冷酷な御曹司に溶かされて
平凡なOL・桐原瑠奈は、突然大企業グループの御曹司・白銀俊哉から契約結婚を申し込まれる。経営戦略の一環だと聞かされ、引け目を感じながらも条件に同意した瑠奈。冷たく無表情な彼は、結婚式の日も結婚後もこれは契約だと繰り返すばかり。高級マンションでの新婚生活は気まずく、瑠奈は息を詰めるような日々を送っていた。
白銀家の社交界デビューで晒される瑠奈を見守る俊哉の瞳は柔らかく、その矛盾に瑠奈の心が揺れ始める。やがて彼女は気づく——俊哉の冷酷さは本当の優しさを知られたくない防御なのだと。秘書の美しい女性が執拗に俊哉に接近してくると、瑠奈の心に初めて嫉妬が芽生える。俊哉も同じ気持ちなのか、彼は瑠奈の手を離さなくなり、二人の距離は劇的に縮まっていく。
しかし、契約結婚という建前が邪魔をする。瑠奈は本当に愛されているのかという不安に押しつぶされ、俊哉は契約という枠を超えた本音を告げるべきかで葛藤する。密着する中で交わされるキスも、抱き寄せる手の温もりも、すべてが疑いの種になってしまう。同時に、俊哉の経営する企業の内部告発問題が浮上し、瑠奈が関わっていることが明かされようとしていた。
真実の愛なのか
冷酷な御曹司に溶かされて - 第26話
あの夜のことを、瑠奈はまだ引きずっていた。
俊哉の「契約はやめよう」という言葉。自分の口から出た「一緒にいたい」という告白。あの瞬間は確かに存在した。でも、夢だったのではないかという気持ちが、翌朝になっても消えなかった。
レジデンス・プラティーヌ白金の32階。朝の光が、広いリビングに斜めに差し込んでいる。カーテンを少しだけ開けると、港区の街並みが遠くまで広がっていた。白金台の整った街路樹、静かな住宅街。どれも、自分の育った赤羽とは違う。
(ここに、いてもいいんだろうか)
その思いは、消えない。昨夜の温かさを知っているのに、朝になるとまた迷子になる。瑠奈はそういう人間だった。
キッチンでコーヒーを淹れながら、昨夜のことを頭の中でなぞり返す。俊哉の声。あの腕の感触。「本当の夫婦として」という言葉。全部、本物だったはずだ。なのに——
玄関の靴が、一足少ない。
俊哉は、もう出かけていた。
「……そっか」
声に出してみると、思ったよりも小さかった。コーヒーのカップを両手で包む。温かい。それだけが今、確かなものだった。
メッセージが一件。俊哉からだ。
《早めに出た。夜は帰れる》
それだけ。でも、以前なら連絡すらなかった。瑠奈は少しだけ笑ってから、カップを口に運んだ。
——午前10時。丸瀬食品、4階営業事務部。
いつもどおりの蔵前のオフィス。受発注のデータを確認しながら、瑠奈は自分を「普通の桐原瑠奈」に戻す作業をしていた。白金台の感覚を、ここに持ち込まない。それが、二重生活を保つためのルールだ。
「ねえ、昨日の件、どうなったの」
隣の席から、千紗の声。26歳、明るくて世話焼きな親友。彼女の声はいつも少しだけ大きくて、オフィスの空気を和らげる。
「[gentle]……まあ、落ち着きました」
「え、それだけ? 昨日の電話、声が震えてたじゃない」
「[whispers]ちょっと、声が……」
周りを見回して、瑠奈は千紗に近づいた。
「[whispers]ちゃんと話しました。……色々と」
千紗が目を丸くした。ニヤリとした顔が、瑠奈の顔を覗き込む。
「『色々』って何? ねえ、ちゃんと言って」
「[whispers]言えないってば」
思わず笑ってしまった。千紗も笑った。こういう時間が、瑠奈にとっては大切だった。上流社会とも契約とも関係なく、ただの26歳の自分でいられる時間。
「……良かったじゃない、やっぱり」
千紗がそっと言った。その声は、さっきより低かった。
「[gentle]顔が、ちょっとだけ柔らかくなってるよ。瑠奈」
瑠奈は答えなかった。でも、それが答えだった。
——昼休み。
一人でコンビニのサンドイッチを食べながら、瑠奈はスマートフォンを眺めていた。特に見るものもないのに、画面を開いてしまう。俊哉からの新着メッセージはない。
それでいい。仕事中だろう。白銀タワーの38階で、何十人もの役員と向き合っているはずだ。
(それでも、気になる)
自分でも困ってしまうくらい、気になる。統一郎の問題は一応の決着がついた。でも、本当に終わったのかどうか、まだ分からない。
サンドイッチを一口食べる。ツナマヨ。普通の味。赤羽で育った頃から変わらない味だ。
(私は何をそんなに怖がってるんだろう)
昨夜の幸せが、本物じゃなかったらどうしようという怖さ。うまくいきすぎていて、何かが崩れそうな気がするという怖さ。契約から始まった関係が、本当に変われるのかという怖さ。
全部、頭の中にある。消えない。
左の鎖骨の下、星形の痣に手が触れた。無意識の仕草。この痣のことを、俊哉が昨朝じっと見ていた。「何でもない」と言ったけれど、その目は何でもなさそうではなかった。
(何を、見てたんだろう)
その疑問だけが、ずっとくっついている。
——午後6時。
帰りの都営三田線。満員電車の中で、瑠奈は吊り革を掴んでいた。窓の外に地下のトンネルが続く。白金台の駅まで、まだ少しある。
スマートフォンが鳴った。
俊哉からではなかった。知らない番号。
少し迷ってから、電話に出た。
「[cold]……桐原瑠奈さんですね」
男の声だった。落ち着いた、でも何か冷たいものを含んだ声。
「[scared]……はい、そうですが」
「少しお時間をいただけますか。白銀統一郎の件で、確認したいことがあります」
瑠奈の手が、吊り革を強く握った。
統一郎。副会長職を解かれた、あの人。
「[scared]……どちらさまですか」
「名前はまだ言えません。ただ——あなたが知らないことが、まだあります。あなた自身に関係することが」
電車のノイズの向こうで、その声はくっきりと聞こえた。
「[scared]私に……関係?」
「あなたの鎖骨の痣。星形の」
瑠奈は固まった。
電車の揺れも、周囲のざわめきも、全部が遠ざかった気がした。肺の動きが止まる。その痣のことを、この声の主は知っている。なぜ。
「[cold]白銀俊哉があなたを選んだのは、偶然ではありません。あの痣には意味がある。俊哉さん自身も、それをご存知のはずです」
「[scared]……何を言ってるんですか」
声が震えた。
「今すぐ詳細は話せません。ただ、一つだけ」
一拍の間があった。
「[cold]あなたは、契約される側ではなく——ずっと前から、目をつけられていた側です」
電話が切れた。
プツン、という音だけが残った。
瑠奈はしばらく、スマートフォンを耳に当てたままでいた。電車は止まっていた。白金台の駅だ。ドアが開く。人が流れる。
でも、足が動かない。
(ずっと前から、目をつけられていた)
その言葉が、頭の中でぐるぐると回っている。俊哉が自分を選んだのは偶然ではない。鎖骨の痣に意味がある。俊哉も知っている——
「お降りの方は……」
ドアが閉まりかけた。慌てて飛び降りた。ホームに出た瞬間、足がふらついた。壁に手をついて、深呼吸をする。
(落ち着いて。落ち着かなきゃ)
でも、落ち着けなかった。あの声が言った言葉は、ただの嘘や脅しとは違う気がした。根拠はない。ただの直感だ。でも——俊哉があの痣を見た時の、あの目。あの沈黙。「何でもない」という一言では片付かない何かが、確かにあった。
エレベーターでマンションの32階へ上がりながら、瑠奈は考えた。俊哉に聞くべきか。あの電話のことを、全部話すべきか。
でも、聞いたら。
答えを知ってしまったら——
「[serious]何かあったか」
玄関を開けた瞬間、俊哉がリビングから声をかけた。珍しく早い帰宅だった。ネクタイを緩めたまま、書類から顔を上げている。その視線が、瑠奈の顔に当たった瞬間、表情がかすかに変わった。
「[serious]……顔色が悪い」
「[scared]大丈夫です、なんでもなくて……」
嘘だった。声が出なくなりそうなくらい、動揺している。
俊哉はゆっくりと立ち上がり、瑠奈の方へ歩み寄った。その目が、まっすぐに瑠奈を見ている。いつもの冷静な目。でも、その奥には——
「[serious]嘘をつく時、左手が動く」
静かな声だった。
瑠奈は自分の左手を見た。気づかないうちに、鎖骨の下に向かっていた。星形の痣の、真上に。
沈黙が、二人の間に落ちた。
俊哉の目が、その手に向けられている。その視線には、瑠奈が今まで見たことのない何かがあった。苦しさのような、決意のような——
(聞かなきゃ)
瑠奈は、深く息を吸った。
「[scared]……あなたは、この痣のこと、知ってるんですか」
俊哉の目が、止まった。
答えが返ってこない一秒が、ひどく長く感じられた。