていた。
二人は笑った。心から笑った。白金台の冷たい空気も、その笑顔の前には消えてしまうようだった。
時間が経つのを、瑠奈は忘れていた。
帰り際、千紗は瑠奈をぎゅっと抱きしめた。その温かさが、瑠奈の心に確かに届いた。
「困ったらいつでも来てね。大好きだよ、るーちゃん」
「ありがとう。千紗」
エントランスで千紗を見送った後、瑠奈は部屋に戻った。リビングはもう夕方の光に染まっていた。
書斎のドアが開いた。
俊哉が出てきた。その視線は、瑠奈を見つめていた。
「友人が来ていたのか」
瑠奈は頷いた。
「はい。親友の千紗です」
「そうか。大切な人がいるのは...良いことだ」
その言葉に、瑠奈の心は温かくなった。そして同時に、不安も感じた。俊哉がそう言うのは、瑠奈のために言っているのか。それとも、別の理由があるのか。
でも、その時は、千紗との時間がもたらした温かさが、瑠奈を包んでいた。それで十分だった。