冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 記憶の痛み
レジデンス・プラティーヌ白金のダイニングテーブルに、瑠奈は向き合って座っていた。
白い食器に盛られた夕食。焼き魚、味噌汁、白米、野菜の煮物。いつもの定食だ。だが、テーブルの向かい側に俊哉がいるという事実が、瑠奈の心を揺さぶっていた。
珍しい。
ここ二週間、俊哉が夜八時に帰宅したことはない。いつも帰宅は深夜一時、二時。書斎に直行し、夜中まで仕事をしている。だから、夕食時に二人で食事をするなど、想像したこともなかった。
「お帰りなさい」
瑠奈は控えめにそう言った。声は小さい。いつもより小さい。相手の反応を伺うような、慎重な音色だ。
「ああ」
短い返事。俊哉はワインを注いだ。赤ワイン。グラスに深紅の液体が注がれていく。その色が、窓の外の夜景に反射して、暗く光った。
「今日は……特に。どうしたんですか」
瑠奈は恐る恐る聞いた。左の鎖骨の下、星形の痕に手が当たる。緊張のサイン。無意識の癖だ。
俊哉は瑠奈を見た。その視線は、いつもの社長としての冷淡さではなく、別のものが混ざっていた。
「一緒に食事をしたいと思ったんだ」
それだけだった。でも、その言葉の重さは計り知れなかった。
「……はい」
テーブルには、重い沈黙が流れた。不快な沈黙ではなく、緊張した沈黙。瑠奈は食事をした。焼き魚をかじり、味噌汁を飲む。その全てが、いつもより敏感に感じられた。俊哉の視線。その存在感。
「瑠奈」
突然、名前を呼ばれた。敬語ではなく、呼び捨てだ。その音は、瑠奈の心を揺さぶった。
「……はい」
「君の家族のことを聞かせてもらえないか」
その言葉で、瑠奈は箸を止めた。
家族。
赤羽に住む母。高校時代に亡くなった父。普通の家族。下町の生活。それらを、この男に話したことはない。契約結婚だから、そんなプライベートなことを共有する必要はないはずだった。
なのに。
「……いいですか」
そう聞き返した。その声には、別のものが混ざっていた。困惑と、ほんの少しの期待だ。
「もちろんだ」
俊哉はワインを飲んだ。その動作は落ち着いていて、瑠奈に話すことを促していた。
ゆっくりと、瑠奈は話し始めた。
「父は……高校二年の冬に亡くなりました。心不全で。急でした」
その瞬間、瑠奈の声が小さくなった。話しながら、瑠奈は父の顔を思い出していた。優しい笑顔。温かい手。そして、突然来た別れ。
「それからは、母が一人で私を育ててくれました。昼と夜、働いて。迷惑をかけないようにって、いつも思っていました」
俊哉は黙って聞いていた。その視線は瑠奈から逸れていない。まっすぐに、彼女を見つめている。その視線が、瑠奈をさらに話させた。
「だから……自分のことは自分でなんとかしなきゃって。迷惑をかけちゃいけないって。ずっとそう思ってました」
テーブルの上で、瑠奈の両手が握られていた。その握りは強く、自分を支えるようだった。
「大学に行く時も、できるだけ安い学校にして。奨学金も借りて。母に少しでも負担をかけないようにって」
瑠奈の目に、涙が溜まり始めていた。話しながら思い出す、赤羽での生活。貧乏だったわけではない。でも、いつも何かに追われていた気がした。母に迷惑をかけてはいけない。そんな思いに。
「そこまでして……」
俊哉がそう呟いた。その声は低く、何かが詰まっているように聞こえた。
「君は強い人だ」
その言葉が、瑠奈の心に突き刺さった。
それは褒める言葉ではなく、別の何かを含んでいた。敬意。同情ではなく、本当の敬意。瑠奈は頭を上げ、俊哉の顔を見た。
その顔は、いつもの無表情ではなく、別の表情をしていた。何だろう。瑠奈には、それが何なのか、言葉にならなかった。
「……ありがとうございます」
そう言いながら、瑠奈の胸は熱くなっていた。この男の視線。この男の言葉。それらが、瑠奈の心に確かに届いていた。
時間が経った。
テーブルの上には、食べ終わった食器だけが残されていた。俊哉はまだワインを飲んでいた。瑠奈は、その静かな雰囲気の中にいることが心地よく感じられ始めていた。
「でも……」
その時、瑠奈は何かが胸に引っかかったのを感じた。
「この結婚も……母に心配をかけています。契約だなんて言えなくて、嘘をついてしまって。そんなことで迷惑をかけているんだと思うと……」
その言葉で、瑠奈の目から涙が溢れた。自分でも何を言っているのか、分からなかった。でも、心の奥底から、自分を責める声が聞こえていた。
「俺は君を利用しているだけかもしれない」
俊哉がそう言った。瑠奈は顔を上げた。俊哉の表情は、いつもより複雑だった。何かが燻っているようなオーラ。
「この結婚が君を傷つけているなら……」
その先の言葉は、俊哉は言わなかった。代わりに、彼は瑠奈を見つめた。その瞳の色は、暗い栗色。何かが隠されているような、そんな瞳だった。
「後悔しています」
瑠奈は言った。それは真実だった。この結婚を受けたことは、正しい選択だったのか。母に嘘をついてまで、3000万円を得る価値があるのか。そして今、この男のことをどう思っているのか。
「いえ……後悔は、していません」
瑠奈は自分の言葉を訂正した。本当のところ、瑠奈は分からなかった。後悔しているのか、していないのか。ただ、この男の存在を近くに感じることが、心地よく感じられ始めていたことだけは確かだった。
「私が決めたことです。後悔はしていません」
その言葉を聞いた瞬間、俊哉はテーブルから立ち上がった。
「ありがとう」
そう言って、彼は瑠奈に近づいてきた。瑠奈の呼吸が止まった。その距離は、これまでのようなビジネスライクな距離ではなく、別のものだった。
(何が起ころうとしているんだろう)
そう思った瞬間だった。
スマートフォンの着信音が、リビングを切り裂いた。
「……失礼する」
俊哉はそう言うと、すぐに携帯を手に取った。画面には、名前が表示されていた。
「氷室」
その名前を見た瞬間、瑠奈の心は冷たくなった。
「もしもし。ああ、そうか。分かった。今から向かう」
俊哉は携帯を耳に当てたまま、書斎へ向かった。その背中は、さっきまでの温もりを全て置き去りにしていた。
リビングに一人残された瑠奈は、テーブルの片付けを始めた。
食器をシンクに運ぶ。水を注ぐ。スポンジで洗う。その動作は自動的だった。心は別の場所にあった。
(沙耶……)
あの秘書の顔が、瑠奈の脳裏に浮かんだ。完璧な女。仕事ができる女。俊哉に近い距離にいる女。
そして、あの肩に置かれた手。
瑠奈は食器をすすいだ。その動作が、いつもより強かった。
リビングへ戻ると、瑠奈はソファに座った。窓の外の東京の夜景が、いつもより冷たく感じられた。東京タワーが赤く光っている。レインボーブリッジが虹色に輝いている。それらの美しさが、瑠奈の心には入ってこなかった。
書斎から聞こえる、俊哉と沙耶の声。仕事の話。ビジネスの話。でも、瑠奈の耳には、別のものが聞こえていた。
(あの人は……)
リビングで一人、瑠奈は俊哉が戻ってくるのを待つことにした。いつまで待つのか、それすら分からないまま。