冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - すれ違う想い
丸瀬食品の営業事務部は、いつもと同じ午後の空気に包まれていた。
窓から差し込む秋の光が、デスクの上の書類を白く照らしている。桐原 瑠奈はパソコンの前に座り、受注データを入力していた。指が機械的にキーボードを叩く。その動作は日々の習慣そのもので、心はどこか別の場所にあった。
白金台のマンション。夜景に輝く東京。あの男の横顔。
(だめだ...)
そう思った瞬間、隣のデスクから声がかかった。
「るーちゃん、最近様子おかしいよ?」
デスクの角から、栗色のミディアムヘアが覗く。淡いヘーゼルブラウンの瞳が、瑠奈をまっすぐに見ていた。24歳とは思えない親近感と親密さを持った笑顔。だが、その瞳には本当の心配が映っている。
「何かあった?」
瑠奈は、その視線から逃げるように顔を上げた。左の鎖骨の下、星形の痕に無意識に手が当たる。緊張のサイン。
「大丈夫ですよ。ちょっと疲れてるだけです」
声は小さかった。相手の反応を伺うような、慎重な音色だ。
だが千紗は、その返答に満足しなかった。逆に、瑠奈の椅子を自分の方へ引き寄せ、顔を近づけた。
「嘘つかないでよ。絶対何かある。ぼーっとしてることばっかりだし、電話なんか受けるときもそわそわしてるし」
千紗の指摘は正確だった。瑠奈は、俊哉からのメールやLINEを受け取るたびに、胸が大きく跳ねてしまう。それが同僚に見られないようにと、気をつけているつもりだったが、千紗の目は逃がさなかった。
「そんなことは...」
「話題を変えるやつだ。絶対何かあるな」
千紗は満面の笑みで瑠奈を見つめた。その表情は、いたずらっぽくもあり、本気の心配でもあった。
「もしかして......恋愛?」
その一言で、瑠奈の顔が真っ赤になった。
血の気が引いたかと思ったら、瞬間に全身が熱くなる。胸がドキドキと音を立てて鼓動する。手の先まで血流を感じ、視界がかすかに揺らぐ。
「ち、違います!」
声が高くなってしまった。むしろ、その反応が瑠奈が何かを隠していることを証明していた。
千紗は小さく笑い、瑠奈の肩を軽く叩いた。
「やっぱり。誰? 会社の人? それとも合コン?」
「もう、千紗...」
「言ってくれるまで追及するぞ。これは友情の愛だ」
その時、昼休みの時間が近づいていた。二人は会社近くのカフェに向かうことになった。
昼食後のカフェの隅の席。二人は向かい合って座った。
コーヒーカップの湯気が立ち上る。千紗は、スプーンでコーヒーをかき混ぜながら、瑠奈を見つめていた。
「るーちゃんがね、こんなに顔を赤くするなんて。高校時代の陸上大会以来だよ」
その言葉で、瑠奈は自分の過去を思い出した。高校時代、父が倒れた時、唯一それを知り、支えてくれたのが千紗だった。その時からずっと、千紗は瑠奈の一番の親友だ。
「複雑な話なんです...」
瑠奈は、契約結婚のことは話せなかった。守秘義務契約がある。だが、この胸を締め付ける感情だけは、誰かに話したくて仕方がなかった。
「複雑...」
千紗はコーヒーを飲みながら、瑠奈の表情をじっと観察していた。
「でもさ、話せることもあるでしょ。『この人のことが好きだ』とか、『不安だ』とか」
その言葉に、瑠奈の心がかすかに動いた。本当は話したい。この気持ちを誰かに理解してもらいたい。でも、どう説明すればいいのか。
「もし話したいなら、聞くからね。無理に言わなくてもいいけど、いつでも話せることを忘れないで」
その優しさに、瑠奈は胸が痛くなった。
夜になると、携帯にメッセージが入った。俊哉からだ。
『今夜、一緒にディナーを。21時、レストラン「ルシエル」で』
瑠奈は、そのメッセージを読み直した。何度も何度も。俊哉がこんなことを言ったことは初めてだ。
レジデンス・プラティーヌ白金に戻ると、瑠奈は急いで着替えた。深紫色のワンピースドレス。髪をまとめ、軽いメイクをする。高級レストランに向かう自分の姿が、まるで別人のように思える。
レストラン「ルシエル」は、六本木の高層ビルの上階にあった。
窓から見える東京の夜景が、まるで宝石箱のように輝いている。白いテーブルクロスが敷かれたテーブル。ろうそくの明かりが揺らいでいる。
俊哉は既にテーブルに着いていた。黒いスーツ。白いシャツ。その顔には、いつもの無表情ではなく、別の表情が映っていた。
「来たんだ」
その一言だけで、瑠奈の心は大きく揺れた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「迷惑ではない。むしろ、君に会えるから」
その言葉に、瑠奈の顔が赤くなった。俊哉の瞳が、瑠奈をまっすぐに見つめている。その視線には、社長としての冷淡さがなく、別のものが宿っていた。
ディナーが進むにつれて、俊哉は少しずつ瑠奈に近づいた。不器用だが、確実に。
「最近、仕事が忙しくて、君に構ってやれなかった。すまない」
「いえ、仕事が大切なのは分かっています」
「でも、君との時間も大切だ」
その言葉が、瑠奈の胸を激しく鼓動させた。これは契約の範囲を超えている。少なくとも、瑠奈はそう感じた。
二人は会話を続けた。仕事のこと。趣味のこと。そして、瑠奈の家族のこと。俊哉は、瑠奈の話を静かに聞いていた。時々、コメントを加えるが、主に聞き役に徹していた。
「君と一緒にいると、不思議と落ち着く」
その呟きを聞いた瞬間、瑠奈の心臓が大きく跳ねた。
(この人は...何を言ってるんだろう)
そう思った矢先だった。
スマートフォンが鳴った。俊哉のスマートフォンだ。
俊哉の表情が、一瞬、柔らかさを失った。画面を確認すると、その顔が硬くなった。
沙耶からの着信だった。
「取ってもいいですか」
「はい...」
俊哉は携帯を耳に当てた。
「もしもし」
しばらく沙耶の声が聞こえた。俊哉の表情が硬くなり、その後、複雑な表情に変わった。
「分かった。今から向かう」
通話が終わると、俊哉はテーブルを見た。瑠奈はそのテーブルの向かい側に座ったまま、静かに俊哉を見つめていた。
「すまない。急な案件が入った。君は先に帰ってくれ」
その言葉は、冷たいビジネス的な口調だった。さっきまでの温かさが、完全に消えていた。
「かしこまりました」
そう言いながら、瑠奈の心は落ちていった。またすれ違った。あんなに良い時間だと思ったのに。あんなに心が通じ合ったと思ったのに。
俊哉はタクシーの手配をしてくれた。瑠奈に対しては、いつもの契約相手という距離感で。
タクシーの中で、瑠奈は窓の外を見つめていた。東京の夜景が、キラキラと輝いている。でも、その美しさが心に入ってこなかった。
レジデンス・プラティーヌ白金のエントランスで車を降りた。
空を見上げると、満月が出ていた。きれいな月だ。でも、瑠奈の心には、その美しさは届かなかった。
「契約なのに...」
小さく呟く。その言葉は、誰にも聞こえない。ただ、自分の心に向かって言った言葉だった。
部屋に戻ると、瑠奈はソファに座った。テレビはつけずに、ただ夜景を眺めていた。俊哉は、まだ帰ってこなかった。
左の鎖骨の下、星形の痕をなぞる。その感触が、瑠奈の心の痛みを象徴しているような気がした。
(この人のことが好きになってしまった)
ようやく、瑠奈はそれを認めた。契約だからこそ、感情を持ってはいけないのに。好きになってはいけないのに。
でも、もう遅い。既に、この男の存在が、瑠奈の日常の一部になっていた。
その夜、俊哉は帰ってこなかった。