冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 深夜の孤独と、芽生える理解
夜中の三時。
レジデンス・プラティーヌ白金の白い天井が、瑠奈の視界に映る。寝返りを打ったとき、悪夢で目が覚めた。何を見たのかは思い出せない。ただ、胸が詰まるような不安感だけが、体に貼りついている。
(目が覚めちゃった...)
ベッドの上で仰向けになったまま、瑠奈は天井を見つめた。四方のスピーカーから流れる瞑想音楽は消えている。代わりに、静寂だけが部屋を満たしていた。東京の夜は完全な静寂ではない。遠くから救急車のサイレン、深夜を走る車の音、幾千の建物の呼吸がそっと聞こえる。だが、この高級マンションの中は、本当に静かだった。
喉が渇いていた。
瑠奈はゆっくりベッドから起き上がり、薄いナイトガウンを羽織った。ゲストルームを抜け、廊下に出る。左の鎖骨の下にある星形の痕に、無意識に手が当たる。緊張しているときの癖だ。
キッチンの照明がそっと点灯する。シンクで水を飲む。その冷たさが、少しだけ心を落ち着かせた。
そのとき。
微かな光が、リビングの奥から漏れているのに気づいた。廊下の角を曲がると、奥の書斎のドアが、わずかに開いている。その隙間から、デスクライトの光が静かに溢れている。
誰かがいる。
俊哉だ。
そっと書斎のドアに近づき、隙間から覗く。瑠奈の目に映ったのは、疲れ果てた男の姿だった。
ダークグレーのシャツを着た俊哉は、デスクに向かっていた。山のように積み上げられた書類の前で、額に手を当てている。その額には皺が深く刻まれていて、普段の無表情からは想像もつかない、深い疲労が浮き彫りにされていた。
時々、視線を書類に落とし、何かに気づいたようにペンを動かす。その動きさえ、いつものキレのある仕草ではなく、どこか重くて、滞っている。
そして、深いため息。
それは、溜息というより、心の底から漏れ出す、絶望的な音に聞こえた。
(あの人...毎晩こんなふうに...)
この一週間、瑠奈は何度も俊哉が深夜に仕事をしている気配を感じていた。朝食の時間に現れる俊哉の下には、いつも黒いくまがあった。社長という肩書きが、どれほどの重圧を背負わせているのか。瑠奈には、その全てが見える気がした。
心臓の奥が、キュッと締まる感覚。
それは同情ではなく、別のものだった。ただ、その何かが何なのか、瑠奈にはまだ名前がつけられなかった。
キッチンへ戻る。瑠奈は無意識のうちに、コーヒーを淹れ始めていた。コーヒーメーカーに粉を入れ、水を注ぐ。その間、瑠奈の心は揺れていた。
(持っていく? でも...邪魔になるかな)
迷いながらも、瑠奈の手は自動的に動いていた。温かいコーヒーがカップに落ちていく。あの人の疲れた表情が、脳裏から離れない。
カップを手に、もう一度書斎へ向かう。ノックをした。
「...どうぞ」
返事は即座だった。だから、誰かが入ってくることを既に予期していたのだろう。
ドアを開く。俊哉が顔を上げた。
栗色の瞳が瑠奈に向けられた瞬間、その顔に驚きが浮かぶ。その驚きは一瞬で消えたが、瑠奈はそれを見た。
「お仕事...大変そうだったので」
瑠奈は控えめに言った。声が、いつもより小さい。
カップを差し出す。その指先は、わずかに震えていた。
俊哉は、一瞬、その差し出されたカップを見つめた。その視線は、カップの湯気、その先にある瑠奈の顔へと移る。
「...ありがとう」
短い言葉だったが、その音は深かった。俊哉がカップを受け取る。その手と瑠奈の指が、わずかに触れた。温かさが伝わる。瑠奈は思わず手を引き、部屋を出ようとした。
「待ってください」
俊哉の声が、瑠奈を止めた。
振り返ると、俊哉は椅子に座ったままで、カップを両手で持っていた。その姿勢は、意外と脆く見えた。社長ではなく、ただ疲れた一人の男。
「少し...話してもいいですか」
瑠奈は頷き、デスクの横の椅子に座った。圧倒的な沈黙。だが、その沈黙は不快ではなく、むしろ落ち着きを与えるものだった。
俊哉はコーヒーを飲み、ゆっくりと瑠奈を見た。
「あなたは...なぜ契約を受けたのですか」
突然の質問だった。
それは、契約書に記載されていない、個人的な事柄だった。瑠奈の指が、左の鎖骨下の痕に向かう。無意識の動作だ。
「...家族のためです」
正直に答えた。赤羽での生活。母の医療費。弟の学費。そして、自分たちが普通の生活をするためには、普通の給料では足りないという現実。すべてがそこに詰まっていた。
「母の医療費と...弟の学費があって。今の給料では...」
その先は、言葉にならなかった。だが、俊哉は全てを理解したようだった。
「...そうですか」
小さく頷いた俊哉は、再びコーヒーを飲んだ。その静かな仕草が、瑠奈の心を落ち着かせた。
「あなたは...優しいですね」
その言葉が出たとき、瑠奈の心臓が跳ねた。
「そんな...普通です」
瑠奈は謙遜しようとした。だが、俊哉は首を横に振った。
「いえ。あなたは...本当に優しい」
その言葉は、何かの確認のように聞こえた。俊哉の瞳が、まっすぐ瑠奈を見つめる。その視線の先には、社長としての冷淡さはなく、別のものが宿っていた。
瑠奈は目が逸らせなくなった。
「私は...誰かのために何かをする、ということを忘れていました」
俊哉の声は静かだった。だが、その奥には、何かが燃えているように聞こえた。
「誰かのために...自分の時間を使う。誰かの幸せを願う。そういうことが、どうしてできるのか...」
その言葉の先に、瑠奈は、この冷たい男の孤独を感じた。社長という肩書きの中で、誰のためにも何かをしてこなかった、そんな人生。
涙が、瑠奈の目に溜まった。
意識的ではなく、勝手に溢れた。なぜか、その涙は止まらなかった。
「あの...すみません」
そう言いながら、涙を拭おうとした瑠奈に、俊哉は何も言わなかった。ただ、デスクに置いてあったティッシュを手に取り、瑠奈に渡した。その動作は、確かに優しかった。
時間がゆっくり流れた。
深夜の書斎の中で、二人は何も言わず、ただ座っていた。時々、俊哉がコーヒーを飲む音が、静寂を微かに破る。それ以外は、東京の遠い音だけだった。
「もう寝てください」
そう言ったのは、俊哉だった。
「ご仕事が...」
瑠奈が言いかけると、俊哉は小さく首を振った。
「もう少し、落ち着きました」
その声に、確かに疲労は残っていたが、少しだけ、違うものが混ざっていた。それが何なのか、瑠奈には分からなかった。
翌朝。
リビングで朝食を用意していた瑠奈は、リビングに現れた俊哉を見た。昨夜と同じように、彼の下には黒いくまがあった。だが、その表情は、夜中のデスク前よりは、少しだけ柔らかく見えた。
「おはようございます」
瑠奈が声をかけると、俊哉はテーブルに着いた。用意された朝食を見つめた。焼き魚、味噌汁、白米。シンプルな和食だ。
「...昨夜はありがとう」
改めて、そう告げた。その言葉は、社長の言葉ではなく、本当に感謝する人間の言葉だった。
「いえ...こちらこそ」
そう答える瑠奈の心臓は、昼間だというのに、夜中のような高鳴りを感じていた。その鼓動が、自分の心の変化を教えていた。
(この人のことが...)
その先の言葉は、まだ、瑠奈は口にすることができなかった。だが、確実に何かが変わった。深夜の書斎で、疲れた男の顔を見た瞬間から。
温かいコーヒーが、ゆっくりと白い湯気を立てていた。