冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 友の温もり
赤羽の駅に降り立った瑠奈の心は、既に白金台を離れていた。
高級マンションの冷たい空気。白銀タワーの無感情な景色。氷室沙耶の冷たい視線。ここ数日、瑠奈の心には常に何かが引っかかっていた。それが何なのか、言語化することさえ難しい。ただ、胸が痛い。左の鎖骨下にある星形の痕に、無意識に手が当たった。
駅を出ると、懐かしい景色が広がった。商店街の色褪せた看板。夜間営業のパチンコ屋の音。焼き鳥屋の匂い。この香りは、どれほど高級なマンションにいても、どれほど時間が経っても、瑠奈の心に直結していた。
すずらん通り商店街。
全長約300メートル。42軒の店舗。その全てが、瑠奈の思い出に満ちていた。小学生の時に母に連れられて来た日。中学時代、友人と寄った駄菓子屋。高校生の頃、父がまだ生きていた時代の記憶。
すべてが、あの日と同じだった。
「あ、瑠奈!」
甲高い声が聞こえた。瑠奈が顔を上げた瞬間、栗色のミディアムヘアが、太陽の光に優しく輝いて映った。
宮園千紗だ。
「千紗……」
瑠奈が呟いた瞬間、千紗は勢いよく走ってきた。23歳とは思えないほど軽やかな足取りで。その顔には、いつもの明るい笑顔が満ちていた。淡いヘーゼルブラウンの瞳が、瑠奈を見つめている。
「るーちゃん、久しぶり!」
その一言で、瑠奈の心に亀裂が入った。
いや、違う。その一言で、心の氷が溶け始めた。
千紗は瑠奈の腕を掴み、そのまま商店街の奥へ引っ張っていった。行き先は、決まっていた。
「まんぷく亭」。
看板は色褪せ、外壁は古く、ガラス窓には暖簾が掛かっていた。だが、この店の中には、瑠奈の心が必要とするものの全てがあった。
「いらっしゃい。あ、瑠奈嬢か」
店主の大河内源太が顔を上げた。63歳。瑠奈の父の親友。背は低く、顔は日焼けしていて、いつも同じエプロン姿だった。だが、その視線は、瑠奈を見つめる時、本当に優しかった。
「こんにちは」
声が、小さくなっていた。上流社会での習慣が、ここでも出ていた。
「今日の日替わりは?」
千紗が勢いよく聞いた。いつもの彼女だった。社交的で、どんな場所でも場を温められるタイプだ。
「アジの塩焼きだ。いいだろ、千紗嬢も」
「はい!」
千紗は返事をしながら、テーブルに座った。瑠奈も、その向かいに座った。木製のテーブル。古くて、傷がたくさんあって、でも何か温かい。
「そういえば、るーちゃん。最近どう?」
千紗が、いきなり重い質問をした。その笑顔は相変わらずだが、瞳には、瑠奈のことを見つめる力が込められていた。
「え?」
「いや、何か……元気ないじゃん」
瑠奈は、その言葉で、肩の力が抜けた。丸瀬食品では、誰も彼女のことを気にしていない。仕事をする。給料をもらう。帰る。それだけだ。だが、千紗は違う。
「いや、そんなことは……」
「ウソつかないでよ。昔から分かってんの。るーちゃんは、何か抱え込むと、すぐそういう顔になるんだもん」
瑠奈は、千紗の顔を見た。その瞳には、本当の心配が映っていた。
(契約結婚のこと、話すべき?)
でも、守秘義務契約がある。それを破ることはできない。瑠奈は、左の鎖骨の下の痕を、無意識に撫でた。
「何か……大変なことがあったんだ。でも……話せないの」
その言葉は、本当だった。瑠奈の声は、小さかった。
千紗は、しばらく瑠奈を見つめていた。それから、クスクスと笑った。
「もう、そんなこと言わないでよ。何か抱えてるなら、聞くから」
「でも……」
「ほら、高校の時だって、そうじゃん。るーちゃんが黙ってたら、私が聞き出してた」
その言葉に、瑠奈は胸が痛くなった。高校時代。陸上部での合宿。父が病気だということを知った日。瑠奈は、それを誰にも言わずに、一人で抱えていた。だが、千紗は、瑠奈の元気のなさに気づき、体育館の裏で、瑠奈の頬を濡らす涙を拭ってくれた。
「あの時のこと、覚えてる?」
瑠奈は、頷いた。涙が、溜まった。
「あの時も、るーちゃんは『話せない』って言ってた。でもね、秘密じゃなくて『心配』だったんでしょ。そういうのは、友達に話してもいいんだよ」
その言葉に、瑠奈の心が、ついに決壊した。
涙が、止まらなかった。
テーブルの上で、千紗が瑠奈の手をぎゅっと握った。何も言わずに。ただ、そこにいた。
店主の大河内も、それに気づいたが、何も言わなかった。ただ、日替わり定食を丁寧に盛り付け、テーブルに置いた。アジの塩焼きが、湯気を立てていた。
「高校の時さ……」
千紗が、話題を変えた。瑠奈の涙が落ち着くまで、ずっと話していた。
「陸上部の合宿で、るーちゃんと一緒に走ってたじゃん。距離走の時」
「うん……」
「あの時、るーちゃんが後ろから追いついてきて、『千紗、ちょっと待って』って言ったんだよ。で、トイレに行きたいってさ」
瑠奈は、その時のことを思い出した。本当は、涙が止まらなくて、別のところに行きたかっただけだ。でも、千紗は、瑠奈のそばにいてくれた。走らずに、待ってくれた。
「あの時の話、覚えてる? 『何かあったの?』って聞いたら、『何もない』ってお前が言ったんだよ。で、俺が『嘘つくなよ』って言ったら、泣いちゃった」
「……ごめんなさい」
「何を謝ってるんだよ。その時の話だよ。『友達だからさ、一人で抱え込まないでほしい』って、俺が言ったんだ。覚えてないのかよ」
それは、確かに千紗が言った言葉だった。瑠奈は、その時のことを思い出した。千紗の腕の中で、どれほど救われたか。その温かさ。その優しさ。
「あの時から、何年経ったと思ってるんだよ。一緒に働くようになって、もう3年でしょ。でも、るーちゃんはまだ一人で抱え込んでんだ」
千紗は、にっこり笑った。でも、その笑顔の奥には、本当の心配が映っていた。
「るーちゃんはね、昔から一人で抱え込むんだよ。『迷惑をかけたくない』とか『自分で何とかしなきゃ』とか、そういうのばっか。でさ、本当は違うんだよ。誰だって、時には誰かに頼ることが必要なんだ」
瑠奈は、その言葉を心に刻み込んだ。
「困ったら言ってね。いつでもいいから。何だって聞くから。その代わり、一人で抱え込まないでほしい」
その言葉で、瑠奈の心はついに落ち着いた。涙は、もう出ていなかった。代わりに、温かい感覚が胸に満ちていた。
それは、何なのか。
おそらく、安心だった。
二人は、アジの塩焼きを食べた。焼きたてで、塩加減も最高だった。味噌汁も、野菜の煮物も、全てが完璧だった。ただの定食だが、白金台のどんなレストランよりも、瑠奈の心を満たした。
「あ、そっか。仕事の話。営業部の課長がさ、また変なこと言い始めてさ」
千紗は、その後、職場の愚痴を話した。瑠奈は、その話を聞きながら、時々笑った。
文化祭の話。高校時代、二人で出し物をした時の話。その時、千紗のスカートが引っかかって、ステージで転んでしまった話。笑うに笑えなかった思い出が、今は本当に良い記憶になっていた。
時間が経つのを、瑠奈は忘れていた。
店を出たのは、夕方だった。太陽は西に傾き、商店街は、オレンジ色に染まっていた。
「またすぐ来ようね。ちゃんと、ゆっくり会おう」
そう言って、千紗は瑠奈をぎゅっと抱きしめた。その温かさが、瑠奈の心に、確かに届いた。
「ありがとう、千紗」
瑠奈は、その言葉を小さく呟いた。
「何言ってんだよ。友達だもん」
駅へ向かう道。瑠奈は、千紗と別れた。帰りの電車の中で、瑠奈はスマートフォンを見た。千紗からのメッセージが入っていた。
『いつでも連絡してね♡ 大好きだよ、るーちゃん』
瑠奈は、その文字を見て、微笑んだ。白金台へ向かう電車の中で、瑠奈の心は、初めて白金台の外に気づいていることに気づいた。
白銀俊哉との距離。氷室沙耶との対立。契約結婚の重さ。それら全てが、遠く感じられた。
ただ、友情という確かな支えが、瑠奈の心にあることを、瑠奈は実感していた。
白金台のマンションに戻った瑠奈は、いつもと違う顔をしていた。その表情には、まだ不安は残っていたが、前より少しだけ、明るさが戻っていた。