冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 偽りの中の本音
ホテル・グランヴェール東京の3階。「翠光の間」と銘打たれた大宴会場は、煌びやかなシャンデリアの光に満ちていた。
約200名の上流階級の人々が、白銀グループ主催のチャリティパーティーに集まっていた。社交界の最上層。政界、財界、そして名門大学の出身者たち。その空気は、桐原瑠奈が今まで生きてきた世界とは全く違う、冷たくそして隔絶されたものだった。
瑠奈は、白銀俊哉にエスコートされながら会場へ入った。淡いピンクのイブニングドレスに身を包んだ姿は、鏡に映る自分とは別人のように感じられた。髪は精密に整えられ、化粧も専門家による手により完璧だ。だが、その完璧さが逆に瑠奈を不安にさせていた。
(本当に、私でいいのだろうか)
周囲の視線が、瑠奈に集中していた。白銀俊哉の妻。新しい社長の新妻。それは、話題の対象だった。視線に包まれながら、瑠奈は笑顔を作った。その笑顔は完璧だった。完璧すぎて、本当の自分が消えてしまいそうだった。
「緊張しているか?」
俊哉の声が、瑠奈の耳元に届いた。低く、掠れた声。その声は、瑠奈に落ち着きをもたらした。
「少し。だと思います」
その答えは、控えめで誠実だった。相手の反応を伺いながら話す、瑠奈特有の語尾だ。
「俺がそばにいる。大丈夫だ」
その一言で、瑠奈の心は少しだけ温かくなった。だが同時に、その温かさが本当なのか、それともこのパーティーのための演技なのか、瑠奈は区別できなくなっていた。
俊哉の手が、瑠奈の腰に触れた。その感触は温かく、確かだった。瑠奈は、その手の温もりに寄り添いながら、会場を進んだ。
周囲の貴族たちが、二人に声をかけてきた。
「いやあ、素敵なご夫婦だ」
「白銀社長のお連れですか。お綺麗ですね」
それらの言葉を受けながら、瑠奈は笑顔を保った。「ありがとうございます」と丁寧に返す。左の鎖骨の下、星形の痕に無意識に手が当たる。緊張のサイン。だが、その仕草さえも、外からは優雅に見えるように、瑠奈は動いていた。
やがて、音楽が鳴った。
ダンスタイムだ。
「踊ってくださいませんか」
そう言って、俊哉は瑠奈に手を伸べた。その動作は、紳士的で、完璧だった。
「はい。お願いします」
ダンスフロアへ出た瑠奈は、俊哉に身を任せた。最初、ぎこちない動きだった。瑠奈の足は、リズムを掴めずにいた。だが、俊哉のリードは確かだった。その腕の中で、瑠奈は次第にリズムを掴み始めた。
音楽に身を任せる。俊哉の胸板の温もりを感じながら、瑠奈は踊った。
会場の視線が二人に集中していた。
「お似合いですね」
「素敵なカップル」
そんな囁きが、どこからか聞こえた。それらの言葉に、瑠奈の心は複雑に揺れた。称賛。期待。だが同時に、虚無感。この完璧な踊りは、本当の瑠奈ではない。本当の自分は、赤羽の商店街で下町訛りを話す、平凡な女性だ。
ダンスが終わった。会場から拍手が鳴り響いた。
俊哉は瑠奈を一度、くるりと回した。その瞬間、二人の視線が絡み合った。瑠奈は、俊哉の瞳の奥に何かを見た。それが何なのか、瑠奈には分からなかった。
「よくできている」
その言葉は、称賛のようでもあり、何か別のものが込められているようでもあった。
パーティーの合間、二人は控室で休憩することになった。2階の小さな控室。ソファが置かれ、コーヒーが用意されていた。
二人きりになった瞬間、空気が変わった。
俊哉は、瑠奈に向かって身を屈めた。その瞳は、先ほどのダンスフロアでの輝きを失っていた。代わりに映っていたのは、寂しさだった。
「よく頑張った。完璧だった」
その言葉の後、俊哉は視線を逸らした。窓の外の東京の夜景に目を向けた。スカイツリーが輝いている。
「これも契約のうちだから」
その一言が、瑠奈の心を刺した。
(契約...)
そう。これはあくまで契約だ。金で結ばれた関係。感情ではなく、計算の結果。瑠奈は分かっていた。だが、心が分かっていなかった。
「そうですね」
その言葉を吐き出した時、瑠奈の胸が締め付けられた。喉元に何か詰まったような感覚。涙が出そうになるのを、必死で堪えた。
(だめだ。ここで泣いてはいけない)
笑顔を作ろうとした。だが、その笑顔は張り付いたようで、不自然だった。
俊哉は、その表情を見た。その視線は、鋭く瑠奈を捉えた。
「瑠奈...」
その呼び掛けは、心配そうだった。本当の心配。だが、その声に応える前に、ノックの音がした。
ドアが開き、白銀統一郎が現れた。52歳。白銀グループの副会長。その顔には、温和な笑みが浮かんでいた。だが、その瞳は冷徹だった。
「お疲れ様。いい踊りでしたね」
その言葉は褒める言葉に聞こえた。だが、その奥には何かが隠されていた。瑠奈は、その視線に捕捉されるのを感じた。統一郎の瞳は、瑠奈を値踏みするように見つめていた。
(何をしているんだろう。この人は)
瑠奈は、不安を感じた。だが、顔には出さなかった。代わりに、礼儀正しく笑顔を作った。
「ありがとうございます」
統一郎は、その笑顔を見つめた。その瞳の奥に、何かが映った。それが何なのか、瑠奈には分からなかった。
パーティーは深夜まで続いた。疲れ切った瑠奈の心は、ただ終わることを祈っていた。
翌日。瑠奈はカフェ「ノクターン」で、友人の宮園千紗と会っていた。
お洒落な南青山の路地。表参道駅から徒歩6分。ベージュの外壁の洋館。その中の席は、奥まった静かな場所だった。
千紗は、栗色のミディアムヘアを優しくウェーブさせながら、瑠奈を見つめていた。
「昨日のパーティー、どうだった?」
その問い掛けは、軽やかだった。だが、瑠奈の顔を見た時、千紗の表情が変わった。瑠奈が何かを抱えていることに、千紗は一瞬で気づいた。
「...大変でした」
それが、瑠奈の精一杯の言葉だった。
千紗は、コーヒーカップを置いた。そして、瑠奈の手を取った。
「るーちゃん。何があった?」
その優しさに、瑠奈は堰を切ったように話し始めた。ダンス。周囲の視線。俊哉の言葉。「契約のうちだから」。その一言で、どれだけ傷ついたのか。
千紗は、黙ってそれを聞いていた。その瞳には、親友を心配する気持ちが満ちていた。
「ねえ、るーちゃん。本当のことを言ってよ」
千紗は、瑠奈の瞳をじっと見た。
「その人のこと、好きなんでしょ」
その問い掛けに、瑠奈の世界が一瞬、静止した。
(そう。私は...)
瑠奈は、その言葉を認めることができずにいた。だが、心の奥底では、もうそれが事実であることを知っていた。
「私...本当は俊哉さんが好きなのかも」
その言葉を口にした時、瑠奈の瞳には涙が溜まっていた。
千紗は、その言葉を聞いて、小さく笑った。
「やっと気づいた?」
その言葉に、瑠奈は驚いた。
「私は、とっくに分かってたよ。だからね、無理してたのが、すごく見えてた」
千紗は、瑠奈の手を握った。その温もりが、瑠奈に安心をもたらした。
「でも気持ちは本物でしょ。だったら、いいんじゃない。契約だろうと何だろうと」
その言葉で、瑠奈は涙を流した。
カフェのテーブルで、瑠奈は初めて自分の気持ちを認めた。俊哉への想い。それは、契約では説明できない、本当の感情だった。
その時、カフェの奥に、一人の客が座っていた。長い光沢のある栗色のストレートヘア。鋭いグレーの瞳。氷室沙耶だ。
彼女は、コーヒーを片手に、二人の会話を聞いていた。その瞳は、冷たく、計算高かった。
(白銀のために、これは使える)
そう思いながら、沙耶は瑠奈たちを見つめていた。
一方、白銀タワーの38階。社長室では、俊哉が机に向かっていた。
書類の山。グループ内の派閥抗争に関する資料。そして、瑠奈の姿。その姿は、俊哉の脳裏から消えることがなかった。
(あのダンス。本当に完璧だった)
その完璧さが、俊哉を苦しめていた。なぜなら、その完璧さが、契約の枠を超えつつあるからだ。
(いけない。これ以上、関わってはいけない)
そう思いながらも、俊哉の心は瑠奈から離れることができなかった。